深愛






「五年くらい前、何日も雨が続いたことがあって。川の水が氾濫して……避難勧告が出て……何人か、行方不明になるくらいの酷い洪水になって……。親戚の家に避難した日から、連絡が取れなくなった。連絡しにくい場所にいるんだろうって思ってた。」
 女性はぼんやりと開いたままだった目をゆっくり瞑り、再び開く。
「……見た人がいたの。子供、川に落ちたんだって。追いかけて飛び込んで……そのまま流されたって。海に繋がる川の下流に、流されて、飲み込まれて、あっという間に……姿が見えなくなってしまったって……」
 瞬きの回数が極端に少ないせいか、とろんとテーブルに落とされた目はうつろに乾いて見えた。
 先ほどまで使っていた敬語が消えた時から、ヒカルは彼女の話が自分に聞かせるためというより、彼女の中での事実確認であろうことを察していた。
 口調には抑揚がなく、向かい合う彼女に悲壮感はない。しかし真っ白な顔色で出来事を語るだけの彼女には、表情からは窺い知れない深い闇が隠されていることがヒカルにはよく分かった。
「捜索隊も出たけど、結局見つからなかった。……ついこの前の話みたいな気がする。今でも帰ってくるんじゃないかって、期待とかじゃなくて、帰って来ないことのほうが不思議で」
 不自然に言葉を区切った女性は、おもむろに紅茶を手にしてぐっと一口含んだ。カップをテーブルに置く手が微かに震えていたのをヒカルは見逃せなかった。
 ヒカルは何故、たった一度しか会ったことのない自分に女性がこんな話を聞かせるのか、その理由が分かったような気がした。
 あの日、橋の上でヒカルが告げた『もういない』の言葉――きっとあれが彼女にとっての何かの鍵だった。
 もういない。……口に出すと、なんて呆気ない事実。
 もういないのに、自分の中に占める存在があまりに深くて、認めることが怖かった。目の前の女性もまた、同じだったのだろう。
 女性は震える指先をカップから外すことさえ若干難儀し、震えを押さえ込むように両手を組んで握り締めた。
「――もう、いないんだって……分かってるのに、分かっちゃいけないような気が、して……」
 聞き取るのも難しいほどの小さな呟きは、ヒカルの眉間の皺を少しだけ深くさせた。
「……、あんた、もしかしたら……」
 女性がちらと顔を上げ、ヒカルにぼんやりした目を向ける。
 ヒカルは一瞬躊躇った。想像を口にし、この女性を更に傷つけることにならないだろうかと。
 それでも言葉を続けたのは、ひょっとしたら、彼女は言ってもらいたがっているのではという予想もまた浮かんだためだった。――自分のように。
「今……好きなやつ、いるんじゃ……」
 ささやかな強張りだったが、顕著だった。
 きゅっと口唇を結んだ女性は、無言のままにヒカルの言葉を肯定したようなものだった。
 ヒカルは目を細めた。――ああ、この気持ちはよく知っている。自分と同じ。思い切れず、忘れられず、きっかけを探すことさえ怖気づいているもどかしい心。
 手を伸ばせば届く位置にいる人に、全てを晒して失くしてしまうのが怖い。少しだけ勇気を出せば、きっと出るだろう答えを出すのが怖い。
 その気持ちは、よく知っている……。
 ヒカルの問いかけにしばらく無言だった女性は、ゆっくりと頭を垂らし、自分の腹を覗き込むような角度まで俯いてから――ぽつりと呟いた。
「あの人の、弟なの」
 ヒカルは小さく息を呑んだ。
「全部知ってて、それでもいいって言ってくれる。でも、それでいいのかどうかの結論を出すこと、ずっと出来なかった。……今も」
 俯いたまま、上目遣いに視線だけを寄越した彼女の目がヒカルに問いかけている。
 ――『あなたは?』
 ごくん、といつの間にか口の中に溜まっていた唾液を飲み込んだ。
 多分彼女は分かっている。今は認められないだけで、答えはひとつしかないことを。
 だけど自分ひとりの力でその答えを受け入れる勇気がなかった。……それはヒカルも同じだった。
 彼女はあえて見ず知らずの相手を選んだのだろう。ほんの僅かな邂逅で、自分と同じ目の色をヒカルの中に見て。
 ヒカルは目を閉じ、一秒だけ祈りを込めるように眉を寄せ――静かに目を開く。
「……きっと、そいつは――思い切れないあんたを丸ごと、大切にしてくれるよ……」
 彼女が目を細める。恐らく自分も同じような表情をしているだろう――ヒカルは胸の中にどうしようもない思いが溢れてくるのを抑えられなかった。
 優しい微笑みがふたつ。比べられない。忘れられず、離れられない。
 燻り続けて十年以上、誰にも話せなかった思いが、今強烈な勢いで昇華したがっている。
「――そいつは、恋人ってんじゃ……なかったんだ」
 ヒカルもまた、独り言を壁に向かって話すように、淡々と語り始めた。


「わがままで、ガキっぽくてさ。俺よりずっと大人だったくせに……でも、憎めなかった。何やるんでも、何処行くんでもずっと一緒だった。一緒にいるのが当たり前だと思ってた……」
 蘇る遠い日の記憶。あの頃、まだ自分はただの小さな子供でしかなかった。今なら背も追いついて、同じ高さの目線に不思議な気分になるのかもしれない。
「ずっと一緒だって、思い込んでたんだ。だから、突然そいつが消えてから……俺の胸ん中に居座ってたそいつの部分だけがぽっかり穴空けて、今も……塞がらない……」
 ――せめて、「さよなら」と。
 別れの言葉を交わすことができていたら、何かが違ったのかもしれない。
 いや、しかしと首を振る。さよならを告げられたら、本当の別れになってしまう。
 あの曖昧な別れは、十年以上もヒカルを立ち止まらせる原因でありながら、完全に失ってしまったことを否定するための砦でもあった。
 どういう結果でも、同じように苦しんだに違いないのだ。虚ろになったに違いないのだ。そんなヒカルの葛藤を、何も言わないことでアキラは受け入れてくれていた。
「『アイツ』は……どこまで俺ん中の穴に気づいているのか、正直分かんねえ……」
 はっきりと口にしたことは一度もない。大昔に、「いつか」と自ら告げた言葉を覚えている保証もない。
 それでも気づけばアキラはいつも黙って傍にいてくれた。決まった季節が来る度に散漫になるヒカルの心を、何もかも分かっているのだと、都合の良い解釈かもしれないが、静かな瞳で今のヒカルを肯定してくれているように思えた。
 その腕に飛び込みきれないのは、万が一期待が外れていたときの恐怖もあるけれど――何より、それだけの深い情で自分を見守ってくれていた人がいなくなってしまう可能性を捨て切れなかったから。
 もしも離れてしまったら。
 もしも不慮の出来事で失うことがあったら。
 その時果たして自分は立っていられるだろうか? それはとても臆病で、無意味な想像だと分かっているのに、頭から完全に追いやることができなかった。
 本当は、答えはとっくに出ていたのだけれど。
「それでも、『アイツ』はもう、俺の中に空いた穴とおんなじ大きさでここにいる。たとえこの先アイツを失うようなことがあっても、俺はもうとっくにアイツを……」
 忘れられやしない。
 手を伸ばしても、伸ばさなくても同じ。
 心の中で優しく笑う二人への想いは、形こそ違うけれど、同じ強さでヒカルの胸を占めていた。
 それまでじっと黙ってヒカルの話を聞いていた女性が、ふいに薄く口唇を開いた。
「――たぶん、その人の胸にもあなたがいるわ。穴の空いたあなたを、そのまま必要としてくれている」
 ヒカルは静かに目を閉じた。
 自分一人で導くのを怖れていた答えを、お互いに与え合っている――たった一度のささやかな出会いが、自分たちの中で大きく形を変えようとしていることに、ヒカルも女性も気づいた。
「忘れる必要、ねえよ。ずっとそいつの帰りを待ってたっていい。そんなあんたでいいって言ってるヤツに、全部任せちまえばいいんだ」
「穴を無理に塞ぐことないわ。その穴も、大切な思い出のひとつだもの。思い出をずっと抱えていくのは悪いことじゃない……どうしても辛くなったら、もう一人の大切な人がきっと受け止めてくれる」
 噛み合わない言葉はしっかりと相手の胸に届いた。
 自分の背中は押せなくても、他の誰かになら言える言葉。
 二人は見つめあい、小さく笑った。
 それから女性は、ありがとうと頭を下げた。
「……ずっときっかけが欲しかったんです。見ず知らずの人に、こんな話をしてすいませんでした」
 ヒカルは首を振る。
「俺はそのきっかけさえ探そうとしないで逃げてたんだ。……感謝するよ。ようやく、前を向く勇気が持てた」
 それからテーブル脇に丸めて立てられていたレシートを指先で引き抜くと、払わせて、と女性に微笑みかける。女性は少し困ったように眉を下げたが、笑い返すことで応えてくれた。
 バッグから取り出した携帯電話で時刻を確認した女性は、じゃあ、と立ち上がった。
「そろそろ、行かないと。……彼のお墓参りに向かう途中だったんです」
「……ああ……」
「報告することがたくさんあるから、急がないと。……ごちそうさまでした。お仕事、頑張ってください」
 女性は再びぺこんと頭を下げ、一度は身を翻しかけた。が、すぐに立ち止まってヒカルを振り返り、こんなことを言った。
「あの時、本当は凄くびっくりした。……あなた、少しだけあの人に似てる」
 ヒカルは目を丸くして、思わず苦笑した。
「……それじゃ、ろくでもない男だっただろ」
 ヒカルの言葉に、女性は悪戯っぽい、どきっとするほど綺麗な笑顔を浮かべてみせた。
 ふわりと揺れる長い黒髪に、ヒカルは目を細める。

「……とっても素敵な人だったわ!」






女性の出番はこれで終わりです。
なるべくさらっとした大人の雰囲気を目指したけど、
目指しただけで終わった気もする……