「二人ともお疲れ様! 大盛況だったわよ!」 日高にばしっと背中を叩かれ、ヒカルは顔を顰める。 控え室に戻ってきたヒカルとアキラは、ふうっと短いため息をついて顔を見合わせ、少し笑った。 「対局は見ごたえあったし、お客さんも喜んでたみたい。大成功よ大成功! ホントにありがとう!」 素直に喜びを表す日高に真っ直ぐ手を差し出され、アキラは笑顔でその手を握り返す。ヒカルもまた、日高としっかり握手を交わした。 「こちらこそ楽しかったです。お役に立てたのなら幸いです」 「いいえ、忙しい中引き受けてくれてありがとう。おかげで高校生活最後のイベントがいいものになって、思い残すこと何にもないわ」 日高の横から岸本もヒカルとアキラに歩み寄り、彼もまた右手を二人に差し出す。 「俺からも礼を言わせてくれ。いい対局を見せてくれて有難う。部員たちにとっても良い刺激になっただろう。真剣な勝負を見せてくれて感謝している」 二人は岸本とも硬く握手を交わす。 部室で待機していた部員たちの間から拍手が起こった。 ヒカルは思わずはにかんだ。アキラとの対局は自分にとっても有意義な時間でとても満足しただけに、こうして喜んでもらえることが照れ臭く感じる。 そうしてちらりと壁にかかっている時計に視線をやった。まだ時刻は午後三時。思ったよりもイベントは早く済んだ。 できればすぐに先ほどの一局の検討をしたい。ここからいつもの碁会所へ移動するとなるとそれなりに時間がかかる。できるだけ早くアキラと碁盤に向き合いたい。 アキラも同じ気持ちだったのか、岸本に向かってこんなことを言い出した。 「岸本先輩、もしご迷惑でなければこの後少し部屋と碁盤をお借りできませんか? 先ほどの一局、少し検討してみたいんです」 ヒカルは驚いて目を大きくし、それからちょっとだけ笑ってしまった。アキラにとっては碁会所に向かうまでの時間も待ちきれなかったようだ。 「構わないが……よければ見学させてもらってもいいだろうか」 「ええ、勿論です。少々ボクらの検討はうるさいかもしれませんが」 岸本が少しだけ不思議そうに瞬きした。 ヒカルはアキラと顔を見合わせ、ほくそ笑む。 「あ、じゃあ検討する前に塔矢ちょっといい? 今日のことで確認しといてもらいたいことがあるから」 「はい」 日高に呼ばれ、アキラはその後をついて隣室へと入って行った。 岸本は辺りにいる部員を振り返り、指示を出し始める。 「そこらを片付けて、検討できるスペースを作るんだ。碁盤を用意して、それから先ほどの棋譜を――」 目まぐるしく動く部員たちの中、手持ち無沙汰に取り残されたヒカルがきょろきょろと首を動かしていると、振り返った岸本が僅かに微笑んだ。 「日高と塔矢の話が終わるまで多少時間がかかるだろう。少し、つきあわないか」 「え……」 岸本に促され、ヒカルは曖昧に頷いた。 誘われるまま控え室を出て、岸本の先導で各階にあるロビーに辿りついたヒカルは、手渡された紙コップのコーヒーにそっと口をつけた。 ヒカルに人一人分のスペースを空けて隣に座った岸本は、自らもブラックコーヒーを口にしながら、静かに口を開いた。 「大したものだな。最後に君と会ったのは四年前……あれから気の遠くなるような時間が経っているわけではないのに、見事に塔矢アキラの期待に応えたわけだ。やはり塔矢の目は曇っていなかったということか」 淡々とした口調に何と答えてよいか分からず、ヒカルは黙って紙コップにキスし続ける。岸本はまるで独り言でも呟くような雰囲気で、ヒカルの相槌を待たずに続けた。 「日高から聞いたよ。塔矢の願いが叶ったと」 ヒカルは顔を上げた。 「塔矢の願い……?」 「君と本気の勝負ができるという願いだ」 ヒカルははっとして瞬きした。 岸本は手の中の黒い波紋を見つめたまま、静かに語り続ける。 「あの時……囲碁大会の三将戦、当時の塔矢はまさにあの一局のためだけに全てを投げ打っていた。結果はお互いよく分かっているな。あの頃は、何故塔矢が君にあそこまで執着したのか理解できなかったが……」 「……」 「俺もまた、見る目がなかったものだな。先ほどの対局は本当に素晴らしかった。今の若手で、塔矢の力をあれだけ引き出せる相手は君以外にそういまい」 「俺が?」 意外な言葉に、ヒカルは思わず聞き返していた。 岸本はじっとヒカルに視線を合わせる。その目は、イベント前に久しぶりに顔を合わせた時のような意味ありげな深い色合いをしていて、ヒカルは少し首を竦めた。 「……塔矢は未来の君を追っていたんだろうな」 岸本は深い眼差しを僅かに細め、ふと口唇を引き締めた。 「今日はあの時の非礼を謝ろうと思っていた。随分なことを言ったという自覚はある」 「え……、いや、その」 ヒカルは弱り、後頭部をかりかりと掻く。 それから首を軽く横に振って、上目遣いに岸本を見返した。 「非礼なんて……、俺、寧ろ感謝してるくらいだよ。あの時発破かけられなかったら、俺院生にもなれなかったと思うし」 「好意的にとってもらえて有り難いが、あの時の俺はそんな優しい気持ちじゃなかったよ。君に嫉妬していた」 岸本は自嘲気味な笑みを浮かべて、ふっと目を閉じる。 「塔矢の才能は素晴らしかった。俺も一度はプロを目指した身だから、レベルの違いくらいは理解できる。そんな塔矢があそこまで必死に追いかけた相手が腑抜けていることに腹を立てたんだ。自分では手の届かない棋力の持ち主を落胆させた相手だ、とね……。別に塔矢の目に留まりたかった訳ではないが、それでも羨ましかったんだろう。君が」 「あ……」 「できるはずがないと見下して君を挑発した。とんだ節穴だ」 そう言って、岸本は冷めたコーヒーを口に含む。 二人の間に沈黙が流れる。 ヒカルは言葉に迷って、決して明るくない雰囲気に少しだけ眉を寄せながら、景気付けのようにぐっと紙コップの中身を飲み干した。 それから岸本を振り返り、口角を持ち上げる。 「……あんたにその気がなくたって、俺はあのやりとりで人生が変わったんだ」 岸本がゆっくりとヒカルを振り返った。 眼鏡の奥で、また何処か探るような独特の色を見せている。 「さっきのイベントで、俺の言ったこと……覚えててくれたら嬉しいんだけど。俺が碁を打つきっかけ……あんたも、その中の一人だよ」 岸本の目が少しだけ大きく広がった。 その反応に満足したヒカルは、思わずにっこり笑ってしまう。 気を悪くしないかと慌てて顔を引き締めたが、岸本はヒカルの言葉に表情を和らげ、優しく口元を緩めた。 「……過大評価だな」 「いや、そんなこと……」 「……有難うと言っておこう……」 ヒカルから目を逸らし、岸本は残りのコーヒーを口につける。 ヒカルの見ている前でコーヒーを飲み終えた岸本は、おもむろに立ち上がった。 「そろそろ支度が出来ている頃だろう。戻ろう」 「あ、う、うん」 岸本に続いてゴミ箱に紙コップを投げ入れたヒカルは、毅然とした背中を慌てて追った。 ふいに立ち止まった岸本が、少しだけヒカルを振り返って小さく告げる。 「……俺が君の人生を変えたというのなら。君もまた、塔矢の人生を変えたんだろう」 「え……?」 「……いや、何でもない。行こうか」 その後は、岸本はヒカルを振り返ろうとしなかった。 控え室で行われた検討はそれから二時間程続き、ギャラリーを無視して口角に泡を飛ばしあう二人の姿は海王高校の囲碁部員たちを震え上がらせた。 彼らに別れを告げた頃には日暮れ時も近く、とりあえず身体を休めるために入った喫茶店でアキラはヒカルに紙袋を差し出す。 「? 何これ」 「今日のギャラだよ。正式な出演依頼だったから、日高先輩がきちんと用意してくれていたんだ」 ヒカルはぎょっとして首を横に振った。 「も、もらえねえよ! 俺大したことしてねえし! おまけに無理矢理ついて来たのに……」 「ボクも掛け合ったんだが、日高先輩に許してもらえなくてね。だからキミと折半だ。ボクもこれは譲れない」 目の前の厳しいアキラの視線に降参したヒカルは、申し訳ないと思いつつもそれを受け取った。 こんなことなら、指導碁でも打ってくるんだったと多少の後悔を感じながら。 「それにしても元気な人だったなあ。お前相手でも全然物怖じしねえしよ」 「昔からああいう人だったからね。……ひょっとして嫉妬した?」 含みのある目でちろりと見つめられ、ヒカルはかっと頬を染める。 「す、するか、バカ!」 「時々凄い目で見てたよね? ……ちゃんとチェックしてたよ」 「〜〜〜、もう知らねえ!」 ふいっとアキラから顔を逸らすが、きっとアキラはにこにこと満面の笑みを浮かべているのだろう。 先月のこともあるから、余計ににくたらしい。 そうして、先程岸本に言われた言葉を思い出す。 ――君もまた、塔矢の人生を変えたんだろう…… (……そうかもしんねえな) いつもは凛々しい囲碁界のプリンスが、こんなにやけた締まりのない面を晒しているなんて。 (……でも、いいのかな……) 『どうやら願いは叶ったみたいね?』 『……ええ』 ヒカルは微笑み、若き頃の自分達の姿を思い浮かべて遠い昔に記憶を巡らせる。 今日はいい一日だったと、よく冷えたコーラを啜りながら顔を合わせたアキラの表情がやはり締まりなく弛んでいて、ヒカルは思わず笑ってしまった。 |
6周年記念リクエスト内容(原文のまま):
「今連載中の二人の設定で、海王の文化祭で、囲碁部主催の
イベントにプロとしてよばれる二人を書いてもらえないでしょうか。
OBとして卒業した岸本さんも同じ場に居合わせて・・・
昔を思い出しいろいろと思うわけです。」
戴いたリクは上記の通りでしたが、ちょっと設定を
変更させて頂いて、海王高校を捏造してしまいました。
岸本さん、今まで全然意識したことがなかったので
凄く難しく感じました〜日高さんも。海王新鮮でした。
ヒカ碁はサブキャラも魅力的ですよね、本当に。
リクエストありがとうございました!
(BGM:SHINE/LUNA SEA)