スクランブルマーチ






 それからの態度はあからさまだったかもしれない。
 ヒカルと顔を合わせないよう、徹底的に行動時間をずらした。被りそうな仕事は事前に手を回して断り、電話にもメールにも応えなかった。
 我ながら酷い意気地なしだと思う。一度はきちんと話し合おうと勇気を出したのに、それが適わず、おまけに断られた理由が他の女性と逢うためだったなんて、なけなしの希望が簡単に崩れてしまってあまりに惨めだ。
 とても冷静にヒカルと話し合える気がしなかった。
 それならばいっそ、このまま自然と彼に捨てられてしまったほうがマシかもしれないなんて、後ろ向きな気持ちを改められないまま時間は過ぎて行った。
 やがてヒカルからの電話もメールも回数が減って行き、安堵する気持ちを上回る淋しさを無理に押さえ付けながら、アキラは恐らく二度とヒカルが尋ねて来ない部屋で一人耐え続ける。
 いつか、こんなこともあったと苦い思い出に浸れる時が来るかもしれない。
 そのためにはどれほどの時間が必要なのか分からないけれど。

 そんな頃、本屋から心待ちにしていた本の入荷の知らせが入った。
 どうやらすでに絶版になっていて、在庫を保管している他の本屋を探し出し、連絡をとってわざわざ取り寄せてくれたらしい。
 アキラは気晴らしには丁度良いと本屋へ向かい、無事に品物を受け取った。



 その帰り道だった。
 駅に向かうにはあの忌々しいスクランブル交差点を渡らなければならない。あの本屋に行くためにも、本屋から帰るためにも、人で賑わうあの場所を通過しなければ目的地にはたどり着けないのだ。
 ヒカルとの連絡を絶ってから、なるべく避けていた場所でもあった。本屋に向かう時も思わず対岸に彼の人の姿を探してしまったが、見つけることはできなかった。ほっとしたのは、ヒカルが誰かと一緒にいるのを見ないで済んだからかもしれない。
 それで少し気持ちが弛んでいたのは確かだった。何しろ、アキラがヒカルの姿を見かけていたのはいつも本屋に向かう方向の向こう側で、その逆の道では一度もなかったのだから。
 だから、帰宅するべくアキラが交差点で信号待ちをしていた時、その対角線上の向こう側に見慣れた姿を見つけた衝撃は想像以上だった。
 人に紛れてぽつんと見えている金色の前髪。アキラは思わずその周囲に視線を走らせた。
 ヒカルが誰かに話しかけていないか、誰かに話しかけられていないか。注意深く観察したアキラの目には、ヒカルが一人でいるようにしか見えなかった。
 ヒカルはあの本屋の場所を知っている。一緒に向かったのは一度だけだが、随分と気に入っていたようだし、一人で出かけることがあってもおかしくないかもしれない。
 アキラはどくどくと脈打つ胸にぎゅっと拳を押し付け、自惚れるなと自分を叱咤する。
 これだけの人がいる中、ヒカルが自分に気付くはずがない。
 アキラがいつもヒカルの姿を見つけられたのは、――誰よりもヒカルを見つめているのが自分だったからだ。
 どれだけ人がひしめき合おうとも、ヒカルだけは特別だった。アキラにとって、ずっとヒカルは特別な存在だった。それなのに、関係が変わってしまったあの日――どうしてもアキラはヒカルを信じ切れなかった。
 信号が青に変わり、人々は歩き出す。
 アキラも恐る恐る一歩を踏み出した。
 人に紛れてやがて見えなくなるだろうヒカルに、ささやかな視線を送りながら。
 ところが、ヒカルは真直ぐにアキラに向かって歩いて来た。
 まるであの日を再現しているように、時折人に隠れながらも、ヒカルは迷わずにアキラを目指している。アキラがそうと確信した時、ヒカルはすでに目の前に立っていた。

 大きなスクランブル交差点のまん中で、立ち止まって動かない二人。

 アキラは愕然とヒカルを見つめ、ヒカルはきゅっと口唇を結んだ厳しい表情でアキラを見つめた。
 その顔は、まるであらかじめアキラを待っていたようにも見えた。
「……話。あったんだろ」
「……」
「なんで、電話出てくれないんだよ。メールも返事くれないんだよ。……なんで避けるんだよ」
 アキラは思わず、ヒカルの横を擦り抜けて走り出そうとした。
 アキラが地を蹴った瞬間、ヒカルも素早く身を翻して、ヒカルを躱そうとしたアキラの腕を掴んで強引に走り出した。後ろに引かれる形になったアキラは大きくバランスを崩しながらも、強い力に諍えず、結局振り返って同じ方向に走ることになってしまう。
 点滅している青信号が目に入った。二人が渡り終わる寸前に信号は赤に変わり、すぐに広い交差点は行き交う車で埋め尽くされる。
 息を切らせて、アキラは隣のヒカルを見た。ヒカルはアキラの腕を掴んだまま、同じく荒い呼吸でアキラを振り返る。
 アキラに向けられたヒカルの視線には、鋭さの中にはっきりとした哀しみの色が浮かんでいた。
 言葉を失ったアキラは、ただぱちぱちと瞬きしながらヒカルを見つめることしかできなかった。
「お前……見たんだろ。あの時、俺があかりと一緒にいたの」
「……あかり?」
「幼馴染みだよ。お前、中学ん時会ったことあるだろ」
 ヒカルが言っているのは、アキラがヒカルを避ける決定的なきっかけとなった、この交差点でヒカルの隣にいた女性のことだろう。アキラはその女性の顔を思い浮かべたが、昔会ったという記憶は綺麗に消えていた。そうだったろうか、と視線を宙に彷徨わせていると、ヒカルが焦れたように続ける。
「アイツ、つき合ってた彼氏と喧嘩したっつって俺に相談して来たんだ。あかりは妹みたいなもんなんだよ。だから、アイツとは何にも……」
 彼女と一緒にいたことの言い訳をするヒカルに驚いたが、その妹のような存在に自分は負けたのだと思うと無性に苦しくなって、アキラは苦々しく口唇を噛んだ。ついとヒカルから目を逸らし、
「……そんなの、ボクには関係ない……」
 思ってもいないことを口にしたその途端。
 アキラの腕を掴んだままだったヒカルが、その手にぐいと力を込めた。あまりの力強さに痛みを感じ、眉を顰めたアキラに構わずヒカルは突然怒鳴り出した。
「……なんでっ、そんなこと言うんだよ!」
 周囲の人間が何事かと振り返る。信号待ちの人々が物珍し気に無遠慮な視線を向けても、ヒカルは臆する素振りを見せなかった。アキラ一人が狼狽えて、怒鳴るヒカルを呆然と眺めているばかり。
 ヒカルは今にも泣き出しそうな顔をして、苦痛に顰めた眉を震わせ堰を切ったようにまくしたて始めた。
「関係ないなんて言うなよ! 俺たちの関係って何なんだよ!? なんで何も言わないでよそよそしくするんだよ! 俺らつき合ってるんじゃなかったのかよっ!」
 ヒューと何処からか下世話な口笛が聴こえて来た。それも耳に入っていないのか、ヒカルはアキラから目を逸らさない。
 やがてアキラとヒカルを取り残し、人々はまた大きな流れで動き始めた。再び信号が変わったのだろう、広いスクランブル交差点で様々な人々が行き交い通り過ぎて行く。
 人混みに押されるのも無視して、ヒカルは真直ぐにアキラを見つめ続けた。それはずっとアキラが自信を持てずに避けて来た行為でもあった。
「なんで俺が、この交差点でお前を見つけられたと思う? ……俺、ずっとお前のこと見てた。あの日だけじゃない、お前がここ通る時何回もすれ違ってた。どんなに人がたくさんいたって、お前のことすぐ見つけられた。お前は気付いてなかっただろうけど……。何度もお前の姿見かけて、でも声かけられなくて、やっと初めてお前に話しかけた時……俺がどんだけビビってたかなんてお前、知らないだろ?」
 アキラは目を見開く。
 大きく開いた瞳の中に、震える口唇で涙混じりの声を漏らすヒカルが映っていた。
「俺、すげえ嬉しかったんだ……。お前が応えてくれて……。でも、お前なんにも言わねえし、俺ばっか張り切っててバカみたいで、ひょっとして俺が一人で盛り上がってるだけかなって……」
「……進藤」
「お前に話あるって言われた時、嬉しかったけど、怖かったんだよ。やっぱり今までのなかったことにしようって言われたらどうしようって。それに、あかりと約束してたのは本当だったから……。だから俺、怖くて逃げたんだ。……でも、もうダメなのか? たった一回しか俺にチャンスくれないの? ……俺たち、終わるの……?」
 交差点の向こう側でよく目にしていた時と同じように、頼り無く小首を傾げる仕草。
 アキラはきっと口唇を噛み、きつく目を閉じた。
 そうして天を仰いで浅く息をつく。自分の愚かさを呪うように。

 ――たった一度、声をかけただけで勇気を出しただなんて勘違いも甚だしい。
 ヒカルがずっと、ひたむきな目を向けてくれていたことにも気付かないで。

 彼はいつだって素直に振る舞っていたに過ぎなかったのだ。
 自分一人が余計なことを考えて、自分の中だけで膨らませて、勝手に答えを出そうとしていた。
 ヒカルは逃げてなどいない。アキラが、ずっとヒカルから逃げていたのだ。
 彼の口から「アキラが好き」とは一度も聞いたことがない――しかし、アキラこそ彼に一度でも「好きだ」と告げたことはなかったではないか。
 薄ら瞳を潤ませて、アキラの反応を待っているヒカルに、アキラはようやく真直ぐな視線を向けた。
 もう、何もしないで悩むのは終わりにしよう。
 アキラは自分の腕を掴んでいるヒカルの手のひらにそっと触れて、少し照れくさそうに微笑んだ。
「……終わりじゃないよ」
 ぽつりと呟き、そしてヒカルに告げた。
「……これから、始めても良いだろうか……?」
 ヒカルが一度瞬きした弾みで、すでに目尻に溜まっていた滴がぽとりと落ちた。
 今までヒカル一人に任せていたことを、これからは自分も一緒にしていこう。
 そして、どれだけアキラがヒカルを見ていたか、この交差点でいつもヒカルを見つめていたか、恥ずかしがらずに伝えてみよう。
 力の弛んだヒカルの手がはらりとアキラの腕から滑り落ち、代わりにアキラはその手をきゅっと握り締めた。
「行こうか」
「……どこに?」
「ボクの家」
 話したいことがたくさんある。でも、まずは謝らなければ。そのためにはギャラリーの多いこんなところじゃなくて、二人きりで見つめあえる静かな場所のほうがずっと良い。
 アキラはにっこりとヒカルに笑いかけ、ヒカルもその笑顔の意味を悟ったのだろうか、ようやく安堵したような笑みを見せた。
 手を取り合って、振り返る。信号がもうすぐ青に変わる。
 人々が一斉に動き出す大きな交差点のど真ん中を、今度は一緒に歩いて行こう。
 どれだけ人混みに紛れても、見失ったりしないよう、しっかりとお互いを見つめて。


 二人きりになったら、「キミが好きだ」と伝えるのだ。
 高鳴る胸に歩調を合わせ、並んで斜めに横切ったスクランブル交差点。






「HAPPY DAYS★」のインコ様にもらっていただきました。
もうずっと前から何か書きますよ〜と言って散々お待たせして……
「ヤキモチを焼いてぐるぐる悩むアキラ」なんてリクをもらってたのですが、
ぐるぐるっつうか鬱々……!過去最高の後ろ向きアキラですね!
ああんもうイライラさせてしまってすいません。
インコ様遅くなっちゃってすいませんでした〜!
(BGM:スクランブルマーチ/河村隆一)