SELVES






 予定より一時間遅れで離陸した飛行機は、無事四時間程で世界に繋がる日本の玄関口へと辿り着いていた。
 よく見知った空港内を見渡して、馴染みのある空気を肌で感じたアキラは、ようやく帰国できたことを小さなため息と共に実感する。
 預けていた荷物を引き取って、すぐに携帯電話の電源を入れた。メールの着信を問い合わせると、何通かのメールが規則正しいバイブレーションを伴って届けられる。アドレスをあまり他人に教えていないアキラにメールを送る人間は限られている。数少ないメールに素早く目を通し、大事が無いことを確認して肩の力を抜いた。
 アキラはひとつのフォルダに振り分けられた一通のメールに、口元を綻ばせていた。
 『おやすみ』と書かれたメール。
 差出人は進藤ヒカル。日時は一週間以上も前だ。
 きっといつもの癖でうっかり送ってしまったのだろう。返事の来ないメールにヒカルは淋しい思いをしなかっただろうか――アキラは慌しい時間を振り返り、遠くを見つめた。


 父が倒れたとの知らせを受けてから今日まで、アキラにとってまさに休む暇もないほどの目まぐるしい日々だった。
 急な中国渡航で慌しく準備をしたのが十七日前。当初一週間の予定が結局半月ほども中国に滞在することとなった理由は、父・行洋の容態が思った以上に芳しくなかったためだった。
 アキラが到着した頃には意識は回復していたのだが、検査結果の各数値が正常になるまでは安静を強いられ、日本に帰国させるには医者が渋る状態だった。
 大丈夫だと言い張る父を母と共に宥め、無茶をしないよう見張ることと、異国の土地で精神的にも疲労を感じていた母親を助けること。それから中国での父の棋士活動における事務的な対応。アキラはこれらを忙しくこなし、気づけば毎日があっという間に過ぎていった。
 幸い中国語をある程度マスターしていたアキラは生活に困ることはなかった。そういう意味でも母に重宝がられ、滞在を延ばすようお願いされたというのも理由のひとつである。
 ようやく病状が落ち着いてきた父に帰国の目処がつき、アキラは一足先に一人日本へ戻ってきたのだった。
 予定では、この一週間後に両親が帰国することになっている。これに懲りて少しは家で大人しくしてくれればいいのだが、容態が安定した後の父の様子を見るからに、あまりそれは望めなさそうだ。
 本当に、子供っぽくて困る。――アキラは肩を竦めてため息をつく。
 重いスーツケースを引き摺ってタクシーを拾い、緩やかな振動に揺られる車内で、素早くメールを送る。差出人は当然進藤ヒカル。
『今日本に着いたよ。連絡待っています』
 簡潔な文章を送信する。返信は夕方になるだろう。
 帰国後の行動に一区切りついたことを実感し、深くシートに凭れたアキラは久方ぶりの休息を堪能すべく目を閉じた。




 十七日ぶりに帰宅した我が家は、長らく人の気配がなかったせいか何処もかしこもひんやりとしていた。軽く身震いしながらスーツケースを奥へ運び入れ、懐かしい空間にほっと一息つく。
 暖房のスイッチを入れ、部屋が暖まるのを待った。すっかり冷え切った室内では吐く息も薄ら白く濁る。アキラは手を擦り合わせ、家の中に変わりはないだろうかと隅々までチェックし始めた。幸い出発前に比べて不審な点は見当たらなかった。
 スーツケースを開き、中の荷物を整理し始める。自宅から持ち出した服はほんの一週間程度の予定で用意したため、向こうで買い足したものが増えてしまっていた。母親が買ってきた派手な黄色いシャツなどは、この先着る機会がないだろうからヒカルにあげてしまおうかとも思う。
 アキラは時計を見上げた。午後二時半。ヒカルはまだ仕事中だ。
 中国に滞在している間は、ほんの数えるほどしか電話することができなかった。
 父親のことを酷く心配してくれていたらしいヒカルに頻繁に連絡ができないことは申し訳なかったが、アキラの身が自由になる時間が早朝だったり真夜中だったり極端な時間が多く、かえって迷惑をかけるだろうことは簡単に想像できた。
 それでも、昨日は帰国前日とあってヒカルに電話をかけた。明日帰ると告げるとヒカルは喜んでくれたものの、その声にいつものような元気がない気がした。
 アキラは微かに表情を曇らせる。
 出国前から、案じていることがあった。
 元旦、この家にたくさんの棋士が集まり、新年を祝った日。
 ヒカルもまた、アキラの誘いで塔矢邸に赴いてくれた。
 その時、緒方がヒカルに対局を持ちかけたのだ。
 去年の秋頃、アキラに意味深な台詞を吐いた緒方の目を思い出したアキラは、その対局に何故だか胸騒ぎを感じた。
 結局、緒方の言葉を忘れることなんてできなかったのだ。あの、アキラを挑発するような言葉の数々を。
 緒方と打たせたく無い、そう思う余り不自然な行動を取ってしまった。恐らくヒカルも訝しんだことだろう。それでも怖かったのだ。緒方がヒカルに何か余計なことを言わないかと。
 しかしヒカルはあまりに警戒心がなく、何でも無いことのように緒方との対局を受けた。不安に思いながらも、自分の心配が杞憂に終わるよう祈っていたのに……
(……確かに様子がおかしかった)
 対局後のヒカルの表情が何かに惑い揺れていた。
 アキラが二人の様子を伺いに隣室の襖を開けたとき、ちょうど緒方はヒカルの頭にぽんと手を置いていたところだった。
 誰も知らぬ関係とはいえ、恋人の頭を子供をあやすように撫でられていい気分はしない。思わず眉を顰めたアキラは、取り残されたヒカルが酷く茫然としているのを見て息を飲んだ。
 対局前は屈託なく笑っていた彼が、何故あんな顔をしているのか。
 緒方は何か言ったのだろうか。それに対して、ヒカルは何か答えただろうか。

 ――俺は、アイツがsaiに変わるのを待っているのかもしれん――

 まさか、saiの名前を出してはいないだろうかと――。
 ヒカルの口から「sai」という言葉が出て来るのを怖れて、アキラは様子を探るだけで結局何も聞けなかった。
 アキラとヒカルの二人にとって、その名前はあまりに特別すぎた。
 こんな形で、お互いの腹の内を睨みながら話題にしていい名前ではなかった。
 その後もヒカルはどこか上の空だったけれど、アキラにつきあって初詣に向かってくれた。不安を噛み殺せなかったアキラは、彼の幸せを心から願った。
 ヒカルが幸せであれば、自分もまた幸せになれる。
 ヒカルは何をお願いしたのか気にしていたようだけれど、笑ってごまかした。胸に宿る黒いものを悟られたくはなかったから。
 それでも、ヒカルの揺らぐような目はその日きりで、後日棋院で会ったときはいつも通りの彼に戻っていたように見えたから、一応の安心はしていたのだ。ひょっとしたら、ヒカルのおかしな様子も対局に負けて落ち込んでいただけかもしれない……
 そんな淡い期待は、昨日のような頼りない声を聞くとあっという間に吹き飛んでしまう。
 何故、時々言葉が途切れるのか? 何故、躊躇いがちに言葉を探しているのか?
 電話ではヒカルの顔が見えない。もどかしい一晩を過ごし、アキラはようやく帰って来た。
 今日、ヒカルは棋院での仕事が夕方まで入っているらしく、その後は塔矢邸まで来てくれることになっている。
 実際に逢って顔を見ればヒカルの様子がよく分かるだろう。早く逢いたい。そして自分の不安が取るに足らないものだと安心させて欲しい。
 ヒカルを抱き締めたくて仕方なかった。出発前日、行洋と、そしてアキラを気遣ってこの家まで出向いてくれたヒカルが酷くいじらしく、愛しい。
 全く親不孝な息子だと我ながら思う――アキラは苦笑した。倒れた父よりも少しの間離れていた恋人のほうが気になるなんて。
(でも――お父さんは大丈夫だった)
 やはり父は無事だった。自分が思っていた通り、容態が安定してからは本人はけろっとしてしまって、早く碁が打ちたいなんて言って母を困らせていた。
 あの確信は、過信ではなかったのだ。それをヒカルに伝えて、安心させてやりたい。
 日本を離れている間に、一人にさせていたのが忍びない。何ヶ月も別れていたわけではないのに、あの笑顔が酷く懐かしく感じる。
 逢いたい。時間が早く過ぎるといい。
 アキラは黄色いシャツを見つめながら物憂げに息をつく。






アキラ帰国しました。
この人どんどんダメ男になっていくような気が……