蜃気楼






 ―― 一人暮らし……?


 父・行洋が眉を顰めた。
 口調こそ穏やかだが、息子を見下ろす視線が少し鋭くなったような気がする。
 アキラはその静かな迫力に少しだけ怯みながらも、体勢上は一歩も引かずに続けた。
「もちろん、お父さんが留守中のこの家についてはボクが責任持って管理します。戻ってきた時に決して不便を感じさせるようなことは」
「アキラ」
 言葉を遮られ、アキラはぐっと息を詰めた。
「私が尋ねているのはそういうことではない。何故、お前が突然一人暮らしをしたいと言い出したのかということだ」
「それは……」
「今の生活に支障があるなら分かるが、私にはお前がこの家を出る必要性を見出せん」
「……」
 行洋を納得させられるだけの反論がすぐには見つからず、アキラが口唇の端を噛む。
 決して声を荒げない行洋の低音の凄みは、棋士として対峙した時のそれとは幾分違って感じられた。
 幼い頃から父は父である前に尊敬すべき一人の棋士であったため、あまり意識したことはなかったが、今アキラの目の前に座っている人間は自分の父親であると思い知らされる。
 そして自分は未だ父の保護下にある子供だということも。
 下手な小細工が通用しないことを悟ったアキラは、タテマエの口上を諦めることにした。
 ふう、と少し大きめに息をつき、改めて父の顔を見上げる。
「……新しい環境が欲しいんです」
「……」
「理由はうまく言えません。でも、この家を離れてボク一人だけの時間が欲しい。今いる慣れたこの空間から、離れたいんです」
「……、それは、プロの棋士としての言葉か? それとも、お前個人の考えか?」
 アキラは行洋の問いかけに過剰反応してしまいそうな身体を押さえ、ごくりと唾を飲んだ。
 それから平静を装い、「……プロ棋士としてです」と答える。
 行洋はしばし黙ったままアキラをじっと見据えていたが、やがてしっかりと引き締められていた口唇を静かに開いた。
「急を要する話ではないだろう。考えておく」
「……はい」
「下がりなさい」
 重苦しい空気を打開できないまま、アキラは行洋に一礼した。




 すんなりと承諾してもらえるとは思わなかったが、あの四月の話し合い以来未だに進展があるとはいえない。
 うっかりすると、アキラ自身事を急いてボロを出しかねない。すなわち、棋士としての問題だけではなく、進藤ヒカルという存在が深く関わっているということを。
 いざとなれば何もかも捨てられる覚悟はできているが、完全に独立するためには力不足なのも事実である。
 両親の庇護があってこそ、塔矢アキラとして存在を認められている現状が歯がゆかった。
 それでもここまできて引く訳にはいかない。徐々にとはいえ、行洋もアキラの主張に理解を示そうとしてくれている。
 もう少し時間はかかるかもしれないが、腐らずに粘らなければ……アキラがぐっと拳を握り締めた時、先ほどヒカルが消えていった廊下から再び騒々しい足音が響いてきた。
「お待たせ〜!」
 何やら中身がいっぱいのビニール袋をガサガサ両手に下げて、ヒカルが走ってくる。
 アキラはほっと表情を緩めた。
「重いからひとつ持って。あ、バケツサンキュ」
 ヒカルはアキラの手からバケツを奪い、代わりにビニール袋をひとつ押し付けた。思ったよりずっしりと重量を感じるその袋の中身はペットボトルや菓子が見える。
 中を覗いているアキラに気がついたのか、ヒカルがにっこり歯を見せる。
「それ、俺らの宴会用」
「宴会?」
「そ! じゃ、行こうぜ」
 再び足を踏み出すヒカルの後を慌てて追って、アキラも小走りになった。
「行くって、どこに?」
「旅館の裏手に川原があるんだって! ちゃんと足場もしっかりしてるから夜でも落ちる心配ないってさ」
 アキラを先導するヒカルが振り返りながら告げる。
 ヒカルが持つビニール袋からは、子供向けの花火セットが顔を覗かせていた。
 アキラは口元を綻ばせ、ヒカルの隣に並ぶために足を速める。
 ぼやぼやしていると置いていかれそうだ――幸せを感じながら、背中合わせに怖れも感じている自分が滑稽で、少しだけ惨めに思えた。





 旅館を出て裏手に回ると、徐々に水音が近づいてくる。
 むっとする真夏の夜に、清涼感を感じる小川のせせらぎは一瞬でも暑さを忘れさせてくれる。
 足を滑らせないようになだらかな草の坂を下り、旅館から漏れる灯りを頼りに小川へ近づくと、確かに数人で焚き火くらいはできそうな砂利のスペースが見えた。
 ヒカルは大き目の岩をテーブル代わりに袋を置いて、バケツ片手に川へと向かう。
「進藤、気をつけて」
「大丈夫、思ったより明るいし」
 確かに川原は明るかった。旅館の光だけではなく、川原に向かって街灯が建てられているところを見ると、この場所は地元の人々に多く利用されているのだろう。
 ヒカルは川岸に腰を屈め、バケツに水を汲む。バケツが水に潜る様子を遠目に見たところ、川の深さはくるぶしにも満たない程度のようだ。
 アキラの元に戻ってきたヒカルは、平らな岩を選んでバケツを置いた。それから自分が持ってきたほうのコンビニ袋を開き、アキラの予想通り花火を取り出して悪戯っぽく目配せしてくる。
「やっぱ夏ったらこれだろ」
「冬でも持ってきたくせに」
 アキラが苦笑すると、そういやそうだなとヒカルも笑った。
 ヒカルに促され、アキラも袋を岩に置き、中からペットボトルを取り出した。ヒカルはコーラ、アキラにはウーロン茶。汗を掻いたコーラのペットボトルをヒカルに手渡すと、ヒカルは早速キャップに手をかける。プシュ、と爽やかな音が川の流れに混じった。
「じゃ、遅くなったけどお互い昇段おめでとー!」
 ペットボトル同士がぶつかりあい、ぼん、と鈍い音がする。抜けるようなグラスの音に比べて味気ないが、今の二人にはこれで充分だった。
 手ごろな岩に腰を下ろして、川の流れる音を聞きながらしばし息をつく。
「この川って週末は結構親子連れとかが遊んでるらしいぜ。今日は先客いなくてよかったよな」
「そうなんだ。……指導碁の最中に聞いたの?」
「うん、俺らでも遊べるような場所ないかって聞いたら山とか川とか返事返ってきた。発想が健全だよな〜、ホント「遊ぶとこ」なんだから」
「あはは」
 ヒカルは喉が渇いていたのか、ぐっと一気にコーラを傾けた。喉を大きく鳴らし、ぷはっと音を立てて口から離す。目をきつく閉じて顔を顰めているのは炭酸が染みるからだろうか。
「でさ、近くにコンビニあるっていうから、川原で遊ぶったらこれっきゃないだろと思って。お前好きだろ? 花火」
「……うん」
 ヒカルと一緒にいる時限定の「好き」なのだが、アキラは素直に頷いた。
「昼間なら小魚とか追っかけられたらしいんだけど、さすがにこれだけ暗いと無理だな。川原教えてくれたおじさんにライターもらったんだ。音うるさいやつは買ってこなかったけど、二人だけだから手持ちの花火でよかったよな?」
「ああ、充分だよ」
 アキラの微笑みを確認し、ヒカルは嬉しそうに立ち上がった。
 早速とばかりに花火を取り出して、包装を破りにかかる。
「ゴミを散らかすなよ」
「わーってるよ、お前ん家だって帰りはキレイに片付けたじゃん」
 ヒカルの切り返しにアキラは微笑を浮かべた。
 ヒカルが言っているのは、去年のアキラの誕生日のことだろう。
 午前0時ぎりぎりに塔矢邸に飛び込んできたヒカルは、庭に花火を仕掛けて盛大に散らかし、翌朝二人は溶けた雪でぐっしょり濡れた花火の残骸の後始末に追われるハメになった。
 もっとも、そんな労力がまったく気にならないくらい嬉しかった思い出なのだけれど。
「ああ、懐かしいな。線香花火だ」
 アキラは一束になった線香花火を手にとって目を細めた。
「線香花火?」
「母が好きでね。昔は縁側でよく遊んだよ」
 へえ、とヒカルが目を輝かせた。
「お前ん家の縁側だったら風流だよな〜。な、今度俺もやりたい」
「うちで? いいよ。いつでもどうぞ」
「花火やりながらスイカとか食いたいよな〜。あとさ、風鈴とかつるしてさ、まさに日本の夏〜って感じ?」
「……分かった、全部用意しておく」
 肩を竦めるアキラにヒカルはやったとガッツポーズを見せる。
 それから、アキラの手から線香花火の束を取り上げて、「これはラスト」と袋にしまってしまった。
「いいの? 最後に寂しい花火を残して」
「いいんだよ。ぱーっと派手に終わったって寂しいのは一緒だろ? お前の思い出の花火で今日はしっとり締め。な?」
 思い出というほどのものはないのだけれど――そう言いかけたアキラはすぐに口を噤んだ。
 アキラに確認するように小首を傾げたヒカルの表情が、何故だか酷く優しく見えたのだ。
「……うん」
 不思議と胸が高鳴り、アキラは素直に頷いた。
 さらさらと、耳に心地よい川のせせらぎが身体の火照りを優しく撫でてくれた。






また花火かよとあちこちからツッコミが聞こえてきそう……!
ワンパターンでホントすんません。
冬に夏の話を考えるからワンパターンなのかなあ。