深愛






「お疲れ様でした」
「今日は有難うございました」
 関係者との挨拶を交わし、イベントの成功を祝い合っている中、足早に控え室を出ようとしている影が目に留まった。
 ヒカルは顔を上げ、早々に会場を後にしようとしているアキラの横顔をかろうじて目に留める。
 ちょっと失礼、と人を掻き分け、部屋を出てすぐに遠くなりかかっていた背中を声をかけた。
「塔矢!」
 アキラは立ち止まり、振り向いて小さく笑う。
「お前、もう出るのか?」
 駆け寄ったヒカルが尋ねると、アキラはすまなさそうに頷いた。
「明日、札幌で解説があってね。二時間後の飛行機に乗らなければいけないんだ」
「そっか……忙しいんだな。気をつけて行けよ」
「ありがとう。じゃあ、また」
 アキラは笑顔で軽く手を上げると、堂々と伸ばした背をヒカルに向けて颯爽と歩き始めた。
 廊下の向こうへ消えていくアキラの姿をぼんやり目で追ったヒカルは、軽く頭を振って控え室へと足を向ける。
 ヒカルにはこの後特に予定がない。関係者への挨拶を済ませてからゆっくり東京に戻るだけでいい。
 アキラがいない分も自分がきっちり役目を果たさねば――ヒカルは棋士の顔に戻ってドアノブを掴んだ。




「空港まで」
 タクシーの硬いシートにどっかり背中を凭れさせ、仕事と名のついたお祭り状態から解放されたヒカルはようやくほっと一息つく。
 大人のフリをするのは疲れる――棋院の事務長が聞いたら怒られそうなことをのんびり考えて、束の間の休息を楽しむべく流れる景色に目を向けた。
 飛行機の時間まではかなり余裕があるが、後からばたばたするよりは空港で時間を潰したほうが良い。そう判断したヒカルは、挨拶の区切りがついたところで他の関係者よりも一足先にタクシーに乗り込むことにしたのだ。
 誰にも気を使わない静かな空間を手に入れて、早々に抜けて来たのは正解だったなと静かに微笑む。
 元々堅苦しい場が苦手なせいか、ボロを出さないように神経を使うのがやたらと疲れるのだ。しかし年齢的にも立場的にも「余計なことを言ったら困るんで帰ります」なんて言えない身なのだから、自分が気を張るしか方法がない。
 それでもアキラが傍にいれば、フォローの期待が高まってずっと気楽でいられるのだけれど。
(今頃、雲の上かな)
 お互い忙しいスケジュールの中、仕事が被ったのは久しぶりだった。
 今まで何度も経験している公開対局だが、相手がアキラとなると俄然力も入る。それに、それぞれの癖を知り尽くしているものだから、観客が喜ぶようなスリリングな展開に持っていくことも容易い。
 それは八百長と呼ばれる類のものではなく、エンターテイメント性を意識したプロ棋士としての心遣いだった。そういった展開の調整を、アキラとならば特に苦もなく出来ることが、ヒカルにとってのささやかな自慢だった。
 仕事抜きで、昨日の夜のようにゆっくりと向き合って打つことができるのは今度はいつになるだろうと、若干の寂しさを感じながらぼんやり眺めていた外の景色。
 橋の横を通り過ぎるところだった。
「――……」
 外は確か風が強かったはず。……そんなことを思い出した。
 橋に立つ人の長い黒髪が、風に靡いてふわりと空気に流れていたその様が、ヒカルの胸を激しく叩いた。
 長い長い、黒い髪だった。

「――停めてくれ!」

 咄嗟だった。
 運転手が驚いてブレーキを踏む。
 タクシーは橋から数十メートル離れた場所で急停止した。
 ヒカルは釣りはいらないからと万札を渡し、急いでタクシーを降りる。
 橋に顔を向けると、少し距離は離れてしまったが、確かに誰か人が立っているのが見えた。
 ヒカルは思わずタクシーを降りてしまった自分の行動に戸惑っていたが、やがて乗っていたタクシーが遠ざかるエンジン音を背後に聞き、決心して橋へと近づいていった。
 ――別に何か期待したわけじゃない。
 一瞬、小さなガラス枠の向こうに懐かしい光景を目にして、つい気を惹かれてしまっただけなのだ。
 風に靡く長い髪。
 たったそれだけのことなのに、思わず意識を奪われた。
 期待したわけじゃない。……もう逢えないことは分かっている。
 違う人だと理解しているのに、足はゆっくりと橋の上に佇む人物目指して前へ前へと進んでいた。
 少し大きめに声をかければ届く、という距離で、ヒカルはその人が女性であるということに気づいた。
 考えてみれば当たり前だろう。今の時代、腰を越えるような長い髪を持つ男性は珍しい。
 彼女は橋の縁に手をかけ、じっと橋下の川を見つめている。身じろぎひとつしないその様子を、ヒカルが不審に思うまで時間はかからなかった。
 ――何やってんだろう。
 つい、疑問を口に呟きそうになった時。
 彼女の身体がふらりと前方に倒れた――ように見えた。
 ヒカルは目を剥き、声を出すより早く駆け出していた。
「おいっ……!」
 怒鳴り声に彼女がはっと振り返る。
 その顔をしっかりと確認する間もなく、ヒカルは細い身体を捕らえて橋の縁から引き剥がした。
 勢い余って地面に倒れこんだ二人は、呻き声と共に身体を起こす。
 長い髪がだらりと下がって、まるで彼女自身を覆い隠すようだった。
 咄嗟に自分の身体を下敷きにして庇ったとはいえ、砂利の転がる橋の板の上に倒れたのだから、ヒカルが第一に考えたことは「怪我はないか」ということだった。
 当然のようにその言葉をぶつけようとして、やおら顔を上げた艶やかな黒髪の間から覗く切れ長の瞳――
 胸が竦んだ、そんな気がした。
 地面に右手をついたまま、左手で髪を書き上げた彼女の顔は一瞬脳裏をよぎった顔とは全く違っていた。優し気な雰囲気が似ていなくもない、その程度。
 自分一人で高まった期待が見せた幻に、少なからず感じている落胆をヒカルは認めざるを得なかった。
 できるだけ感情を声に表さないよう、低い声で「大丈夫か」と呟いた。なんだか怒っているみたいな声だなと自分で気にしている間もなく、優しげに見えていた女性の顔が見る見る強張っていくのに気づいてヒカルははっとする。
「何するんですか!」
 想像以上の大声で、至近距離で怒鳴られた。
 思わず耳を塞ぐ代わりにぎゅっと目を瞑ってしまったヒカルだが、すぐに気を取り直して言い返す。
「そ、それはこっちの台詞だろ! 何しようとしてたんだよ! 橋の上から身ぃ乗り出して!」
「川に魚がいたから見ていただけです! いきなり突き飛ばすなんて……!」
 ヒカルの大声に物怖じせず更に言い返してきた女性の言葉を、ヒカルは確認するように呟いた。
「魚?」
 彼女は答えずにじっとヒカルを睨む。
 ヒカルは鈍い動きでゆっくり立ち上がり、橋の下をひょいと覗き込んだ。……確かに、目を凝らすと水の中でひらひらと泳ぐ影が見える。
 ヒカルは頬を赤らめて、ごめん、と小さく謝罪しながら彼女に手を伸ばした。未だ地べたに尻をついたままだった女性は、一瞬躊躇う素振りを見せたものの、すぐにヒカルの手を取って立ち上がった。
 ぱんぱんと大きな動作で砂埃を払う女性を前に、ヒカルは長身を屈めて再び頭を下げた。
「ホントごめん。その……飛び降りるんじゃないかって勘違いしたんだ。怪我、ない?」
「……大丈夫です」
 まだ強張ったままの顔を向けて憮然と答えた彼女の目は、やはり見間違った人と瓜二つという訳ではない。
 それでも何故だろう、どことなく彼の人を思い出させるのは、そうであって欲しいと願う自分の心が錯覚を見せているからだろうか。それとも、自分とさほど年齢が変わらなく見える女性が不貞腐れたように口を尖らせている様が、あの子供っぽい怒り方と似通っているからだろうか。
 そんなことを考えながら、ヒカルは静かに苦笑した。
 それを嘲笑と受け取ったのだろう、女性はまたむっとしたように目を吊り上げる。
 ヒカルは慌てて弁解を始めた。
「ふ、ふざけてる訳じゃないからな。……勘違いでよかったって思っただけだよ」
「……本当に?」
「本当だよ。服、汚れてない?」
「……、はい……」
 軽くスカートをひらめかせて汚れを確認した彼女は、ようやく少し表情を和らげた。
 目を吊り上げていた時は随分とキツイ印象があったものだが、こうして普通の顔をしていると本来は穏やかな性格なのだろうと思わせる柔らかい雰囲気がある。
 無理矢理にでも相似点を探しているのだろうか――ヒカルは自分よりも頭ふたつほど背の低い女性を見下ろして、過去に見た視点とは明らかに違う景色に目を細める。
 女性は少しだけ不思議そうな顔をした。
 その時、ポケットに入れていた携帯電話がうるさい電子音を響かせた。びくっと肩を竦めたヒカルは、慌てて音を鳴らしながら震える携帯電話を引っ張り出す。
「もしもし? あーはい、進藤です。今? いや、実はまだ空港に着いてなくて……」
 後続で空港を目指す棋士仲間からの連絡に、手首の時計を見ながらヒカルは不必要に大きな声で現状を説明した。勿論、すぐ傍に女性がいることは伏せて。
「ああ、じゃあ同じくらいに着くかも。はい、じゃ空港で」
 通話を切り、ふっと息をつくと、ヒカルは何かを吹っ切ったように軽く天を仰いだ。
 ――あんまり望みのない夢は見るもんじゃない。目が覚めた後が辛いから……
 そして女性に向き直り、にっこり笑いかける。
「ごめんな、邪魔して。飛行機の時間あるから、俺行くわ」
「飛行機って……、ここ、空港から随分離れてるけど……」
「あんた見つけてタクシー飛び降りちまったんだ。またそこらでタクシー拾うよ……じゃあな」
 身を翻し、駆け出しかけたヒカルの背中を、女性の声が追ってきた。
「あ、あの!」
 足を止めて振り返ったヒカルの目に、少し険しい顔で驚いたようにヒカルを見ている女性の姿が映った。
「タクシー飛び降りたって……、どうして、そこまで」
 思いがけなく呼び止められたことに微かに動揺したものの、何故だか真剣に尋ねている彼女の眼に引き込まれるように、ヒカルは自然と口を開いていた。
「……、あんた、ちょっと似てたんだ。俺の大事なヤツに」
 彼女の眼がひとまわり大きくなった。
「……もう、いないけどな」
 言わなくても良い一言を小声で呟いた後、女性の反応を見ることを怖れたのか、ヒカルは再び前方を向き直って走り出した。
 彼女が更に声をかけてきたかどうか、分からない。風を切って走る耳には少なくとも何の声も聴こえなかった。

 ――もういない。分かってる、そんなこと。

 それなのに、いつまでも未練がましく幻を夢見るのは何故だろう。
 手を取るべき人がすぐ傍にいるはずなのに、素直に前を向けないのはどうしてだろう。
 もしも今、あの懐かしい人が現れたとしたら、こうして道を進みあぐねている自分の何かが変わってしまうんだろうか……






ヒカルと、この女性がメインでお話が進みます。
オリキャラ苦手な方ごめんなさいね。