スクランブルマーチ






 その場所でよく彼を見かけた。


 週に一度、いや特に日を決めている訳ではなかったが、毎月何度か訪れる大きな本屋が目当てだった。
 その本屋にはすでに顔なじみになった店員がいて、他の本屋では調べる前から断られそうな古い囲碁の本もしっかり探して見つけてくれて、利用者としては有り難いことこの上ない。
 ただ、その本屋に行くためには途中とても大きな交差点を通過しなければならなくて、それだけがいつも心を僅かに騒がせる。
 多くの人が青信号と共にどっと混じりあうスクランブル交差点。
 その場所で、アキラはよくヒカルの姿を見かけた。





 ***





 初めてヒカルの姿に気付いた時、彼は隣にいた棋士の友人と何事か談笑していたようだった。
 アキラがいる場所の対角線上、斜に交差点を突っ切ればすれ違うだろうその場所で信号が青に変わるのを待っている。
 大きな交差点で、平日の夕方ということもあり、信号が切り替わるのを待っている人々は不快なほど大勢だった。
 そんな人混みの中でも、ひときわ目立つ金色の前髪。
 信号が青に変わり、アキラはまっすぐ対角線の向こう側を目指す。ヒカルも友人と笑い合って歩いて来る。
 二人の間には数え切れないくらいの人が壁を作り、大きな交差点の中央で恐らくかなりの人を挟んですれ違ったのだろうけれど、その瞬間はアキラにも分からなかった。
 気付けばアキラは交差点を渡りきり、振り返った時はヒカルの姿は街に紛れて見えなくなっていた。




 あの日は雨だった。
 相変わらず人の多いスクランブル交差点では、信号待ちをしている間にも周囲の傘とアキラの傘がぶつかりあって居心地が悪かった。
 先程ぼんやり歩いていたせいで水たまりに足を突っ込み、右の靴はすっかり濡れて気持ちが悪い。
 早く用事を済ませて帰宅したかったアキラの目に、再び見覚えのある姿が飛び込んで来た。
 青い傘を手にした金色の前髪。斜に傘を構えているせいで顔がはっきりと分かる。
 ヒカルは、以前のようにアキラの対角線の向かいで傍の誰かに話しかけているようだった。
 アキラは隣の青年に目を凝らすが、どうにも見覚えがない。棋士ではないのかもしれない。アキラと違って快活で友人の多そうなヒカルには、棋士以外にも友達くらいたくさんいるのだろう。
 信号が青に変わった。人々は一斉に歩き始める。地面でぴたぴたと水が跳ね、靴に裾に汚れた斑点を作る。
 色とりどりの傘の花が咲いたスクランブル交差点で、アキラとヒカルは再びすれ違った。
 周りと、自分の傘さえもが邪魔をして、いつすれ違ったのかはやはりアキラには分からなかったけれど。
 交差点を渡り終わったアキラが振り返っても、やはり青い傘はその他の傘に紛れて何処に行った分からなくなっていた。




 あれは少し予定が遅くなって、すっかり日が落ちた頃だったと思う。
 空が暗くなっても街は何処も眩しく賑やかで、華やかな光と音楽は目も耳も休ませてはくれない。
 目を細めて信号待ちをするアキラは、その狭い視界の端にまた見慣れた人の存在を捉えて、ぱちぱちと瞬きをした。
 随分遅い時間だったのに、ヒカルはやけに砕けた格好でそこにいた。アキラの対角線上、遠く離れた向こう側。
 その隣には見たことのない女性の姿があった。
 ヒカルが首を傾げて、何か彼女に話しかけているのが見える。彼女は軽く顎を上げて、ヒカルに相槌を打っているようだった。
 人の流れが突然前進した。信号が青に変わっていたらしい。アキラは慌てて波に合わせて足を踏み出す。
 目で追っていたヒカルとその女性の姿は、もうすぐ交差点の中央に差し掛かるところで人に混じって見失った。
 交差点のまん中で後ろを振り返ったアキラは、もう何処にも彼らの姿を見つけだすことができなかった。










 そんなことが何度か続いて。
 アキラはいつもヒカルに気付いていたが、ヒカルは常に誰かと一緒で声をかけたことは一度もなかった。
 翌日や数日後に棋院などで顔を合わせても、お互いその話題になることはなかったから、恐らくヒカルはアキラの存在には気付いていないのだろう。
 だからアキラも口にするつもりはなかった。
 あの日、またヒカルを見かけるまでは。


 スクランブル交差点の向こうでヒカルを見つけた時、アキラは無意識に彼の周りの人の顔を探った。
 見覚えのある姿はなく、また信号待ちをしている彼らの誰一人としてヒカルに話しかける人物はおらず、ヒカルもまた誰かを振り返ることなく真直ぐに前を見たまま青に変わる信号を待ち続けている。
 誰かと一緒ではないのだろうか? アキラは疑り深くヒカルをぐるりと囲む男女を睨めつけた。
 信号が青に変わり、人々は動き出す。アキラは尚も眉間に皺を寄せたまま、こちらに向かって歩いて来るヒカルの周りを確認しようとしている。
 ふと、いつもならこの辺りでヒカルを見失ってしまうというところまでやって来た頃、何故か人に隠れてしまうヒカルの姿がはっきりとアキラの視界から消えずに、それどころかアキラに向かって来ているということにようやくアキラは気付いた。
 思わず立ち止まったアキラの正面に、ヒカルが黙って歩いて来る。
「よう」
 人の流れの中心で、アキラとヒカルは動きを止めた。
 アキラの目の前で、ヒカルが屈託のない笑顔を浮かべている。
 アキラは瞬きしたまま、「あ、ああ」とよく分からない返事をした。
 ヒカルに合わせて立ち止まる人間は一人もいない。
 アキラはそこで初めて、ヒカルが一人で交差点にいたことを悟ったのだった。
「何? お前こんなとこ来るの?」
「あ……、まあ、ね。この先の本屋に用事があって」
「本屋か、いいな。ちょうど探してるのあったんだ。つき合うわ」
 呆気無くそう告げたヒカルは、くるりと身体を回転させ、たった今彼が歩いて来たはずの場所へ戻るべくアキラの隣に並んだ。アキラは驚いた顔のまま、しばらく人の流れを不自然にとめる栓のようになっていたことに気付き、慌てて足を動かし始める。
 ヒカルと一緒に同じ方向に向かって交差点を渡り切ったのは初めてのことだった。



 本屋でいつものようにアキラが本の取り寄せの手続きをしていると、ヒカルが一冊の本を手にしてレジへとやって来た。アキラに向かってへら、と笑ったヒカルは、持っている本をひらひら振って見せている。
「すげーな、ここの品揃え。すぐ見つけた。お前、こんなイイ本屋もっと早く教えろよ」
 そんなことを言いながら、ヒカルは嬉しそうにレジへ本を差し出した。尻のポケットからぺたりと潰れた財布を取り出し、慣れた様子で数枚の札を取り出す。
 精算を終えたヒカルが注文を終えたアキラの元に戻って来て、袋を小脇に抱えて満足そうに笑っていた。
 入って来た時と同じように並んで本屋を出て、再びあのスクランブル交差点で足を止める。
 アキラは時計を見た。交差点でヒカルと出逢ってから三十分以上は経っている。本屋につきあって大丈夫だったのだろうかとヒカルに顔を向けると、ヒカルもまたアキラを見ていて首を傾げた。
 その仕草は、よくアキラが交差点の向こう側で目にしたものと同じだった。
「何?」
 声でも尋ねられ、アキラは一瞬口籠り、少し出だしをつっかえながらも話し出す。
「いや、いいのかなと思って。……何処かに行く予定があったんじゃないのか?」
「俺? なんもねえよ。ちょうど暇だったんだ。……そういやお前一人暮らしして結構経つよな。行ってもいい?」
「え?」
 アキラはヒカルと会った時のようにぱちぱちと瞬きをした。
「お前んち。行ってもいい?」
「……これから?」
「うん。ダメ?」
 悪びれずそんなことを聞いて来るヒカルはやはり首を傾げて、そのにこやかな様子に何だかアキラは毒気を抜かれてしまったような気がした。
 別にこの後何か用事があった訳でもなく、身体が疲れている訳でもなく、断る理由もなかったアキラは、曖昧に頷いた。
 ちょうど暇だった。――ヒカルの言葉を引用して考えれば、彼にとってはただの暇潰しに他ならないのだろう。
 信号が青に変わり、ヒカルが歩き出す。まるでその後を追うようにアキラも歩き出す。
 人混みの中、並んで交差点を渡り切ったアキラは、いつもの癖で少しだけ後ろを振り向いて、対面の景色に今隣にいるはずのヒカルの残像を探してしまった。




 部屋に訪れたヒカルは、見るもの触るもの全てが珍しいといった様子で、実に賑やかにアキラの部屋中を物色をしていた。
 そのうち、途中のコンビニでこっそり購入したお酒なんかも口にし始めて、ここに来るまでは一局打つか、なんて話もしていたはずなのに、結局碁盤には触れることがなく。
 何故だかお互いの肌に触れるべく手を伸ばしていた。

 酔った弾みだったのだろうか。
 それとも心の奥底にこんな願望があったのだろうか。
 ヒカルの上で獣に変わった自分に愕然として、慣れているはずの自分のベッドの上、裸の上半身を持て余したように起こし、呆然とアキラが毛布の下の自分の太股を見つめていると、隣に転がっていたヒカルがおもむろに肘をつき、自分の手を枕にアキラを見上げてぽつりと言った。
「なあ、俺たち……つき合うか。」
 その台詞にアキラは目を見開いて、勢い良く振り返った先にあったヒカルの笑顔にすっかり魂をとられてしまったように、沸き起こるあらゆる感情が力なく萎んでいくのを身を持って感じていた。





 ***





 そんな始まりだったものだから、アキラは正直なところヒカルの言葉を信用しておらず、大方酔っ払ったヒカルが冗談でそんなことを口にしたのだろうと思っていた。いや、そう思わないと自分が可哀想な気がしたのだ。
 気の毒にもアキラの胸はヒカルを見ると不規則に揺れるようになり、アキラは自分の心がすっかりヒカルに奪い取られてしまったことを自覚せざるを得なかった。そんな自分が、彼の気紛れを本気にしてしまってはきっと傷付くばかりでやりきれない。ヒカルを信じないことは、アキラにとっての防御でもあった。
 しかしヒカルはあの日の出来事を忘れてはいないようだった。
 棋院でアキラを見かけてはにこにこと笑顔を返し、時折碁会所で打った後も「お前の家に行っていい?」なんて尋ねてきて、アキラが躊躇いながらも頷いて二人で部屋に行った後は、初めての時みたいに獣よろしく絡まりあって。
 腕の中ですやすやと無邪気に眠るヒカルを何処まで信じて良いのか、アキラは自分の理性に対して眉を寄せて考え込む。
 このまま本気で転げ落ちて、ヒカルに引き込まれてしまったら、もし彼がこの手から離れて行った時に自分はどうなってしまうのだろう。
 それは怖くて、そのくせ酷く甘美な色と隣り合わせの危険な悩みだった。