対局の後の休憩中、アキラが昼食に食い散らかした食器の後片付けのため客間を後にし、社もまた空になったポットにお湯を足そうと台所へ向かった。 台所ではアキラがシンクに向かって洗い物をしていた。脇からやかんで沸かす水を分けてもらい、ガス台に乗せていると、「棚に茶菓子がある」とアキラが振り返り、目線でその位置を社に知らせた。 「持っていってくれ。倉田さんが喜ぶだろうから」 「おお。……これか?」 「ああ」 アキラに言われた菓子の箱を手にし、まだお湯が沸くのに時間がかかるからと先に客間へ菓子を置いて来るつもりでのんびり廊下を進んでいた社だったが。 客間の襖に手をかけようとした時、中から聞こえて来た倉田の声に社は動きを止めてしまった。 「進藤、お前、大将いけるか?」 社ははっとした。 いつもの飄々とした口調ではない、やけにきっぱりした倉田の問いかけは、ヒカルの答えを待たずとも最初から答えが出ているかのような強さがある。 「……大将? ……俺が?」 反してヒカルの声には明らかな戸惑いがあった。 襖の前で突っ立ったまま、社は口唇を噛む。――無理もない。倉田は先月も公式にアキラと当たり、今日もアキラの対局を見た。妥当な判断だと言わざるを得ないだろう。 しかしヒカルが口籠る理由、社はなんとなくそれが理解できていた。 「……、韓国戦なら、俺が……。今までも何度か大将譲ってもらったし」 「中国戦もだよ。正直言うと、今のアイツじゃ三将もきついだろ」 「倉田さん、でも……!」 「何度も言ったよな、実力順で決めるって。俺は日本チーム預かってる団長なんだ。勝ちに行きたい」 「……でも」 言い返せないヒカルが襖の向こうでどんな表情をしているのか容易に想像できて、社はとうとう堪え切れなくなった。 から、と静かな音を立てて開いた襖に、ヒカルと倉田が振り返る。 ヒカルは苦し気に目元を歪めていた。社はそんなヒカルにちらりと視線を寄越し、それから倉田の前で畳に膝をつく。 「倉田さん。今、アイツを大将から下ろすの、避けたほうがええんちゃいますか」 社の言葉を聞いた倉田が、訝し気に口唇を尖らせた。 倉田が何か言い返してくる前に、社はヒカルにも目配せしながら話し続ける。 「アイツは塔矢アキラなんや。アイツが三将の位置になんかいたら、それこそ韓国や中国にアイツは不調ですって知らせるようなもんです。下手につけあがられても困る」 「……社」 ヒカルが半開きの口唇で社の名前を呟いた。 社は再びヒカルを見て、小さく頷いてから倉田を見据える。倉田は尖らせた口唇のまま、眉間に皺を寄せて社の話を最後まで聞くつもりのようだった。 「それに」 社はすう、と息を吸い、しっかり顎を引いて口を開いた。 「今のアイツは確かにグダグダやけど。……それでも、俺よりアイツのほうが上やと思うてます」 倉田の小さく丸い瞳の中央で、微量ながら強烈な光がじりじりと社を焦がした。 怯んではいけない、と社は背筋に力を込める。 このふくよかな身体をした一見人の好さそうなこの男は、勝負師の直感が備わっている。 目を逸らしたらそこで終わり。社は上向きがちな黒目の焦点を倉田に据え、瞬きさえも我慢した。 やがて、倉田の肩のラインがふわりと丸くなった。社もはっと目を大きくする。 「……まあ、考えとく。保証はしないぞ」 「倉田さん!」 「社、手に持ってんの何?」 「へ?」 今の会話は終わりとばかりに目敏く茶菓子を見つけた倉田は、俺が来てから開けろよと念を押してトイレへと小走りに去っていった。 残された社は呆然と倉田の後ろ姿を見送っていたが、くたりと力の抜けたようなヒカルに気付いて慌てて近寄る。 「おい、進藤」 「社……ごめん」 「なんでお前が謝るんや」 「お前にまで、あんなこと言わせて……マジで、悪い……」 ぐしゃ、と自らの金色の前髪を握りつぶしたヒカルの表情は苦渋に満ちていた。 社はそのもどかしさがよく理解できた。誰よりアキラの傍にいて、アキラの力を分かっているのは他でもないヒカルのはずなのだ。 ましてやヒカルはアキラの変化に気付いていた。三月の予選、いや、恐らくそのずっと前から。「何とかする」と力強く社に告げたのも本気だったのだろう。だが未だにアキラは変わらぬままで。 「気にすんな。あれは本音や。俺は俺の思ったこと言うたっただけや」 「俺が悪い」 「進藤?」 「……俺が悪い。俺が、ずっと思い切れなかったから……」 前髪を潰したヒカルの手のひらが、その歪んだ目を覆い隠した。 絞り出すような声が辿々しく発音する言葉を聞こうと、社は顔を寄せて首を傾げてみせた。 「分かってたのに。結局、今までずるずる来ちまった」 「……お前が悪いんやないやろ」 「俺が悪いんだ。どうするのが一番いいか分かってたのに、思い切れなかった」 俯きがちに手のひらで目を覆っていたヒカルは、掴んだ前髪はそのままにゆっくり社に目を向けた。手のひらで半分隠れた目は薄ら赤らんで、頼り無気に細められ……口元だけが苦い笑みを浮かべている。 「情けねえよなあ。偉そうなこと言って、いざとなると踏み出せなくてさ。アイツ……俺には凄く優しいから」 「進藤……」 「甘やかして、甘やかされてさ。アイツの腕、居心地いいから……俺もつい、言わなきゃなんないこと後回しにして……」 ヒカルは静かに目を閉じた。 「惚れた弱味かなあ……」 切なく零れた苦笑混じりの台詞は、社の表情を渋く顰めさせる。 小さく背中を丸めたヒカルは、以前社に「何とかする」と言い放った時よりずっと弱々しく見えた。 アキラはこんなヒカルに気付いているのだろうか。自分のためにヒカルが苦しんでいるという事実に気付いているのだろうか? 今すぐにでもアキラの元に乗り込んで、胸倉掴んで頬を引っ叩いてやりたいところだが、そんなことをしてしまえばこれまでヒカルが耐えてきた時間が無駄になる。ヒカルがああまできっぱりと自分に任せるよう告げたのは、それなりに理由があるからなのだろう。 それに、いくら社がアキラを立ち直らせようと喚いたところで、アキラが耳を貸すはずがないことはよく分かっている。――アキラは「他」を排除しようとしているのだ。今はまだ、これまで築いた信頼関係のために身近な存在として認識してもらえていても、アキラの意に反した行動を社が取れば、アキラは容赦なく切り捨てにかかるだろう。 その事態をヒカルは良しとすまい。 社はそっとヒカルの肩に手を置き、せめてもの力添えとばかりに呟いた。 「進藤。……しんどかったらいつでも相談し。お前らのこと知っとるの俺だけやろ。俺には遠慮せんでええ」 「社……」 「俺は見守るしかでけへんけど。お前のことも、……アイツのことも好きやからな。何でもええから、力になれるんなら利用したってくれ」 元気づけるために必要以上ににっこり笑った社を見て、ヒカルも釣られたように口唇を綻ばせた。 サンキュ、と小さく囁いたヒカルは、顔を上げてぐいと手の甲で目元を擦る。 そうしてヒカルはパンと両手で自らの頬を勢い良く叩き、きっと顎を上げた時、すでに頼り無さは表情から消えていた。 「北斗杯、嫌な思いさせたらごめんな」 それだけ短く告げたヒカルは、もういつもの顔を取り戻し、社が手にしたままだった菓子の箱をひょいっと取り上げていそいそと開封し始めた。 ちょうど戻って来た倉田がその現場を発見し、「抜け駆け禁止!」とどたどた駆け寄って来る。 屈託なく笑うヒカルに、社は確かな強さと儚さを見た。 倉田が帰宅して二日目の合宿も終え、棋譜研究がメインの三日目も午後を回った頃、社は昨年同様和谷宅へ向かうべくヒカルとアキラに別れを告げた。 明日のレセプションで顔を合わせるとはいえ、こんなに不安でいっぱいのしばしの別れは初めてである。 二人だけにして良かったのだろうか、それとも二人にしたほうが良かったのだろうか…… 悩みは尽きないが、一度塔矢邸を出てしまえば、ぐじぐじ考えているのはいかんと気を引き締めて和谷宅を目指した。 社にとっては合宿第二部。毎回体力を消耗する大人数での合宿だが、あらゆる意味で精神力が鍛えられる貴重な場だ。かなりの荒療治ではあるが。 (頑張れよ、進藤。塔矢。) 心の中で呟いたら、お前もな、とヒカルの声が聞こえてきたような気がした。 せめて自分にできること。今は目前の北斗杯に向けて全力を尽くすのみ。 その後のことはその時に考えよう。 社は傾きかけた太陽に向かって、有り余る体力をコントロールし切れないように力一杯駆け出した。 |
最後の北斗杯なのにこんな状況で本当に申し訳なく……
ところで北斗杯の「18歳以下」って、ホントは学年単位なんですかね……
それだと今年19歳になるこいつらは全員出られないので
開催時点で18歳以下ってことにしてしまったのですが。
そうしたら今度は誕生日によって同じ学年でも参加できない場合とかあって
不公平だよなあと思いつつ、まあいいやと開き直ります。でないと話続かない。
↑なんてことを書いていたのですが、すぐに親切な方が
「本田さんは19歳になる年の18歳で北斗杯の予選を受けてた」と
教えて下さって、このままで大丈夫なことが判明しました。
うわーん教えて下さって有難うございました!
(BGM:selfish/Tourbillon)