アキラの手製の夕食は、意外なほどに美味だった。 とはいえ極端に手のこんだものが披露されたわけではなく、白い飯に味噌汁、炒めものにお浸しといった素朴なメニューではあったが。 社も実家では度々台所に立っていたため、アキラの作った食事がそれなりに料理に手慣れた人間が作ったものだということが良く分かった。 味付けも食材の火の通り加減も、どれもベストである。 「しばらくこの家も人がいなかったから。スーパーで買物してから来たよ」 何でもないことのように所帯じみた台詞を吐かれて、そうですか、としか返事ができなくなってしまう。 何とも奇妙な光景だった。まさかこの三人でごくありふれた夕食を囲むことになろうとは。 これまでは出前やヒカルが持参した差し入れなどを食べ散らかしながらわいわいやっていたせいだろうか、この家庭的な雰囲気が社にとっては何となくむず痒い。 ヒカルは慣れた様子でアキラの作った食事を黙々と食べている。アキラも余計な口を聞かない。 しかしヒカルがおもむろに手を伸ばすと、アキラが当たり前のように醤油を渡したりしている。どうやら彼らにとっては、食事中に特別な会話がないのはおかしなことではないらしい。 ごく自然に食卓を囲む二人の静かな空気に何故だか気圧されて、社は無性に居心地の悪さを感じる。 どちらかと言えば賑やかな雰囲気を好む社にとっては、できれば食事中もわいわい雑談なんかを交わしていたほうがリラックスできる。しかしカチャカチャと食器の音だけが響くこの空間に、率先して話題を提供するには勇気が必要だった。 先ほどのヒカルの一言がまだ耳に堪えているからかもしれない。吐き捨てるように呟かれたあの言葉。 聞かないフリをしたが、全く聞こえていないとはヒカルも思っていないだろう。なんだかあの言葉を聞いた後ではどんな話も白けてしまうのではないかと尻込みしてしまうのだ。 それでもここで社が黙り込んでしまえば、まるで通夜のような夕餉になってしまうではないか――社は意を決して沈黙に切り込んでいった。 「塔矢、一人暮らし慣れたか?」 ヒカルとアキラが同時に顔を上げて社を見た。 二人の視線を一度に受けて、必死で作った笑顔が強張りそうになる。 「……ああ、随分慣れたよ。」 アキラが僅かに微笑みを見せた。目元を細める程度の仕種だが、社はそれでも幾分ほっとする。 「こんだけ料理できんなら自炊も問題なさそうやな。進藤、お前しょっちゅう食わせてもらっとんのやろ」 「まあな〜。最初に比べたら随分マシになったしなあ」 「随分な言い方だな」 二人の表情が少しずつ綻んできて、社も徐々に身を乗り出した。 「進藤も手伝ったりするん?」 「んー、たまに皿並べるくらいかなあ。こいつ触らせてくんねーもん」 「よく言うよ、キミろくな手伝い出来ないじゃないか。危なくて包丁も持たせられない」 なんだと、とヒカルが頬を膨らませてアキラを睨んだ。 いいぞいいぞと社は心の中でガッツポーズをする。この際惚気だって構わない。どうせこの後は微妙な状態のアキラを交えて打たなければならないのだ、せめて今だけは和やかな夕食のひとときを楽しみたい。 「なんや、仲良うやっとるんやん。どんなとこなん? 広いんか? こっから近いんやっけ?」 その途端、和らぎつつあったアキラの表情がすっと無になった。 アキラの気配を察したヒカルも微かに顔を強張らせる。 ――どうやら地雷を踏んだらしい。 その場で頭を抱えたくなった社だったが、ギリギリの精神を奮い立たせて気付かないフリをする。 「……まあ、快適だよ。キミも一人暮らし始まったんだろう? どうだ、調子は?」 アキラはするりと話題を転換させた。ヒカルもまた無言でおかずをつまみ始める。 こうなったらヤケだと、二人が聞いているのかどうかも構わず、その後の社は自身の一人暮らしライフをひたすらまくしたてた。アパートの場所から近辺に何があるか、部屋の間取りや家具の配置、隣の部屋から聞こえて来る迷惑な騒音、果てはここ一週間の自炊メニューまで。 そうして夕食の間中喋り続けた社は、栄養補給のための食事でげっそり疲れるという貴重な体験をするハメになった。 アキラが食器の後片付けをしている間、ヒカルも客間に運ぶための茶の準備をしに台所へ入って行き、テーブルに取り残された社は大きなため息をつく。 全く、どうしてこんなに気を使わなければならないのか。 (でも、これではっきりしたわ) 自ら踏んだ地雷のおかげで、アキラが新居の話題を避けたがっていることがよく分かった。 『あっちのほうが広いしお前も道分かってるから』 ヒカルはそう言ったが、やはり嘘なのだろう。例え本当だとしても、違う理由のほうが大きいはずだ。 アキラとヒカルと社、明日顔を出す倉田を入れてもたったの四人。それほどの大人数ではない。それでいて、今回の合宿がアキラの新居ではなく塔矢邸で行われることになった理由。 ――アキラは新しい部屋に、社を含めた他の人間を入れたくなかったのではないだろうか? 二人の関係を知っている唯一の男だからだろうか、恐らく他の人間に比べてずっと心を許してくれているに違いない社でも、アキラの中で立ち入りを許さない確固たるラインがあるようなのだ。 これまではそのラインを、言葉の端々で漠然と感じることができた。しかし先程のアキラは、明確に社の前でラインを引いてみせたのだ。 どうやらラインはアキラの新居の前に引かれているらしい。そのラインの内側にいるのは、アキラと……ヒカルだけ。 あながち考え過ぎでもないだろう。何だか、以前よりずっとアキラが内へ内へと隠って行っているような気がするのだ。 (進藤、お前ほんまに何とかするんやろうな) ヒカルの力強い言葉を信じたいが、どうやら症状は相当に重そうだ。 これは先が思い遣られると、まだ始まったばかりの合宿だというのに社の気持ちはずんと沈んでいった。 それから三人揃って客間での合宿が開始された。 いつものように、徹夜覚悟の早碁。直感勝負のハイスピードが幸いしたのか、アキラの碁にも倉田との一局で感じたようなアラはあまり見られない。 この調子なら合宿初日はまあまあうまく終えることができそうだと、社も余計な思考にフタをして黒と白の世界に集中する。 目まぐるしい攻防の末、時折居眠りしながら迎えた朝日はやけに目に染みた。 *** 身を持って異変を実感したのは、二日目の昼に倉田がやってきてからだった。 今回も日本チームの団長を務める倉田を交え、二人ずつで本番と同じ持ち時間での対局を行うことになり、倉田とヒカルが、そして社とアキラがペアになって打ち始めた時。 社はヒカルの心労を思い知らされた。 先ほどの早碁の時とは打って変わって、打つペースはデタラメ、無駄に長考したかと思えば意図のよく分からない手を打って来る。以前のように奥へ奥へと入り込んで来る無鉄砲とも言える力強さはすっかり影を潜め、穏やかな緩やかな展開に社は焦れた。 これが真剣に碁盤を睨んだ結果ならまだしも、向かい合うアキラの目にはまるで覇気が感じられない。あの、見据えられただけで魂が縮み上がるような眼力がこうまで萎えてしまっているとは。 結果は社の三目半勝ちに終わったが、アキラは軽く肩を竦める程度にしか反応を示さなかった。 更に深まったアキラへの不審は、次いでペアを入れ替えた時の対局によって社の中で大きくなり、ぱちんと弾けてしまった――社はアキラの不調の全貌を理解したような気がした。 社は倉田と、そしてアキラはヒカルと対局を行った後の検討。 社を相手にしていた時とは違い、アキラは実に冴えた打ち筋を披露してみせたのだ。 『アイツ。自覚ないから。』 それも嘘だ、と社は歯噛みした。 自覚がないはずがない。分からずしてこうまで鮮やかに対応を変えられるものか。 いや、正確に言うと「躊躇しなくなった」のだ。 アキラの中の価値判断を、露呈することに躊躇いを見せなくなった。 アキラにとっての価値のある碁はヒカルとの対局のみ――社はごくりと喉を鳴らす。 (それって……想像以上にマズイんちゃうか) 特定の相手にしか本気を出せない棋士だなんて。 (進藤……ほんまに大丈夫なんか) 北斗杯直前に、不安ばかりを募らせることになろうとは。 社は涼しい顔で検討に加わるアキラを横目で見遣り、髪を掻き毟りたい衝動にかられた。 |
社いつになくしんどそうです。
アキヒカはもっとこの人に感謝すべきだと思う。
相変わらずカンが良くて私も助かってます有難う社!