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 北斗杯開催三日前。
 二ヶ月と間を置かず、再び東京の地に下り立った社清春は柄にもなく緊張していた。
 今月の末には十八歳になる社にとって、年齢制限のある北斗杯はこれが最後の参加になる。第四回目となるこの大会も四年前に比べて随分知名度が上がり、全国的な注目度も高い。――もちろん、そんなところから来る緊張もあるだろう。
 しかし社の胸の大部分を占めている「不安」という名の緊張は、それ以外にもっと大きな理由があるようだった。
「……おし」
 予選の時と同じように駅のホームで気合いを入れた社は、別の路線に乗り換えるべく頭上の標示を見上げて目当ての沿線を探す。
 今年も行われることになった大会前の強化合宿。
 さすがに合宿も三回目、おまけにメンバーが全く同じとあれば全員慣れが出て来る。
 今回、駅までの迎えはない。社一人で迷わずに目的地へ辿り着くことができるからだ。
 社は電話で合宿の打ち合わせをした時の、ヒカルとの会話を思い出した。

『塔矢んとこの実家。あっちのほうが広いしお前も道分かってるから、今年もそっちでやろうって言ってんだけどさ、いい?』

 別に何でもない内容のはずだった。
 しかし、そろそろあの二人とのつき合いも長くなってきた社にとっては、無性に引っ掛かる内容でもあったのだ。
 その時は気付かないフリをして快諾した。
 いや、もし三月の予選がなければ、昨年アキラが社の実家を訪れなければ、今でも何の疑問も持っていなかったかもしれない。
 社はあの時見てしまっていた。
 アキラの確かな変化と、それを食い止めようとするヒカルを。
 二人に会うのはその予選以来。
 果たして、どうなっているのか……不安は尽きない。
(……どう転んどっても俺がしんどいのに代わりはなさそうやな……)
 勢い削がれるため息ひとつ、社は電車に揺られて塔矢邸への道のりを急いでいた。



 チャイムを鳴らし、しばし待つ。
 仰々しい門構えから予想される通り、極端に広いこの家はチャイムを聞き付けて人が出て来るまで通常より時間がかかる。
 それが分かっているため社ものんびりと玄関前で出迎えを待っていたのだが、やけに騒々しい足音と乱暴なドアの開き方は予想外で、中からヒカルがひょっこり顔を出してようやく納得した。
「なんや、お前か。うるさいと思ったわ」
「なんだと、せっかく開けてやったのに。……入れよ」
 言葉の割には笑いながら、ヒカルは社を中へと手招いた。我が家のように振る舞うヒカルに苦笑しながら、社はお邪魔しますと靴を脱ぐ。
「塔矢は?」
 廊下を進みながら社が尋ねると、前を行くヒカルが軽く振り返って「仕事」と答えた。
「もうちょいしたら帰って来るよ。お前が来るから、俺留守任されてたんだ」
「ほー。忙しいやっちゃな」
「仕方ねえよ、これから北斗杯までびっちり三日休みもらうんだから。俺だってさっきまで原稿やってた」
「原稿? 何の?」
「週間碁のミニコラム。今までの仕事で一番きついかもしんねえ」
「あー、あれか。あんなもんちょこちょこっと書いとけばええやんけ」
「そのちょこちょこに毎回どんだけ時間かけてると思ってんだよ」
「……確かにお前向きの仕事やないやろな」
 どう考えても文章が得手と思えないヒカルの後ろ姿を見つつ、毎回編集する出版部も気の毒にと社は肩を竦める。同時に、明らかな人選ミスなのだから自業自得だとも。
 ヒカルは過去二回の合宿が行われた客間へと真直ぐ向かっていた。社も後に続いて客間へ足を踏み入れ、見慣れた部屋の隅に荷物を下ろした時、積んである布団が一人分であることに目敏く気付く。
 思わず布団からヒカルへ視線を移すと、その目に気付いたヒカルがややバツが悪そうに下口唇を小さく突き出した。
「……俺、今回はあっちで寝るから」
 微かに照れくささが覗くその表情には若干の呆れも含まれているように見える。
 「あっち」が恐らくアキラの部屋を指すのだろうとすぐに勘付いた社は、へいへいと肩を竦めてみせた。
 去年で学習したのだろうか、今年はあらかじめ申告してくるとは。――それとも去年に関係なく、開き直って平気になっただけか、もしくはアキラが何か圧力をかけたかだ。
 何となく一番最後の考えが有力である気がして、社はそれ以上ヒカルに追求しなかった。
 上着を脱いでくつろぎの体勢を取る社の前で、ヒカルは碁盤を用意し始めていた。どうやら社が来る前に一人で何か並べていたのだろう、碁石を崩して選り分けている。
「塔矢来るまで、打つか」
 顔を上げて軽く笑うヒカルに、社もにっと笑って頷いた。



「塔矢何時頃戻るん?」
 もうちょい、と言った割になかなか顔を見せないアキラについて、長考中のヒカルに社はふと尋ねる。
 ヒカルは碁盤から目を離さず、「もうちょい」と再び同じ答えをくれた。
 社は客間の壁にかかっている時計を見上げる。――対局を始めてから三十分以上経った。
 ヒカルのなかの「少し」と社にとっての「少し」の基準が違うのか、アキラが戻ってくるのは後数分といった話ではなさそうだ。
 そういえば、予選の時もぎりぎりにやって来たっけ……社がそんなことを思い出すと、ヒカルはようやく黒石を指に挟んでぱちりと打つ。一見何でもない手のようだが、それまでは早かった展開をふいに止めて五分以上も考え込んでいたヒカルの手だ、侮れない。
 社も片眉を持ち上げて石の行く先をじっと読んだ。
 ――なるほど、こう来たか。
 思惑は読み取ったとばかりに打ち返す。ヒカルも即座に石を手にした。しばし無言の攻防が続く。
 まだアキラが帰ってくる気配はない。
「……どや、アイツの調子」
 聞いておくなら今のうちだろうと、社はちらりとヒカルに目を向ける。
 ヒカルは表情を変えることなく、逆に社に聞き返して来た。
「お前、先月の本因坊リーグの倉田さんとの棋譜見た?」
「……ああ」
「あの通りだ」
 見れば分かるだろう、と言いたげなヒカルの口調に社はため息を返す。
 要するに、予選と変わらず本調子ではないということだ。
 本因坊リーグ第二戦、アキラと倉田との対局の模様は社もすでに棋譜を入手して記憶していた。
 アキラらしからぬ失着の数々、さすがにあの一局はごまかしようがなかったのか、ちらほらと「塔矢アキラ不調説」が出始めたのもその頃だ。
 詳しく触れたがらないヒカルの気持ちも分かる。正直なところ、社も棋譜を見て我が目を疑った。
 そしてアキラの不調がスランプといった単純なものではなさそうなこともよく分かっているため、北斗杯を含めた今後のアキラと、アキラの一番近くにいるだろうヒカルを思ってますます不安を募らせた。
 幸いヒカルはアキラの波に引っ張られずに地力を貫いているようだが、アキラに回復の兆しは見えているのだろうか。
 深く問いつめたいが、ヒカルはこの話題を良しとはすまい。
 低い声色が社にそれを勘付かせた。



 ヨセも終わり、二目半でヒカルが勝利した後、ああだこうだと二人が検討をしているところにアキラがようやく帰宅した。
「やあ、いらっしゃい、社」
 穏やかに客間へ入って来たアキラは、端から見ると以前と何一つ変わらないように見える。
 さりげなくヒカルの傍に膝をついたアキラは、今し方終わったばかりの盤面を見下ろしてふうん、と呟いた。
「何時頃着いたんだ?」
 碁盤を見つめたままのアキラの問いかけに、一瞬誰に尋ねているのか分からなかった社は、ヒカルが黙っているのに気付いて慌てて答えた。
「えっと、一時間ちょいくらい前か?」
「そうか。食事は?」
「まだやけど」
「じゃあ何か支度してくるよ。検討続けてて」
 そう言って立ち上がるアキラを唖然と見上げる社に対し、ヒカルは落ち着いた表情を崩さない。
 颯爽と客間から消えたアキラの面影を追ったままぽかんとしている社に、ヒカルが「おい」と声をかけた。
「間抜けな顔してんなよ。で、こっちからツイだ時はさあ……」
 何事もなかったかのように検討を再開するヒカルが信じられないといったように、社は顔を歪めてまじまじと見つめた。
「アイツ、支度って何しにいったんや」
「決まってるだろ、晩飯作りに行ったんだよ」
「晩飯? アイツが?」
「この前言ったろ、料理が趣味だって」
 はあ、と気の抜けた返事をして、社は再びアキラの消えた戸口を振り返った。
 食えるんやろか。思わずそんなことを考えて身震いした時、
「……打ってるよか飯作ってるほうがいいんだろ」
 聞き取れないほどの小さな声でヒカルが呟いた。
 振り返った社の視線の先には、変わらない表情のヒカルが碁盤を見つめている。
 その静かな目を見ていると、社は今の言葉の意味について問い質せなくなり、そのまま聞こえなかったフリをした。






また社のお力を借りることに……
苦労人社、最後の北斗杯も苦労しそうです。