スクランブルマーチ






 二人きりでいる時のヒカルはいつも子供っぽい。
 大量にお菓子を買い込んで来たり、くだらないテレビ番組を見たがったり、碁盤に棋譜を並べるアキラの背中に寄り掛かってきたり、構えと腕を引っ張ったり。
 そんなヒカルに戸惑いながら、ぎこちなく抱き寄せるとヒカルは嬉しそうに額をアキラの肩に乗せる。
 ヒカルとつき合いだしてから覚えたキスは触れるだけが精一杯だった。
 ほんの一瞬、目を閉じた時に見えなくなるヒカルの表情がどんなものか、考え出したら怖くなって。


 一緒にいる時は目まぐるしく変わるヒカルの表情に驚かされながらも、酷く幸せだった。
 それでもアキラは心底ヒカルを受け入れられずにいた。
 臆病な心は傷付くのを怖れ、いつ訪れるとも知れないヒカルの心変わりを危惧していた。
 だってあんな冗談みたいな始まり方。――全てを偶然に任せた唐突なスタートに、不安を感じないならそれは本気で相手の事を想っていない証拠ではないだろうか?
 そんな疑心暗鬼がアキラを包み、自己嫌悪に陥りながらも悪い予感を追い出せずにいた。


 アキラが不安を感じる理由のひとつに、ヒカルの交友関係が華やかであることがまずあった。
 つき合い始めてからも、アキラは何度かあのスクランブル交差点でヒカルの姿を見かけたことがあった。
 今のような関係になるきっかけとなったあの日のようにヒカルが一人でいることはなく、必ず隣に一人以上の友人が並んでいた。
 それはアキラも見たことのある棋士だったり、全く知らない男友達だったりと様々で、ヒカルの周りにはたくさんの人がいることを改めて思い知らされる光景だった。
 人混みに紛れて青信号を合図に交差点を渡り始めれば、どっと動き出す人の流れに途中でどうしてもヒカルを見失う。振り返った視線の先にはヒカルの背中を見つけることはできず、その度にアキラはやりきれない想いが胸の中で膨らんで行くのを感じていた。


 だから、アキラからヒカルに何か誘い掛けることは一度もなかった。
 誘って、断られるのが怖かったのだ。
 いつも声をかけるのはヒカルから。それも、言わなくても良いことまで彼は律儀に報告してくれる。
「今日お前ん家に行こうと思ったんだけど、和谷がどうしても来いってうるさくてさあ。」
「明日さ、中学ん時の友達から遊び誘われてて、ちょっとカラオケ行って来る」
「イベントで上田先生と仲良くなってさあ、今度ごはん食べに連れていってもらうんだ〜」
 ヒカルが他の誰かと楽しく過ごすことを想像する度、アキラはぴりぴりと腹の奥が引き攣れるような嫌な感覚に襲われた。
 それが時折ならばまだ良かったのかもしれないが、ヒカルがアキラにいちいち断りを入れて遊びに出かけることは随分頻繁にあった。少なくとも、アキラにはそう感じられた。
 二人で過ごす時間よりも、アキラ以外の人間と会っている時間のほうが余程多い――そんな穿った見方をしてしまう自分がいたたまれず、なるべく彼の事を考えないように、と頭を振る。
 ――なるべく考えない、だなんて。
 本末転倒ではないだろうか?
 仮にもつき合っている相手のことを考えないようにする、そんな状況が生まれること事態おかしい。
 深入りして傷付くのが怖いなら、こんな関係解消してしまえば良いのだ。

 ヒカルが誰かを見つめるのを、哀しいと思うなら。
 ヒカルが誰かに微笑むのを、悔しいと思うなら。

 離れてしまえば良い。それまでの二人の関係に戻れば良い。偶然に視線を合わせてしまったその前の、人混みの中ですれ違って見失ってしまう元の二人に戻ってしまえば、こんなふうに悩む必要はなくなる。
 そう結論を出そうとして、しかしアキラは口唇を噛む。
 こうして自分に言い訳し続けていることこそが、とっくに踏み入れた場所から足を引き抜けなくなってしまっている証しのようなものだった。
 あの日、初めて彼に触れた時から。
 いや、本当は、大きなスクランブル交差点の対角線上、人が溢れる向こう側の景色でいつもヒカルの姿を追っていた頃から、もうずっと心は捕われ続けている。
 おまけにヒカルの髪と、口唇の柔らかさを知ってしまった。
 もう二度と戻れやしない。もしも二人の関係が形を変えるのだとしたら、それは「戻る」のではなく「壊れる」ことなのだとアキラは悟っていた。


 せめて、その時のダメージが少しでも軽くなりますように。
 臆病な心は、少しずつヒカルと距離をとることを選び始めた。
 もしも離れてしまっても、その痛みに耐えられるよう、まるで予行演習をしているみたいにじわじわと後ずさる。
 そのくせ、二人でいる時のヒカルは相変わらず子供っぽくて甘えたがりで、身を擦り寄せられたら辿々しくも抱き寄せずにいられない。
 ヒカルはこんな自分をどう思っているのだろう? ――そんなことをふと考えて、アキラは自分達の関係がいかに曖昧なものかを思い出さなくてはならなかった。
『なあ、俺たち……つき合うか。』
 そう言ったのは確かにヒカルだったけれど、彼の口から「アキラが好き」とは一度も聞いたことがない。
 アキラの部屋で二人で過ごす時は、実に幸せそうに身を任せてくれるけれど、その無邪気な笑顔が他の人間に向けられていない保証など何処にもなかった。
 ヒカルにとっては気紛れでしかない遊びの延長だったとしても、それを問い質す勇気はアキラにはなかった。
 「ボクのことが好きか?」と。
 一言、尋ねられたら良かったのかもしれないけれど。
 傷付くのが嫌だからと、じりじりヒカルとの距離を広げようとしているアキラにそんなことができるはずもなかった。


 そんな頃だった。
 棋院の出版部で用事を終えて、ちょうどエレベーターで一階に降りて来たアキラが、開いた扉の向こうに見た光景。
 ロビーで、数人の棋士たちが談笑していた。
 その中でひときわアキラの視線を惹き付けた、金色の前髪が鮮やかな太陽みたいな眩しい笑顔。
 大きく口を開いて楽しそうに笑う彼の肩を、見知った棋士仲間がぽんと叩いた。途端に沸き起こる爆笑と、身を捩って笑い続ける楽し気な表情。
 咄嗟にアキラは「閉」ボタンを押し込んでいた。
 静かに閉まった扉の内側、もやもやと胸に巣食う言い様のない感情を持て余してアキラは顔を歪める。
 分かっている。
 これは嫉妬だ。
 ヒカルの傍にいるのが自分ではないということ。
 ヒカルの笑顔は自分以外にもあんなに容易く与えられているということ。
 それが悔しいと思いながらも明日を怖れてばかりいる自分の情けなさ。
 こんなことでいちいち苦しむくらいなら、少しずつ痛みに慣れようとせずに、一度で答えを出してしまったほうがいい。
 ようやく出した勇気がそんな結論に使われるだなんて、ほとほと呆れたアキラは自嘲気味に笑った。





 ***





 話があるから、時間がないかとヒカルを誘ってみた。
 アキラからヒカルに声をかけたのはこれが初めてだった。他愛のない誘いを装ったにも拘わらず、心臓は早鐘を打ち必要以上に緊張して、手のひらにはしっとり汗もかいていた。
 だから、ヒカルが少しだけ困惑の表情を浮かべて、
「あ……、ごめん、俺、今日……用事あるんだ」
 申し訳無さそうに断わりの言葉を告げた時、アキラはなんだか拍子抜けしたように、しかし確かな落胆混じりにすとんと肩を落としてしまった。
「そうか……、それなら、仕方ないな」
「マジでごめん。……明日なら、大丈夫だよ?」
「いや……、また、今度にするよ……」
 一度勢いを削がれてしまうと、では次だとすぐに気持ちを切り替えることができず、アキラは曖昧に言葉を濁した。
 ヒカルから何度となく誘われた時、アキラは全てそれを受け入れてきたというのに、初めてアキラが勇気を出したヒカルへの誘いはあっさりと断られてしまうだなんて、切なさと情けなさで胸が痛くなる。
 これは少し心を落ち着かせねばと、その日の指導碁を終えたアキラはまっすぐ帰宅せずに本屋へ向かうことにした。


 何処から沸いて出て来るのかと不思議になるほど、どの時間帯にも人は溢れている。
 人混みに紛れてぽつんと佇むスクランブル交差点。信号待ちする人々にはそれぞれの胸に思うところがあるのだろうが、アキラにとっては空気を圧迫する邪魔な塊でしかない。
 先日注文した本はまだ入荷の連絡がない。何か新しいものでも物色してみよう、そんなことをぼんやり考えながらふと顔を上げたアキラが交差点の向こうに見たもの。
 ……どれだけ人がひしめいていても分かる、あの金色の眩しい髪。
 ヒカルは――隣にいる女性に何か声をかけながら、そっと肩に触れていた。
 アキラは呆然と目を見開き、その光景から視線を逸らすことができなかった。
『あ……、ごめん、俺、今日……用事あるんだ』
 普段ならば、どんなくだらないことでも誰と何をするか必要以上に伝えて行くヒカルが、そういえばやけに言葉を濁していた。
 空気が流れ出し、人々が動きだしたことを身体が悟る。信号が青になったらしい。しかし、アキラの足はぴくりとも動かなかった。
 ヒカルは彼女を隣に据えたまま、こちらに向かって歩いて来る。その様子が見えたのはほんの一瞬で、後は見知らぬ人々の背中と胸に紛れてさっぱり行方は分からなくなった。
 立ち尽くしたままのアキラを不審そうに振り返る人、邪魔だと呟いて追い越して行く人、それらの人の行き来が治まった頃、再び信号は赤に変わって、ヒカルの姿はもう何処にも見当たらなかった。
 アキラの後ろには続々と人が並び、青信号を待っている。
 もう、対角線上の向こうにはヒカルはいない。
 アキラの知らない彼女と一緒に、何処かへ消えてしまっていた。