蜃気楼






「なあ、どっか行かねえ?」
 それは唐突な誘いだった。

「どこか……って?」
 ヒカルの突然の提案に、アキラは目をぱちぱちと瞬きさせて聞き返す。
 時折、ヒカルの言葉からは肝心な部分が抜ける。大抵はアキラが抜けている言葉を予測して、補充した上で返答するのだが、今回は予測しきれずにそのまま疑問を口にしてしまった。
 その聞き返しが不満だったのか、ヒカルは僅かに口唇を尖らせた。
「だから、どっかだよ。どこかはこれから決めるんじゃん」
 ヒカルは少し怒ったように、弁当をかきこみながら言った。アキラの手にも割り箸が握られ、ヒカルほど食が進んでいないとはいえ同じ弁当を突ついている途中である。
 ヒカルとアキラの他に誰もいない、長机とパイプ椅子が並ぶ殺風景なこの部屋は、棋院の関係者にあてがわれた控え室だった。
 地方の囲碁イベントの仕事で、二人はとある公民館に出向いている。
 今日、明日と二日続けて行われるこのイベント、珍しく仕事場が重なった二人はこっそり示し合わせて昼の休憩を一緒にとっている最中である。
 今回ヒカルの担当は指導碁で、アキラは大盤解説を任されている。
 どちらも指定時間がはっきりしていたため、多少遅めの昼食を我慢すれば休憩時間を合わせることはそれほど難しいことでもなかった。
 また、今回の参加メンバーはヒカルやアキラよりも年上の棋士ばかりで、そのため普段それほど仲良くないとされている同い年の二人が固まっていても、不自然には思われていないようだった。
 あらかじめ用意されていた簡素な幕の内弁当を口にしながら、二人の他に誰もいない控え室でヒカルは声も潜めずに話す。
「どうせ今夜、大人たちはどっか飲みに行っちゃうだろ? 俺らついてったってつまんないだけじゃん。俺らだけでどっか行こうって言ってんの」
「ああ……そういう意味か」
 なるほど、とアキラは顎に手を添えた。
 確かにヒカルの言う通り、大人たちはイベント終了後の夜を待ちかねて街へと繰り出すつもりだろう。
 そんな時、ヒカルやアキラのような未成年の棋士は、飲まないことを前提に誘われることもあるが、大抵はホテルの部屋で暇つぶしを強いられていた。
 宿泊を伴う今回、それぞれ別々の大部屋を用意されていた二人だったが、他の人間は全員成人済みである。要するに、彼らが飲みに行ってしまえば、取り残されるのはヒカルとアキラの二人だけだったのだ。
 アキラとしては、大人たちがいなくなった後にどちらかの部屋で一局、くらいの心積もりはあったとはいえ、どこかに出かけようとまでは考えていなかった。
 それだけにヒカルの申し出には驚いたが、驚き以上に嬉しさを感じる。
「なにニヤけてんだよ、ハズカシー奴」
 途端ににこにこと顔を綻ばせたアキラに、ヒカルは呆れた口調だが、その頬がほんのり赤いのは気のせいではないだろう。
 ヒカルはいつもさりげなくアキラを誘いたいようだが、アキラが過剰に喜ぶため照れ臭くなるらしい。怒ったように少しだけ口唇を尖らせるのは照れ隠しの印。アキラは、そんなヒカルの表情も好きだった。
「キミと出かけられると思ったら嬉しくて。考えてもみなかったし」
「別に無理して出かけなくてもいいんだぜ」
「はいはい。で、どこに行こうか? この辺りは特に物珍しいものもないしね……」
 ヒカルの負け惜しみをさらりと流したアキラは、今訪れている土地の特徴を思い浮かべようとして少しだけ眉を寄せた。
 イベントが終了するのは夕方すぎ。夕食はめいめい取ることになっているが、大人たちはすぐにでも繁華街へと出かけていくだろう。
 ヒカルとアキラが立ち寄れそうなのはせいぜいファミリーレストランくらいのものだが、それだと長居はしにくいし、二人で出かけるというドキドキ感も若干薄れる。
「んー、そうなんだよな。まあ、午後の指導碁でその辺のおっちゃんにどっか遊べる場所ないか聞いてみるよ」
「お……おっちゃん……?」
「大抵話しやすそうな人っているだろ?」
「うーん……、ボクは、あまり指導碁の人とそういった話はしたことがないから……」
 アキラが苦笑いしながら答えると、ヒカルはお前はそうかもな〜となんでもないことのように笑った。
 確かになんでもないことのはずだった。しかし、ヒカルの屈託ない表情は微かにアキラの胸を焦らせる。
 誰とでもすぐに打ち解けて親しくなれるヒカルは、指導碁の最中も常に楽しそうにしていた。午前中、ヒカルの様子をずっと目で追っていたアキラは、その光景を微笑ましく思いながらも、どこか歯がゆく感じている自分に気づいていた。
 ヒカルの周りに存在するたくさんの人々の中で、自分は特別な位置にいると信じていながらも、時々他の人間が煩わしくて仕方がない気持ちに襲われる。
 いっそ、この世界で自分とヒカルの二人だけになってしまえばいいなんて……そんな排他的なことを薄ら考えてしまうほど。
「……って、おい、聞いてんのか?」
 ヒカルのやや強めの口調でアキラははっと我に返る。
 慌てて作った笑顔は少々不自然だったかもしれないが、ヒカルは気づいていないようだった。
「ごめん、何?」
「ったく、何ぼーっとしてんだよ。だから、結局忙しくて俺らの昇段祝いもきちんとしてなかっただろ? せっかく二人なんだからさ、それもひっくるめて遊べたらいいな、なんて……」
 ヒカルが少し瞼を落とし、アキラの様子を伺うようにちらりと横目を寄越す。
 その仕草がやけに可愛らしく見えて、アキラは優しく微笑んだ。
「そうだね……。お祝いしようか。二人で」
 アキラの言葉に、ヒカルは嬉しそうに笑い返して、こくりと頷いた。
 二人でいられるならどこだって充分。それこそ、旅館のホールだって構わない。
 アキラはヒカルの笑顔を細めた目で見つめながら、あと五分と差し迫った残り短い休憩時間を恨めしく思った。




 ***




「とーや! 塔矢!」
 聞き慣れた愛しい声に振り向くと、ヒカルがぶんぶん右手を振りながら旅館の廊下を走ってくる。何故か左手に小さなバケツをぶら下げて。
 アキラが驚いて目を丸くしていると、ヒカルは有無を言わさずアキラにそのバケツを押し付けた。
「これ、持ってて。俺ちょっと買い物行ってくる」
「買い物? って、このバケツどうするんだ?」
「ここの旅館、花屋さんがくっついてたろ? そこで借りたんだ。返すのは明日でいいって」
 ヒカルの答えはアキラの質問に対して有効ではないが、アキラは訳も分からずへえ、と相槌をついた。
「お前ここで待ってて!」
 アキラにバケツを渡し、すぐに身を翻すヒカルに、アキラは慌てて声をかける。
「待て、進藤! 買い物って何処にいくんだ!?」
「近くにコンビニあるんだって! すぐ戻るから!」
 ヒカルはそう言って軽やかに駆け出していった。
 取り残されたアキラは、呆然とバケツを眺める。
 ピンク色で、花のイラストが描かれた可愛らしいバケツ。すでに本日のイベントも終了し、旅館に戻ってスーツから着替えているとはいえ、立派な体格の自分が手にしていると何とも不気味だ。
 時刻は午後七時前。大人たちの社交辞令的な誘いをやんわり断り、アキラはヒカルの姿を探していた。
 イベント中、指導碁で盛り上がっていたヒカルのブースには、常に人だかりができていた。
 ようやく実力的にも世間の注目を浴びるようになってきたヒカルは、その屈託のなさと大人に対して媚びない態度が人気を呼び、こういったイベントでは常に人が集まると聞いていた。
 その評判通り、ヒカルの指導碁は順番待ちの人数が他の棋士に比べて倍近くも多かったようだ。
 言葉遣いはまだまだ粗野で、目上の人への応対も完璧とは言い難いが、そんなヒカルが人々から愛される理由を、今のアキラなら誰よりもよく分かっている。
 恐らく、指導碁の最中にいろいろとヒカルなりに情報を収集したのだろう。何しろ、アキラはこの旅館の近くにコンビニがあることすら知らなかった。ヒカルだって元々知っていたわけではないはずだ。
 アキラが顔すら知らない誰かと仲良くなって、ヒカルは無邪気にこの土地のことを尋ねたりしていたのだろうか。
(……嫌になる)
 心の狭い自分。そもそも、ヒカルはアキラと二人で過ごす時間のために走り回っているというのに。
 時折発作的に沸き起こる、嫉妬にも似た醜い感情。思う通りにならないことへの苛立ち。こんなに強い想いをそのままぶつけたら、ヒカルが壊れてしまうのではないかと思うほど。
 近頃、こんなふうに胸が灼けそうな思いに締め付けられることが少なからずある。
 無性に焦りが募るその理由に、難航している一人暮らしの交渉があることは間違いなかった。






今回はギャグなしで。
ちょっと鬱陶しいアキラさんの話。