Stop the time forever






「身代わりのはずがないんや」
 もう一度繰り返す社の言葉に、ヒカルは何故かと聞き返せなかった。
 まるで違う国の言葉でも聞いたみたいな顔をして、分からない、と首を振る。
 社に分かるはずがないのだ。ヒカルがどんなふうに頭の中で佐為やアキラと碁石を打っていたか。
 それなのに社はその目に確信を含んで、ヒカルを諭すように話を続ける。
「俺な。去年の北斗杯が終わってから、お前らの棋譜をずっとチェックしてたんや。手に入るもんには全部目ぇ通した。それから、お前がおかしくなった頃の棋譜も見た」
 ヒカルは息を飲む。
「お前、塔矢が身代わりや言うたな。でも身代わりのはずがないんや。お前の大事なその人と、塔矢では、お前に果たしとる役割が全然違うはずなんやから」
「……違う……?」
 なんて言ったらええかなあ。社はほうじ茶を啜りながら思案している。ヒカルも手の中の湯のみの存在を思い出し、気持ちを落ち着かせるために口をつけた。……薄かった。
「せや、違う。お前、よく考えてみい。お前、ほんまに身代わりにしてたんか? 思い出してみ、お前が塔矢を身代わりにしてると勘違いしたきっかけを。お前はお前の頭ん中とやらで、そいつらに何させてたって?」
「何っ……て……」
 ヒカルは混乱する頭で忌まわしいきっかけを思い起こす。
 佐為のように囁いたアキラの声。その声の存在に気づいてから、ヒカルの心は彼との対局に閉じこもろうとした。そうだ、今思えば、メールで対局をやりとりしていた時も、すでに自分の中に幻を作り出しかかっていたのかもしれない。
 佐為の代わりと、打つために。
「対局……したよ。頭の中で」
「そんなことは分かっとる。肝心なのは、そいつらの位置や」
「位置?」
「お前の頭ん中の碁盤で、そいつらはどこに座っとる。」
「どこって……」
 ヒカルの記憶は再び巡る。彼らはどこに座っていたか?
 ヒカルは佐為との懐かしい日々を思い出した。そして佐為が消えてからの日々を。
 佐為はいつもヒカルの背中を守ってくれていた。佐為の一手はヒカルの一手となり、今も確かに息づいている。
 後ろから佐為の扇子が伸びる。そうだ、佐為ならこう打つだろう。何度も佐為に助けられた。その助けを自分の力に変えていくことで、佐為の思いに応えられると思っていた。
 では、アキラは?
 アキラは……、碁盤を挟んでヒカルと向かい合っている。アキラの一手を待ち、彼の打ってきた場所にどう打ち返すかを考える。
 アキラがこう来るなら、自分はこう打つだろう。アキラの一手に、ヒカルの一手が応える。黒と白の石で埋められていく碁盤。
 ヒカルははっと目を見開いた。
「お前、言うたな。俺の打つ碁の中にそいつがいるって。そんでもって言うたよな。塔矢がこう打ってきたら、俺はこう打とうって考えるって」
「あ……」
「それは、塔矢がそいつの代わりにお前と打ってることにはならんとちゃうのか」
 ヒカルが握りこんだ手のひらの中で、湯のみの水面が輪を作る。
 そんなはずは。反論は声にならない。
 身代わりにしていると思った。頭の中に響くアキラの声に、それで自分は振り向いてしまったのだと。
 でも、そうじゃなかった? 佐為とアキラの立つ場所が違う?
 では、自分の頭の中にいるアキラは一体何だというのだろう?
「さっきも言うたけど、俺はお前らの棋譜を細かくチェックしてた。お前の言うことが本当なら、その大事な人がお前を見出して、碁を教えたんやろ。つまり師匠みたいなもんや。俺の考えが間違ってないんなら、お前の碁は相当そいつの影響を受けている」
 ヒカルの目にはもう否定の色は浮かばなかった。ただひたすら驚愕の眼差しで社の話を聞く。
「それなのに、お前と塔矢の碁はまるきり違う。お前が言うには、塔矢とかなり打つようになってから身代わり疑惑が発覚したわけや。ところがその直前のお前の棋譜に、塔矢の影は見えん。塔矢とお前の碁は違う」
 ヒカルは再び目を見開く。
 「塔矢と俺の碁?」と口の中で呟き、社は「そうや」と頷いた。「違う?」と再び小さな声で聞き返すヒカルに、社もまた「そうや」と頷く。
「塔矢とお前の碁は違う。だから身代わりになるはずがないんや。お前が本気で塔矢を身代わりにしようと思ってたんなら、お前は塔矢の碁を打つはずなんやから」
 瞳が渇いて痛くても、ヒカルは瞬きができなかった。
 今しがた事情を知ったばかりのはずの社が、いとも簡単に自分で辿り着けなかった答えを出した。信じられないのに、自分は社の言葉をもう疑ってはいない。
 自分と佐為の碁がまるきり同じだとは思わない。
 だが、自分の中に佐為がいる以上、彼の一手が自分の一手となって生きているはずだ。
 しかし、アキラと自分の碁は違う。
 そうだった、ヒカルはアキラのような碁を打ちたいわけではなかった。打つ手に困った時も、アキラならこう打つだろうとは考えたことがなかった。
「……分かったか? お前は塔矢を身代わりにしようとしたんやない。ただ、塔矢と碁が打ちたかっただけや」
「そ……んな」
 社の言う通りだ――頭では分かっていても、ヒカルは必死で首を横に振る。
「じゃあ、俺の頭の中にいる塔矢は何なんだよ? アイツの代わりじゃないなら、何で塔矢は俺の中で俺と碁打ってんだ!」
 社はやれやれといった様子で肩を竦め、わざとらしいため息をつく。ヒカルの真剣な表情を横目に、ほうじ茶を啜りながら告げる声には、棘がたくさん顔を覗かせていた。
「あのなあ。一般的に、特定の人間だけが頭ん中を占めるっちゅう状況が、どういう場合に起こるか分かるか?」
「……?」
「お前、塔矢と打ちたいんやろ」
「……打ちたい」
「今も打ちたくてしゃーないんやろ」
「打ちたい」
「打つほかにも、したいことあるんやないのか」
「打つほかに……?」
 ヒカルの心がアキラの元へ飛んでいく。
 待ち望んだアキラとの対局。向かいに座るアキラの放つ一手に、歓喜に震える指が新たな一手で応える。きっと展開は速いだろう。アキラもヒカルの溜め込んでいた思いに応えてくれるはずだから。
 そうして満ち足りた対局が終わり、アキラは怒るだろうか、笑うだろうか。怒られるかもしれない、でもその後は笑ってくれるといい、と思う。
 二人だけの時に見せる、ひどく優しい笑顔でヒカルを見つめるアキラの眼差し。「待っていた」と言ってくれるだろうか。その声を聞いたら、自分は何もかも忘れてアキラの胸に縋りつくかもしれない。ヒカルの好きなアキラのニオイの中で、また、いつかの夜のような優しすぎるキスをねだってしまうかもしれない。
「その顔!」
 ふいにヒカルの鼻先を指差して怒鳴った社の声で、ヒカルは現実に呼び戻される。
 まだ半分夢の中にいるような呆けた目をうろうろ彷徨わせていると、社はもう一度「その顔や、その顔!」とヒカルの鼻を豚のように潰した。
「さっきのお前の話聞いてて、なんや妙やと思ったら、その顔や! お前の大事な師匠のことを話してる時と、塔矢のことを話してる時とじゃ顔が全っ然違う! 師匠の身代わりにしてる男のことをそんな顔して話すかい!」
「そ、そんな顔ってどんな顔だよ?」
「その、思春期の女子みたいな顔や! 無自覚もええ加減にせんかい!」
 ――絶句。
 ヒカルはまさしく絶句した。
 同時に、熱がどんどん身体を上昇して、首から頬から耳から湯気が出そうなほどに赤くなっているだろうことが分かる。何か言おうと口を動かすが、「し、しゅ、ししゅ?」と意味不明な言葉しか出てこない。
 そんなヒカルの様子がまどろっこしくて仕方ないのか、社はもう何度目か分からない後頭部をがしがし掻き毟る仕草を見せて、「だーっ、お前ら、俺に男同士のキューピッド役までさせる気かい!」と脚を踏み鳴らした。
 社が左手に持つ湯のみが揺れて、薄いほうじ茶がヒカルの足にかかる。すでにぬるくなっていたそれでジーンズが濡れても、真っ赤に熟れたヒカルは気づかない。
「お前は塔矢に惚れてるんや!」
 ヒカルの息が止まった。
 ヒカルの時間も止まった。
 目の前で自分に人差し指を突き立てている男の姿が、ぼんやりぼやけて形を変える。
 顎のラインで切り揃えた黒髪がじわじわ形を成し、その意志の強い瞳が真っ直ぐにヒカルを見据えた。
『キミが好きだ』
 キミが好きだ。
 キミが好きだ。
 ――キミが好きだ!
「!」
 ヒカルの中で何かが弾けて飛び散った。
 止まっていた時間が動き出す。
 ヒカルはようやく、初めてアキラとキスをしてから一年半、アキラが何度も告げた言葉の意味を理解したのだ。






社、「野性のカン」スキルをMAXまで鍛えてるんでしょうか。
私はトラウマ引きずって、心の奥で
深いものを抱えるヒカルを書くのが苦手みたいです。
(読むのは大好き。すごく切ないけど好き。)
思えばバカと脳天気カップルを書きたくてアキヒカ始めたのでした。