蜃気楼






 パチパチと火花が散る。
 火の花が色を変えるたび、頬に照り返す光もまた赤や青、緑とその色を変化させた。
「なあ、よく花火したの? 先生とおばさんと?」
 ヒカルは弾ける火の先を見つめながら尋ねる。ヒカルに向き合うように花火を持っていたアキラは、少しだけ顔を上げた。
「それほどしょっちゅうでもないけど。人が集まる時によくやったよ。父の門下生が遅くまでいる時とか」
「へえ、じゃあ緒方先生とか芦原さんとか?」
「そうだね。小さい子供はボクだけだったから、みんなが気を使って買ってきてくれてたんだと思う」
 夏の夜、研究会が一段落つく頃、母の明子が水菓子を持ってやってくる。それをきっかけに、誰かが持参してきた花火が登場してぞろぞろと庭に人が集まるのだ。
 研究会の様子を遠目に見ていたアキラも、この時ばかりは主役で迎えられた。
 兄と呼ぶには少々歳の離れた青年たちから花火を受け取り、火が散るさまをドキドキしながら眺める。
 そんな様子を縁側から父が穏やかな目で眺め、その隣で母が線香花火を見つめて微笑んでいた。
 膨らんだ赤い火の提灯が、ぽとりと落ちるその瞬間まで。
「……そんな頃もあったな」
 思わず感慨深げに呟くと、ヒカルもまたうっとりと目を細めたようだった。
「お前のちっちゃい頃、可愛かったんだってな」
「だってな……って、誰からそんなこと?」
「芦原さん」
 ヒカルの口から出た名前に、アキラは照れ臭そうに顔を顰める。
「可愛いって……芦原さんと会った時は、ボクはもう小学生に近い歳だったはずだけど」
「それでも充分ちっちゃいじゃん。お前、すげえ可愛かったって芦原さん目尻下げてたぜ」
「まいったな……芦原さんに余計なこと言わないように口止めしておかないと」
 半ば冗談だったのだが、ヒカルは逆に興味深げに目を爛々と輝かせてしまった。アキラに向かって身を乗り出すヒカルに、思わずアキラも仰け反ってしまう。
「ってことは、芦原さんは知られたくないお前の過去を知ってるってこと? マジ? うわっ絶対聞きだそっと!」
「そ、そんな過去なんてあるわけないだろう! 大体、いつの間に芦原さんとそんなに仲良くなったんだ?」
「ん? この前名古屋で一緒だったじゃん。あの時にいろいろ聞いた。お前の小さい頃の話とか」
「な……」
「俺、今度おばさんが帰ってきた時にお前のちっちゃい頃のアルバム見せてもらうんだ〜。可愛いんだろうなあ〜」
 とろんと目を垂らすヒカルを見て、アキラは頬を赤らめた。
「や、やめてくれ。恥ずかしい」
「いいじゃん、振袖着たやつとかさあ」
「そんなことまで知ってるのか!?」
 どっと汗が噴き出して、アキラはぱたぱたと手で顔を扇いだ。
 一体芦原はヒカルにどんなことを話したのだろう。自分の小さな頃だなんて、囲碁一色で特に面白いエピソードもないと思うのだが……焦るアキラをよそに、ヒカルは火が消えてしまった花火をぽちゃんとバケツに投げ入れる。
 新しい花火を一本取り出し、ライターで火をつける。先ほどからライターの扱いが慣れなくて、見ていると手つきが危なっかしいが、今回は三度親指を擦らせてようやく炎がついたようだ。
「照れんなよ。なんかいいなって思ったよ。芦原さんの話聞いてたらさ」
 アキラも終わってしまった花火をバケツに挿した。すぐさまヒカルが新しい花火を差し出すので、苦笑しながら受け取る。
「ボクの子供の頃なんか、面白くもなんともないよ」
「そうか? そんなことなかったけど」
「だってボクは昔も今も囲碁ばかりだ。子供らしい遊びはほとんどしなかったし」
「でも、塔矢門下の兄ちゃん方が可愛がってくれたんだろ? いいじゃん、俺なんかずっと一人っ子だぜ」
 花火の光に照らされて、ヒカルの頬が青白く透き通って見える。その不思議な肌の色にアキラは目を奪われて、思わず息を呑んだ。
 煙が目に染みるのか、ヒカルはぱちぱちと普段よりも多く瞬きを繰り返し、薄ら微笑を浮かべながら言葉を続けた。
「なんかさ。お前の子供の頃のこと、嬉しそうに話す芦原さん見てたら俺まで嬉しくなったんだ。芦原さん、お前のこと本当に大事にしてるんだなって思ったら……」
「……嬉しかった?」
 声のトーンが下がったアキラに気づいたのだろうか、ヒカルが僅かに目線を上げる。
 瞳の中にも火花が咲いていて、きらきらと濡れた輝きにアキラは見蕩れた。
「……うん。嬉しかったよ」
 煌めく瞳に正面から見つめ返されて、ざわりと胸がさざめいた。
 何か怖れを感じとった時に似た感覚だった。
「――嫉妬、してくれないんだ……?」
 ぽつり、と呟いた言葉はアキラ自身予想していたものではない。
 浮かべた笑みには嘲笑が含まれていたかもしれない。
 突然何を言い出すのかと、自分で自分が可笑しくなる――それでも、特に驚いたふうでもなく黙ってアキラを見つめ返してくれるヒカルの眼差しが救いだった。
「ボクなら……ボクなら嫉妬する。ボクの知らないキミの昔を知っている人に」
「……」
「もっと早くキミに出逢いたかったと、自分を悔やむよ」
「塔矢」
 また、花火が終わる。ヒカルが先に、続いてアキラも。
 ふっと辺りが薄暗くなる。眩しかった光が消え、一瞬お互いの表情が分からなくなっただろう。アキラは目の前にいるはずのヒカルとの間に距離を感じて、思わず手を伸ばそうとした。
 それより早く、ヒカルの手がアキラの肩に触れた。
「……ホントはちょっと嫉妬したかもしれない。でも、ちょっとだけな」
 ヒカルの声は優しかった。
 唐突におかしなことを言い出したアキラを咎めるでもなく、まるで宥めるような仕草で肩をぽんぽんと叩いてくれる。
「それ以上に嬉しかったんだ。芦原さん、お前のこと本当の家族みたいに思ってたからさ。好きなヤツが大事にされてるのって嬉しいだろ?」
「……ボクなら、それでも嫉妬するかもしれないよ」
 ふふ、とヒカルが鼻を鳴らして笑う。大人びた笑いにアキラの中で眩暈が起こる。
「お前らしいなあ」
 のんびりしたヒカルの様子に、暖かさと共に無性に焦りを感じた。
 ひょっとしたら、ヒカルと自分との想いの強さは違うのかもしれない――あろうことか、生まれた時からヒカルを見守ってきただろう彼の両親にまで嫉妬してしまいそうな自分がいるだなんて、そんな馬鹿げたこと――アキラは一人空回りしている心の暴走をどうにもできず、アキラの肩に触れているヒカルの手に手のひらを重ねる。
 汗ばんだ手を、ヒカルは握り返してくれた。
「……大丈夫だよ、塔矢」
 ふいにヒカルが呟いた言葉は、アキラが予想していなかったものだった。
 アキラの手をしっかりと握り締め、ヒカルはアキラの耳に口唇を寄せて、静かな声で囁いてくれる。
「俺な……ちゃんとお前のこと好きだから。お前が思ってるより、たぶん、ずっと」
「……進藤」
 アキラの心を見透かしたような言葉に、アキラはぐっと口唇を噛んだ。
 ――嘘だ、と口をついて飛び出しそうになる迂闊な言葉を必死で留めた。
 だって自分はこんなにも浅ましい。
 ヒカルからの確かな愛情を感じているのに、貪欲な想いは彼を頭から飲み込んでしまおうとしている。
 ヒカルを見る全ての人々を封じ込めてしまいたい。ヒカルと話す全ての人間が、ヒカルと過去に関わった全ての人間が消えてしまうといい。
 自分一人がヒカルの傍にいられればいい。自分一人だけが!
 こんなに凶暴な愛情を、果たしてヒカルは受け止めきれるだろうか?
 いつもはこんなふうに自分を追い込んだりしない。近頃無性に気持ちが急いて仕方ない。
 何かに追われているように、得体の知れない恐怖がアキラを焦らせる。――ヒカルを閉じ込めてしまいたい、と……。
 あの家から出たら、このやりきれない焦りは少しはマシになるだろうか。
 自分一人の空間に身を委ねられたら、もう少し冷静にヒカルのことを見つめられるだろうか。
「……塔矢。花火。これでラストだよ」
 ヒカルはアキラからそっと手を離し、代わりに線香花火の束を握らせた。
 一束を半分に分けたのだろう。ヒカルもまたアキラと同じくらいの束を握り、ライターに火をつける。
 ぽっと灯った火がヒカルの顔を照らし、赤く揺らめいたその表情はアキラが思っていたよりずっと穏やかだった。
「いつもだったらめんどくさくていっぺんに火ぃつけるんだけど。今日は一本ずつな」
 独り言のようにそんなことを言って、細く頼り無い線香花火に火を近付けた。
 緩いこよりの先のように捻られた部分がぱっと赤く燃え上がり、小さな赤い球体が産まれる。やがてぱちぱちと小さな破裂音を立て、稲光にも似た火花が可愛らしく飛び散り始めた。
「……俺、お前の小さい頃の話聞いて、俺の知らないお前を想像してドキドキした。お前がどんなふうに笑って、泣いて、大きくなってきたかって思ったら胸んとこが……あったかくなる感じがしてさ。今ここにいるお前を育ててくれた人に、ありがとうって言いたくなったんだよ」
 ヒカルは弾ける火花を見つめながら、いつもよりずっとゆっくりとした口調で言葉を紡いでいた。
 アキラに言い聞かせるように。まるでアキラの心の焦燥感を読み取っているかのように。
「昔のお前には誰かの話の中でしか会えないけど、でもこれから先の時間は俺達ずっと一緒だろ? ……違う?」
 顎を上げ、花火から視線を外してアキラを見上げたヒカルに対し、アキラはどうしようもなく胸を締め付ける切なさを堪えなければならなかった。
「……違わない」
 掠れた声でアキラが答えると、ヒカルは安心したように微笑む。
 その手が握る線香花火は、情熱的な火花から柳のような流線形に姿を変え、砂利の上にしっとりと命の火を散らせていた。
 ――違わない。だけど、だけど。


 ボクは……時々怖くて仕方なくなる。
 キミが、いつかボクから離れていきやしないか……
 あまりにキミを好きすぎて、キミが他の人に見せる優しさの欠片すら許せなくなってしまいそうで。
 衝動は発作のように表れる。
 こんなにもキミが近くにいる今、ボクは怖くてたまらない。
 普段ならば笑って頷き返せたはずの言葉を、今のボクは絞り出すのが精一杯なんだ……


「あ……落ちた」
 ヒカルの線香花火の先から、ぽとりと赤い球が落下した。
 耳に川のせせらぎが戻る。ヒカルは少しだけ残念そうに肩を竦めて、アキラにもライターを向けた。
「ほら……お前も」
 アキラはその手に応えられなかった。
 ヒカルの身体を乱暴に引き寄せ、その肩に額を押し付けた。
 微かに汗ばんでいるのが衣服越しに伝わって来た。
 ヒカルの背中に腕を回し、きつく抱き締めると、耳の上で少しだけ苦し気な息をつく音が聞こえる。
 何も言わずにしがみつくアキラの背中を、ヒカルはそっと撫でる。
 次の瞬間、アキラの息が止まるかと思う程の強い力でヒカルが抱き返してきた。
 意外な強さにアキラが身体を強張らせる。
 ヒカルは構わず、強くアキラを胸に抱き込んだ。
「……俺を信じろ、塔矢」
 低く響いた囁きに、アキラは目を見開き、それからきつく瞼を閉じる。
 この訳の分からない不安ごと、ヒカルはアキラを受け止めようとしてくれている。
(でも、怖い)
 真直ぐにアキラの想いを受け止めたヒカルが、壊れてしまうかもしれない――


 信じろと、強い力と共に囁かれた言葉は、アキラの胸の痼りを少しだけ解してくれた。
 アキラは目を閉じたまま、小さく頷く。
 その仕種にほっとしたのか、ヒカルが僅かに力を抜きかけた。
「……待って」
 アキラはヒカルから離れずに、しがみつく力を強める。
「もう少し……このまま」
「……塔矢」
「……もう少し……」
 ヒカルは黙ってアキラを抱き締めてくれた。
 川沿いの涼やかな水音。抱き合って汗ばんだ二人の身体と、火照る皮膚を撫でる温い湿気。
 ヒカルが落とした線香花火の火の玉が、砂利の上で短い命をしぶとく燃やしていた。
 やがて風に煽られ音も立てずに消えた赤い光の行方を、二人が見届けることはなかった。






この話書いた後、ヒカル大変そうだな……と
思ってしまいました……。
アキラ早く大人になあれ。
(BGM:蜃気楼/レベッカ)