チャイムの音に顔を上げるが、時刻はまだ午後三時を過ぎた頃だった。 ヒカルが来るには早すぎる。しかしもしかしたら、とアキラはささやかな期待を胸に玄関へと小走りに向かう。 ガラガラと開いた引き戸の向こうには、アキラの兄弟子である芦原が眉尻を下げた中途半端な笑顔で立っていた。 「芦原さん」 「おかえりアキラ! いやあ、大変だったなあ……」 その、笑顔とも泣き顔ともつかない微妙な芦原の表情を見て、アキラは思わず苦笑してしまう。 芦原や、塔矢門下筆頭の緒方などは、行洋が倒れてから今までの間、国内における問い合わせなどの窓口を買って出てくれていた。だからこそアキラも安心して中国へ飛べたのだ。 頼もしい兄弟子たちだが、目の前で今にも泣きそうに顔を歪めている芦原を見るとやはり苦笑いが漏れる。血の繋がりなくても、こうして家族のように心配してくれていることが有難く、暖かく、そして照れ臭かった。 「お前のメール見て飛んで来たよ。水臭いな、昨日のうちに教えてくれてたら空港まで迎えにいったのに」 「すいません、連絡が遅くて。どうぞ中へ。帰ったばかりで散らかってますけど」 「うん、上がらせてもらうよ。疲れてるだろ? 楽にしてていいからな」 通常家主が言う台詞を芦原に言われ、アキラは軽く笑った。確かに疲れてはいるが、芦原が心配するほどではない。今日はこの後何処にも出かける予定はないので、一晩で疲れはゆっくりとれるだろうとアキラは計算していた。 寧ろ、忙しくなるのは明日からだ――各関係機関への挨拶と父についての報告。十七日の間休んでいた仕事の埋め合わせ。不戦敗となった棋戦もいくつかあり、手合いもしばらく休んでしまっている。 それらを思うとやや気が滅入るが、懐かしい畳の匂いでアキラの心は落ち着いていた。やはり、慣れ親しんだ実家は優しくアキラを迎えてくれていた。 アキラは芦原にお茶を用意し、改めて頭を下げた。 「留守中、ご迷惑おかけしました。いろいろとご尽力して頂いて本当に感謝しています」 芦原が慌ててアキラの肩を掴み、その頭を上げさせようとする。 「よせよ、堅苦しい。ホントお前はそういうとこ律儀なんだから」 アキラは真顔を崩して微笑む。芦原がこういった嫌がるのはよく分かっているが、いかに友人のように親しい兄弟子でもけじめというものがあることをアキラは理解していた。 それに、芦原は形だけではなく心底行洋の心配をしてくれた一人だ。中国までの航空チケットの手配をしてくれたのも他ならぬ芦原だった。どれだけ礼を言っても足りないくらいである。 「いろいろと助かりました。倉田さんに頼んで楊海さんに連絡をとってくれたでしょう? おかげで向こうについてからすぐに迎えにきて頂いて、全てスムーズに行きましたよ」 「いや、こんな時くらい役に立たないとさあ、先生には散々お世話になってるからさあ。でも、よかったよおホント。先生、帰国はいつ?」 「一週間後を予定してます。今は随分落ち着いたんですよ。ご心配おかけしました」 芦原はまさしく胸を撫で下ろす仕草を見せて、身体の力をくたりと抜いた。糸の切れた操り人形みたいな格好で、芦原は安堵のため息を漏らす。 「ホントに……よかったよ。先生にもしものことがあったらと思うと……気が気じゃなかった」 「本人はすっかり喉元過ぎたみたいですよ。早く碁石に触りたくてうずうずしていたようだから」 「先生らしいなあ」 アキラと芦原は顔を見合わせて笑う。 芦原もすっかり緊張を解いたらしく、あぐらをかいてアキラが用意した茶を啜った。アキラも一口緑茶を口に含み、久しぶりの日本茶にふっと頬を綻ばせる。 「留守の間、何か変わったことはありませんでしたか?」 アキラの質問に、芦原は少し上目遣いで天井を睨んでここ数日を振り返っているようだった。 「そうだなあ。お前が出発した後の先生への問い合わせなんかは緒方さんが引き受けてくれたし、棋院側も協力してくれたから混乱はなかったよ。後は……そうだな、お前の不戦敗で小林くんが昇段したって喜んでたなあ」 「はは、そうですか」 アキラは思わず苦笑した。 「それから……そうそう、そうだ、進藤くん! 王座戦本戦トーナメント二回戦、なんと倉田くんに勝ったよ! 半目!」 「そ……そうなんですか。それは……凄いですね」 突然興奮して声を大きくした芦原に、アキラは軽く頬を引き攣らせて、なるべく自然に見えるような驚きの笑顔を作ろうと努めた。 実は結果はすでにヒカル本人から聞いていた。 アキラが中国からヒカルにかけた電話は三回。その二回目の電話で、ヒカルの口から「倉田さんに勝った」と報告を受けていたのだ。 ――勝ったよ。倉田さんに。 「凄いじゃないか。……半目? そうか……おめでとう。見たかったよ」 『……見ないほうがよかったよ』 「……、何故?」 『全然。まだ、全然ダメだ。見落としも多かったし、倉田さんに最後まで粘られた……あんなんじゃ、全然ダメなんだ……』 ……思えば、あの時もヒカルの様子はおかしかった。 棋譜を見ていないので何とも言えないが、倉田相手に半目勝ちで全然ダメという評価が当てはまるのかアキラには疑問だった。 芦原までも倉田・進藤戦の結果を口にするとは、恐らく彼らの勝敗はちょっとした話題になったのだろうと検討をつけ、アキラは芦原に探りを入れ始める。 「対局内容はどうだったんですか? 芦原さん、棋譜は見ました?」 「見たよ見たよ。てゆうか、ちょっと騒ぎになったよ、あの一局。凄かったんだあ、もう最後までどっちに転ぶかわかんない攻防でさあ」 アキラはつい身を乗り出した。 「凄かったんですか? ……どっちが?」 「どっちもだよ。でも、やっぱり最後に勝った進藤くんの底力に痺れたね。アキラ、早く棋譜見てみるといいよ。あれだけ激しく戦ったのに、終わってみたら凄く綺麗な石の並びでさ、ちょっと感動しちゃうよ」 「……へえ……」 なるべく動揺を顔に表さないように、アキラは曖昧な笑顔でそんなふうにごまかした。こういう時、作り笑顔は便利だ。 なんだか、ヒカルから聞いていた話と周囲が受けた印象にズレがあるようだ。 勝利を報告してくれたヒカルは、まるで酷い負け方をしたように落胆した声を出していた。そのため、アキラはてっきり二人とも不調で、負ける碁をヒカルが拾ったという展開だったのだろうかと思っていたほどだ。 芦原の紅潮した表情に嘘はない。アキラは皺を寄せたがる眉間に力を入れないよう気遣いながら、言葉を選んで当たり障りのない会話を続けた。 「芦原さん……、進藤は、良い碁を打っていましたか?」 おかしな声色になっていないだろうかと不安になりながらの質問だったが、芦原はそんなアキラの心の中には全く気づいていない様子で、屈託ないとも言える笑顔を浮かべて頷いた。 「うん、いい一局だった!」 「……そうですか……」 芦原の表情が明るければ明るいほど、アキラの胸が不穏な黒雲に覆われていく。 やはり、ヒカルに何かあったのだ。 それが元旦のあの一局のせいなのか、それとは別の要因があるからなのかは分からないが、電話で感じたヒカルの声の頼りなさは気のせいではなかった。 棋譜を見たい、とアキラは思った。素早く時計に横目を走らせる。今から棋院に行っては、ヒカルが来る時間に間に合わない。 いや、いっそヒカルを棋院に迎えに行けば良いのでは? ――駄目だ、棋院に行けばこの十七日間についてのそれなりの対応を求められる。そういった後処理は全て明日以降に回すつもりで、今日は家から出ないことにしていたのだ。 かといって、棋院に電話をして挨拶ついでに棋譜をファックスしてもらうのも妙に思われるだろう。やはり、明日まで待つのが得策のようだ。 何より、この後ここにヒカルがやってくる。アキラが棋譜を手に入れるのを、ヒカルは良く思わないような気がする。それは直感だった。 ヒカルに逢うより先に棋譜を見たなんてことがヒカルに知れたら、何だかヒカルが壊れてしまうような気がする…… ――まずは逢おう、とアキラは肩の力を抜く。 こんなことなら、無理をしてでも帰国をもっと早めるべきだった。思わず、そんなどうにもならない後悔をしてしまいそうになる。 「それにしても、前に進藤くんはアキラのライバルって噂があっただろ。俺、正直進藤くんをそこまで評価してなかったんだけど、今回ので見直したよ。アキラもボヤボヤしてられないんじゃないか?」 アキラは何も言わず、ただ笑った。芦原に何の疑問も持たせないような、鮮やかな笑顔だと我ながら自嘲したくなるような表情だった。 先ほどまで本気で感謝をしていた、この気のいい兄弟子がすでに煩わしくなっている。 アキラは偏った自分の心に呆れながらも、その偏りを全く修正するつもりがない自分に気づいていた。 |
若、相変わらずヒカルのことばかり……
ちょっと芦原さんが可哀想な気がする。