深愛






 出張先で見かけた鯉のぼりに足を止めた。
 ああ、もうそんな時期かと目を細める。
 東京の街中ではすっかり見かけなくなった鯉のぼりは、ひとつの季節の目安だった。
 心の中に訪れる、自分だけの四季。
 寂しさを強く含んだ、秋に似た風を持つ辛い季節の始まりだった。




 ぼんやりと窓に顔を向けて、一人用のソファに深く腰掛けたヒカルはしばらく黙っていた。
 時刻は遅く、窓にはカーテンがかかっている。それでもじっとカーテンを見つめるヒカルの目には、その向こうにある外の景色が映っているかのようだった。
 小さなガラステーブルの上に置かれた折り畳みの碁盤。黒と白の石が満遍なく並び、すでに終局に近い。
 ヒカルの向かいに座っていたアキラが、パチ、と小さな音を立てて白石を置いた。
 音に呼ばれたように、ヒカルは視線を窓から碁盤に下ろす。少し考えるように目を細めて、おもむろに碁笥に手を伸ばし、黒石をパチンと打った。
 打つとすぐに窓に顔を向けるヒカルを、アキラは黙って見つめている。不思議そうな顔も、不快な顔もしていない。傍から見れば集中していないように感じるヒカルの様子は、アキラにとってはそうは映っていないようだった。
 アキラは常時碁盤に意識を向けていないヒカルを責めることなく、白石を打ち返す。再び音に振り向いたヒカルは、盤上に苦い目を見せた。
「負けました」
 ため息混じりにヒカルが告げると、アキラは有難うございましたと頭を下げる。ヒカルも同じく頭を下げ返し、余韻に浸ることなく石を崩し始めた。
「中央を後回しにしたのがまずかったな」
「踏ん張れると思ったんだけどな。お前、荒らしに隙なくなってきたな」
 アキラも石の選り分けに手を貸し、二人は手際よく黒白それぞれの碁石を碁笥にしまう。ぱたん、と碁笥の蓋を閉じると、一瞬室内には静寂が満ちた。
 ホテル、というより旅館に近い宿の一室。本日行われたイベントの目玉として公開対局を行った二人は、イベント終了後の打ち上げを終えて、アキラの部屋で夜の一局を楽しんでいた。
 周囲からも旧知の仲として知られる二人が揃ったせいか、アキラと同室であるイベントで大盤解説を行った若い棋士は二次会に行くと早々に退室した。
 気を使わせたかな、と苦笑するヒカルは三十路目前、棋界でも中堅と言って差し支えない立場にいる。無論、同じ年であるアキラもまたそうだった。
 窓際のソファに身体をどっかり預けて、くつろぎながらぽつぽつと今日のイベントのこと、リーグ入りしている棋戦の話、国際戦についてなど軽い調子で言葉を交わす。手元にはそれぞれビールの缶。
 話題こそ碁一色だが、顔を付き合わせればとにかく打つ、といった少年時代は卒業して、こういったのんびりした時間を楽しむことが自然に出来るようになった。
 ヒカルはアキラとの会話の最中にも、癖のようにカーテンのかかった窓を眺める。その仕草にはっきりアキラが気づいていることを、ヒカルもまた理解していた。
「明日は指導碁だけ?」
「あー、なんかトークショーだかに借り出される。お前が断ったやつ」
「そういうのはキミのほうが向いてる」
「ったく、主催側も俺がいるからお前にごり押ししねえもんな。面倒なのばっかり押し付けやがって」
 アキラが穏やかな笑顔を見せる。ヒカルもまた、口調の割に大して困っているようでもない笑顔を返した。
 そうしてふいに会話が途切れても、その静けささえ慣れ切った二人には気まずさは感じられない。それどころか、とても居心地が良いと――ヒカルは口を湿らせる程度に運ぶビールを舐めながら、他の誰とも作り得ないこの独特の時間をいとおしく感じていた。


 いつ頃からだろうか。
 二人でいるのが何よりしっくりくると実感するようになったのは。
 恐らく、いや間違いなく、アキラも同じように思ってくれている。
 それどころか、お互いほんのちょっとずつ手を伸ばせば、もうひとつ関係を飛び越えられるだろうことも分かっている。
 それが出来ずに何年も経ってしまったのは、思い切れない自分がいるから。
 ヒカルは、自分の中に巡る季節が繰り返す切なさに、十年以上経った今でも囚われていた。


 ビールが底をついたのが合図になった。
「……そろそろ戻るわ。明日も早えし」
「……ああ、また明日」
 ソファから立ち上がり、うーんと背伸びをする。そんなヒカルを静かに見守りながら、アキラもゆっくりと立ち上がった。
 部屋を横切り、ドアへ向かうヒカルの後をアキラは当たり前のようについてくる。戸口で振り返ったヒカルの目に映るアキラの表情は、いつも通り穏やかだった。
「……おやすみ」
「ああ、おやすみ」
 ほんの二秒見詰め合って、顔を逸らしたヒカルはドアの外に身体を滑らせた。
 静かに閉まる扉に一瞬だけ背をつけて、ふっと息を漏らす。
 ――あのまま口付けたってきっと何の違和感もない。
 お互い、改めて確認する必要もないほど分かりきっている。
 それができないのは……
(……俺が、まだ忘れてないから)
 そしてアキラも、そんなヒカルを待ってくれているから。



 ――アイツは特別なんだ。
 そう自覚したのは最近のことではない。
 物心ついた時から傍にあった強烈な眼差し。同じ土俵で勝負に挑めるようになってからも、他の誰とも違う不思議な関係は時を追うごとに深まるばかりで、目に見えない結びつきは強くなっていった。
 この気持ちはそうなのだろうかと、自分の胸に問いかける。
 甘く震える胸の鼓動は、しかし次の瞬間には怖気づいてしまうのだ。
 ――大切だから。……もう一度失ってしまったら、俺は……きっと……
 今も心の奥底に住まう、暖かくて優しくて、寂しい微笑み。
 まだ傷口が塞がらない。
 かつて失った静かな微笑みが、新たな微笑みに目を向けようとするのを引き留める。
 アイツのせいじゃない、と自嘲気味に口唇を吊り上げ、ヒカルは誰もいない背後を振り返って目を細めた。
 ――俺が、臆病なんだ。消えたお前の影を、いつまでも引きずってる……
 十年以上も時が過ぎたのに、この時期が来れば毎年必ず心が騒ぐ。
 消えてしまった優しい影。
 あの眼差しが、今でも胸から離れない。




 ***




 オバケはさ、もっとオバケらしくするもんなんだよ。
 いきなり出てきて、碁を打たないと取り憑くぞ、とかならまだ分かるんだけどさ。
 お前もう憑いちゃってるんじゃん。おまけになんかメソメソしてさ、脅しっつうより泣き落としじゃん。怖がるタイミング完全に外しちゃったじゃねえか。
 それにさ、やたらキレイなんだよな。優しい目ぇして、髪の毛が長くてきらきら光ってて……触れなかったけど、できるのなら触ってみたかった。凄く柔らかかったんじゃないかなって思うよ。絹みたいな手触りでさ。
 凄く素直なヤツだった。したいことはひとつだけなんだ、「碁が打ちたい」。
 碁が打てれば喜ぶし、打てなかったら悲しむ。
 あんまり分かりやすすぎて、お前のその素直さが逆に腹立つっつうか……うまく言えないけど、むしゃくしゃすることもあった。それ以上もそれ以下も望まないお前のひたむきさが羨ましかったのかな。
 たぶんアレだ。俺はガキ大将タイプだったから、好きな子には素直になれないってヤツ。
 ついついお前に辛く当たったり、キツイ言い方したり、俺だって反省はしてるんだよ。逢えなくなるって分かってたら、きっともっとお前を大事にしたんだろうけど。
 ガキの頃は毎日明日がやってくるのを信じちまってるから。
 傍にあるものが、消えてなくなる怖さなんて知らないからさ。
 だから……分からなかったんだ。
 お前がどんな思いで叫んだか。
 「消える」という言葉の意味が。
 ……分からなかったんだ。


 たぶんな、ちょっとした憧れみたいなのはずっとあったんだと思うよ。
 お前はそこらの女よりもよっぽどキレイな顔してたからな。いわゆる思春期って頃に一番近くにいたヤツだし。
 それがな、いなくなってから余計に強く感じるようになった。
 ずっと一緒だと思ってた。だから俺は、俺の中にいるお前の大きさに気づかなかった。
 今になって、思い知らされるんだ。
 俺が、どれだけお前を大切に想ってたか。
 お前との時間が、どれだけ俺にとってかけがえのないものだったか。
 それはな、お前の他に同じくらい大切な人が出来た今でも変わらないんだ。
 俺は一歩踏み出せずにいる。
 お前を失って、ぽっかり空いた胸の穴――自分ひとりで埋められないまま、どれだけ経っても心が臆病なままで。
 たぶん、穴を埋めてくれるとしたらアイツだ。
 そんなことよく分かってる。
 でも、俺は俺の背負う闇をアイツに半分任せるのが怖い。
 アイツが、もしも俺から離れてしまったら――そう考えると、足が竦んでビビっちまうんだ。
 二度目の別れは無理だ。お前を失った傷だって膿んだまま完全には塞がっていないのに、アイツまでいなくなったら……
 俺の心は永遠に欠けて、二度と元には戻らない。
 それが怖くて、俺はもうずっとアイツの近くで燻ってる……





今回は完全シリアスで。
この後オリキャラ出て来るので苦手な方はご注意を。