『素晴らしい対局をありがとうございました。お二人にもう一度大きな拍手を!』 壇上に立つヒカルとアキラに、惜しみない拍手が贈られる。 ヒカルはまだ紅潮した頬で、それでもようやく客席に目を向けられるほどには落ち着きを取り戻し始めていた。 碁会所でよく見るような年配の男性が多いものの、ちらほらと若い男女の姿も見える。つまらなさそうな顔をしている人が少ないということは、これらの観客は皆囲碁に造詣が深いということだろうか。いや、そうでなくとも、興味がある程度だって構わない。 これだけの人が、今の一局を純粋に喜んでくれている。それがヒカルには誇らしかった。 結果はアキラの三目半勝ち。負けたとはいえ、いい内容の碁だったと自信を持って言うことができる。できれば今すぐアキラと検討したいくらいだが、そうもいかないのが少々残念である。 アキラは最初の言葉どおり、一切手を抜かずに本気の勝負を仕掛けてきた。中央への大胆な切り込み方は、囲碁を嗜む人間なら思わず唸らずにいられない後半最大の見せ場だっただろう。 ヒカルも怯まずに応戦したが、僅かな隙を突かれてアキラに地を許してしまった。その時点で拮抗していた勝負の行方が二人には見えていたが、固唾を飲んで見守る観客のためにも最後まで打ち切った。 終局し、身体にはまだ興奮が残っている。心には冷静さが戻りつつあるが、指先はじんわり痺れて対局の余韻に浸っていた。 拍手の中、司会の日高がマイク片手に二人の傍まで近づいてきた。 『お二人は十六歳という若さで棋士として精力的に活動されています。何かお二人にご質問などある方はいらっしゃいますか?』 客席から数名の手が挙がる。日高は手前のほうの初老の男性を手のひらで示した。囲碁部員がマイクを持って素早く駆け寄る。 男性は立ち上がり、ヒカルとアキラに向かって頭を下げた。 『まずは先ほどの素晴らしい対局、ありがとうございました。お二人ともお若いだけあって、斬新な碁を楽しませていただきましたよ』 ありがとうございます、と二人も笑顔を浮かべて礼をする。 『今の一局も大変素晴らしかったですが、お二人にとってこれまでで最も心に残る対局はどんなものでしたか?』 快活そうな男性の質問に、思わずヒカルとアキラは顔を見合わせた。 それから何事かを思い出したように、照れ臭そうに微笑み合ってお互いに目配せする。 恐らく頭に浮かんだことは一緒だったのだろう。そして、それを二人だけの秘密にしておきたいと思ったことも。 日高からマイクを受け取ったアキラは、当たり障りのない答えを返した。 『数多くこなして来た対局の中でどれかひとつというととても難しいのですが……プロになってから初めてリーグ入りした一昨年の本因坊リーグ第五戦、兄弟子である緒方十段・碁聖との対局はボクにとって大きな一局でした。自分が棋士としてまだまだ力不足であることを実感し、来期に向けての新たな目標ができた貴重な一局だったと思います』 アキラはすらすらと言葉を紡ぎ、隣のヒカルへとマイクを渡す。ヒカルは少し迷って、はにかみながら口を開いた。 『俺は、その……負けた碁ですけど、去年初めて出た北斗杯っていう国際棋戦での対局は全部心に残っています。世界にはまだまだ強い棋士がいて、俺ももっともっと頑張らないとって思いました』 アキラに比べて言葉足らずな部分はあるが、観客は一様に穏やかな顔でヒカルの言葉に耳を傾けていた。 最初の質問を皮切りに、次々と手が挙がり始める。 『お二人はプライベートでも遊んだりするんですか?』 『たまに碁会所で打つことはあります。でも喧嘩ばかりしていますよ』 アキラのさらりとした返答に和やかな笑い声があがる。 『普段碁の勉強はどのくらいしていますか?』 『仕事がない時と、寝る時と食べる時以外はほとんどずっとです。俺は師匠とかがいないので、普段家にいる時は棋譜並べとかしてますけど、たまに森下九段や芹澤九段の研究会にも参加させてもらったりしています』 ヒカルの言葉にへえ、ほお、と和やかな相槌が広がった。 『碁を始めたきっかけは?』 この質問に、マイクを渡されたアキラは一瞬考える素振りを見せた。 それから穏やかに目を伏せ、年よりもずっと大人びた仕草できりっと顎を上げて口を開く。 『小さい頃から父を見て育ったので、碁石を持つことに疑問を感じたことはありませんでした。棋士になることに迷いはありませんでしたが、真剣に碁の道を目指そうと思ったのは……お互いの力を無限に引き出し合えるライバルに出逢ってからです』 びく、とヒカルは肩を揺らした。 思わず横目でアキラを伺うが、アキラは真っ直ぐ客席に向かって視線を動かさない。 『それまでは漠然と碁を打つことだけ考えていましたが、彼に出逢って未来への不安がなくなりました。ひょっとしたら、彼の存在がボクにとっての碁を打ち続けるきっかけだったのかもしれません』 誰とは言わないアキラの言葉を、ヒカルは重く、そして熱く受け止めた。 観客達は分かったような分からないような複雑な顔をしている。それでいいとアキラも思っていたのだろう。アキラは落ち着いた目でヒカルを振り返り、そっとマイクを差し出した。 咄嗟にマイクを受け取り、ヒカルは未だアキラの言葉が反響している頭でもう一度質問を反芻させた。 ――碁を始めたきっかけ。 イベント開始前、日高にも同じようなキーワードをもらった。 その時も自分の中で不思議な引っ掛かりがあったのだが…… ヒカルはマイクを強く握りしめる。うまく言葉にできるかは分からなかったが、せめてアキラにだけはごまかさずに伝えたいと、そう思った。 ゆっくりと息を吸い、自分なりの言葉を紡ぐ。 『俺が、碁石に触るようになったきっかけは……、囲碁が大好きでたまらない人たちと出逢ったからです』 ヒカルは一旦言葉を区切り、何処か懐かしむように軽く目を伏せて薄ら微笑を浮かべた。 『それまでは、囲碁なんてじいちゃんたちがやるもんだと思ってました。俺のじいちゃんも囲碁好きだし』 観客から静かな笑いが漏れる。 『でも、俺が偶然逢った人たちは……みんな囲碁が大好きで、真剣で、ひたむきで……ずっと、高いところを目指そうとしていました。今もきっと……』 マイクを握り締める指に随分力が入っていたことに気づき、ヒカルはふっと身体から力を抜いた。肩がすとんと下りる。余計な力の抜けた身体で、ヒカルはさっきよりも自然に笑った。 『そんな人たちと出逢えて、俺は凄くラッキーだったと思います。みんなが俺のこと背中押してくれて、引っ張ってくれて、今まで碁盤の前に座って来られました。プロにまでなれた。一人一人に、凄く……感謝してます』 言っているうちにどんどん質問の主旨とずれてきたことに気づいたヒカルは頬を染め、照れ隠しに大きく頭を下げた。そんなヒカルのつむじに暖かい拍手が鳴り響き、ほっとして顔を上げると、隣のアキラも優しい目でヒカルを見つめながら小さく拍手をしてくれていた。 『塔矢五段、進藤二段、ありがとうございました! 皆様、お二人にもう一度大きな拍手をお願いいたします!』 日高の高らかなアナウンスで、拍手は更に大きくなった。ヒカルはアキラに倣ってもう一度頭を下げる。 和やかな雰囲気のまま、イベントは無事に終了した。 |
イベント終了。
しかし解説やる岸本くんが想像できません……