一人残された喫茶店で、ヒカルは残っていたコーヒーを飲み干した。 それから力強く立ち上がると、しっかりした足取りで店の外に向かう。 ――立ち去る女性を一瞬呼び止めようとして、名前すら知らないことに気がついた。 でも、それでいいのだと思った。 お互い、つかえていたものを取り除く手伝いをした、それだけの存在。もう二度と会うことはなくても、それぞれの未来は見えている――それはきっと輝く世界。 さあ、止まっていた時間を動かしに行こう。彼はきっと、女性と二人で消えた自分を目にして悶々としているはずだ。 伝えに行こう。胸に住まう大切な人の存在は消えないけれど。それでもいいと、頷いてくれるのなら―― *** 帰宅したマンションの部屋の前、予想通りにドアに背中を凭れさせて主人を待つ男の姿があった。 部屋の主であるヒカルは、右手の中で鍵を遊ばせながら苦笑して、すでに自分が近づいていることに気づいている男へ声をかける。 「よお。……いつからいたんだよ、このやきもち焼き」 その言葉に、背中を浮かせたアキラはむっとしたように口唇をへの字に曲げた。心成しか頬を赤らめながら。 冷蔵庫を開けて二人分の飲み物を物色しているヒカルの背中に、アキラの躊躇いがちな声が届く。 「……その。ずっと、あの女性と一緒だったのか……?」 ヒカルは背を向けたまま、小さく笑った。 「だとしたら?」 「……、ボクが、どうこう言うことじゃないけど」 そうして黙ってしまったアキラが無性に愛しくなって、ヒカルは冷蔵庫の扉を閉めた。 普段は浮いた噂のひとつもないヒカルを、女性が尋ねてきたというのが相当ショックだったようだ。そのあからさまな動揺が可笑しくて、嬉しくて、申し訳なかった。 ヒカルは振り向き、ソファにも座らず突っ立ったままのアキラを見つめる。珍しく落ち着きのないアキラは、座るタイミングを逃して微かに身体を揺らしていた。 あの女性は誰かと聞けないアキラが好きだ。本当は問い詰めたいだろうに、自分たちの関係にはまだ余計なハードルがあることをきちんと自覚して、ヒカルの許可なしに飛び越えて来ようとしない。 十年以上も、アキラにその位置を強いてきたのはヒカルだった。 ヒカルはゆっくりアキラの元へ近づいて行った。普段と雰囲気が違うことを察したのか、アキラが少し驚いたように身構えたのが分かる。 アキラの目の前に立ったヒカルは、そっと手のひらを自分の左胸に当てた。 「――ここに。ずっと前から、でかい穴が……空いてんだ……」 アキラが瞬きをする。ヒカルは薄ら微笑さえ浮かべて、微かな戸惑いを見せるアキラをじっと見つめていた。 「俺が失くした、大事なもの。空いたまんま塞がらない。俺はずっと、この穴が塞がらないとお前に手を伸ばしちゃダメだと思ってた。……そう、思うようにしてきた。でも」 次いでヒカルは右胸を押さえた。心臓の拍動は僅かに遠ざかったが、それでも脈打つ身体のリズムはしっかりと右胸にも響いている。 「お前もこっちでおんなじだけ大きくなって、俺の中に住み着いてる……。俺はアイツを忘れられない。お前とは比べられない。もし、もしもお前がそんな俺でもいいって……言ってくれたら……」 小さく息を吸い、決意が揺るがないうちに、言葉に想いを託して囁くように告げた。 「俺の人生……、――半分、支えてくんねえか……」 アキラの目が一回り大きくなった。 そして、大きな瞬きを一度見せたかと思うと、ぎこちなくヒカルから目を逸らして、困ったように手のひらで顔の下半分を覆う。 一瞬、ヒカルは自分の告白が失敗したと思った。アキラに拒否されてしまう――頭を過ぎった暗雲は、しかしすぐに掻き消されることになった。 「……、キミは……、」 喉に引っかかるような歯切れの悪い声。 躊躇いながら、アキラは苦々しく眉を寄せている。 「キミは……、言うのが遅いんだ……」 その渋い表情がほんのり赤らみ始めた。 ヒカルの目の前で、アキラはうろうろと視線を泳がせながら、まるで言い訳を探しているように口ごもりながら続ける。 「あんまり、遅いから……」 そこでようやくちらりと向けられたアキラの目には、照れ臭さがいっぱいに表されていて――ヒカルはぽかんと口を開いた。 「ボクはとっくにそのつもりだった」 その言葉に、ヒカルは口だけでなく目も大きく見開いて、それからすぐに破顔した。 無意識に腕を伸ばすと、当たり前のように引き寄せられる。ぐっと胸に顔を押し付けられ、初めて感じる暖かさにヒカルは切なげな吐息を漏らした。 「分かってたよ。キミの中にいる、もう一人の存在は。それがどんなに大きなものか、ボクだけは分かってる。……埋められなくてもいい。傷を抱えたキミを、丸ごとボクは――愛してるから」 とうや、と夢見心地に名前を呟き、ヒカルは広い胸に額を擦り付ける。 「……んだよ、あんま、カッコイイこと言うな……。惚れ直すだろ」 「そうしてくれると有り難い」 「……、ったく、お前ってヤツは……」 少しだけ砕けた会話で心を解しながら、口調とは裏腹にヒカルを抱く腕の力は強い。 息が止まりそうなくらいに抱き締めてくれる相手から、今までずっと逃げ続けていた。 ――たとえこの先、きつく身体を抱き締めてくれる熱を失うようなことがあっても。 胸に空いた大きな穴がふたつになる日が来たとしても。 それでも、この穴がなければとても淋しい人生になったと、後からきっと懐かしく思うだろう。そして、かつての幸せな日々が培ってきた大切なものを誇らしく思うはずだ。――出逢えて、よかったと。 願わくば、穴はひとつでいい。この温もりが絶対である保証はないけれど、未来を夢見ることは自由だ。 その穴も、ひょっとしたら暖かい腕の中で少しずつ小さくなっていくかもしれない。消えることはなくても、小さく、小さく、いつまでも胸に巣食う穴だとしても、……消えなくていいから。 だからさよならは言わなくてもいいだろうか―― 「忘れらんねえんだ。忘れたくねえんだ」 「うん」 「でも、お前と一緒にいたいんだ……」 「……うん……」 じわりと目尻に浮かびかけた水滴は、そのままアキラの胸に吸い込まれた。 きっとこれからも心の中で季節は巡る。自分の中だけの時計は今も動き続けている。 だけど、隣にはそんなヒカルを支えてくれる人がいる。 優しく背中を撫でる手のひらが、それでいいんだと囁いているように思えた。 閉じた瞼の裏で、青い空にはためく鯉のぼりが遠く霞み、ひとつの季節の終わりを告げていた。 |
ずっと昔にいただいていたリクエストの内容:
「アキラの事が気になりながらも佐為の事を失くした事がトラウマで
引き気味なヒカルが、最近恋人を亡くした女の人と知り合いになって
共感しちゃうんです。その女の人もヒカルの態度から、大事な人を
亡くした事があることを感じ取ってしまいます。
ヒカルはそれを指摘されて、つい佐為のことを話してしまうんです。
(全然知らない人の方が話しやすかったりしませんか?)
その女の人はありえない話にびっくりするけど真剣に話すヒカルの気持ちを
わかってくれて、その事がうれしくて仲良くしちゃうんですけど、
それを見てヤキモキするアキラ。お互いに話すことで、慰められたヒカルは、
前向きに自分の気持ちに向き合おうとする・・・」
リクエスト戴いた内容からは随分さらっとさせてしまったと思います……。
設定を十代後半〜二十代前半にすれば違ったと思うんですが、
大人向けしっとりを目指してあまり重くならないようにしました。
抱え続けるものがあってもいいんじゃないかなと思います。
リクエスト有難うございました!&遅くなってすいませんでした!
(BGM:深愛〜only one〜/河村隆一)