アキラの家で一晩を過ごした翌日、ヒカルが帰宅して少しも経たないうちに、まるでその様子を見越していたかのように携帯電話が震えた。 ポケットから取り出した携帯電話の液晶画面に「社清春」の名前が表示されるのを見て、ヒカルは少し眉を持ち上げて通話ボタンを押す。 「もしもし〜?」 『おう、久しぶり〜。誕生日おめっとさん』 相変わらずの社の声に、ヒカルは軽く吹き出した。 「なんだよ、誕生日昨日だっつーの」 『知っとるわい。昨日はどうせ誰かさんと一緒やったんやろ。気ぃ使って今日電話かけてやった俺の涙ぐましい努力を理解せんかい』 押し付けがましい言い方だが、その的を得た気遣いといい、ヒカルが帰って来たばかりのタイミングといい、まるでこちらの様子をどこかから覗かれているようでヒカルは苦笑する。 「サンキュー。でもよく覚えてたな、俺の誕生日」 『阿呆、この前の合宿ん時に無理矢理俺の携帯に誕生日登録してったのはどこのどいつや。アラームのセットまでしよって、嫌でも気付くっちゅーねん』 「あー、そうだったそうだった。忘れてた」 悪い悪いと笑いながら、ヒカルはベッドに腰掛け、携帯片手に時計を見上げた。 今日は夕方から指導碁の仕事が入っている。今は昼時、まだまだ焦る時間ではない。 アキラは今頃棋院で碁盤に向かっている頃だろう。棋聖戦Bリーグの三戦目、きっと真剣な目で十九路の迷路を睨んでいる。 昨日の情事の名残なんか、おくびにも出さずに。 「俺も十八んなっちゃったよ。お前に追い付いた」 『なんや時間経つのは早いなあ。初めて北斗杯予選で会った時からもう二年半経っとんのか』 「おっさんくせえなあ」 『抜かせ。お前よりちーと誕生日早いだけやないか。まーええ、どや、十八んなった実感は』 「実感〜? んなもんねえよー。でもま、楽しみにはしてたけどな。俺、今度教習所通う予定なんだ」 『車かあ、それもええな。それにしてもお前、まだ実家暮らし続けるんか?』 意外な社の問いに、ヒカルは瞬きをする。 「え? まあ、そうだけど……なんで?」 『いやな、俺来年家出る予定なんや。結構前から、十八んなったら家出ろって言われてたんやけど、まだ弟も小さいしなあ。とりあえず高校出るまでは家に居て、卒業したら一人暮らしする予定や』 初耳の話にへえ、とヒカルは相槌を打ち、それから少し心配そうな声になる。 「家出ろって、お前、またオヤジさんと揉めたのか?」 『あ? あ、いや、逆や。ようやっと俺の仕事も認めてもらえたから、一人立ち認定っちゅうかな……。俺の好きなようにやってええっちゅう意味みたいや』 「ああ、なるほど……」 考えてもみなかったと、ヒカルは上目遣いに自分のことを考えてみた。 実家にいるのが当たり前だと思い込み、家を出ることなんて頭になかった。第一、今の自分が一人暮らしを始めたとしたら、家事はできない掃除も怪しい、部屋が崩壊して生活どころではないだろう。 「お前、偉いな」 そう思ったら、自然とそんな言葉が出た。 『なんや急に。別に偉くもなんともないわ』 「そうか? 俺、今のままじゃ絶対一人暮らしなんて無理だよ」 『まあ、俺かて不安はあるけどな。せやけど、もう自分で稼いで食ってけるんやから、いつまでも親の世話んなっとるのもなんや悪い気がしてな……』 「うーん……そっかあ……」 確かに社の言う通り、自分達はすでに社会に出て働いている身である。 自立できる資金はあるが、自立する力がないという理由で実家に留まっているのは恥ずかしい話かもしれない。 だからといって、社のようにすぐに一人で暮らそうと考えることは今のヒカルには無理だった。 きちんとした考えがあって、親から一人立ちを勧められた社はともかく、ヒカルが家を出ると言っても親に心配をかけるだけだろう。 それでなくともこれまで何かと問題を起こしがちな自分である。 せめて、一人で歩けるだけの基盤を整えなければ親を安心させることは難しい。 (……でも……、いずれは……) ……一人ではなく、二人で暮らせたらいい――。 そのためには、もっとしっかりと自分の道を掴まなくては。 アキラと交わした約束を果たすため、胸を這ってアキラの前に立てるように。 俺だけが歩く、俺の道。 その道に、アキラの存在がなくては始まらない。 「……決めた」 『あ? 何やて?』 ヒカルは聞き返す社を無視し、一人自分の言葉に頷いた。 「俺、決めた。せっかく十八になったんだから、俺もけじめつける」 『何の話や? けじめ??』 「社、電話サンキュな。いいきっかけになった! じゃ、またな!」 『は? お、おい、進藤?』 まだ社の声は区切りが良さそうではなかったが、ヒカルは心の中で謝って通話を切った。 少々せっかちな自分は、思い立った時に物事を進めないと気が削がれてしまいそうだから。 幸い父親は休日出勤の代休で、昨日今日と家にいる。ひょっとしたら自分の誕生日に合わせてくれたのかもしれない――その当日を友人と思われている男の家で過ごしてしまったのだから、とことん親不孝な息子かもしれないけれど。 両親が揃っている今が良い機会だった。 ヒカルは携帯電話をベッドに放り投げ、部屋を飛び出してどたどたと階段を降りた。少しだけ、昨夜の名残で身体の中枢が軋むように痛んだ。 突然居間に下りて来て、父親と母親に並べと騒ぎだした息子に、不思議そうな顔をしながらも両親はつきあってくれた。 しかしその両親の向かいに座り、きっちりと正座したヒカルを見て、二人は驚きに目を丸くする。 無理もない、普段ヒカルの対局中の様子を知ることのなかった父も母も、だらしなくあぐらをかくか足を投げ出しているヒカルの姿しか見ていなかったのだから。 「もう十八になったから。……きちんと、言っておきたいことがあって」 ヒカルは最初にそう断って、少し深めに息を吸い込んだ。 唐突に沸き上がって来た気持ちを、うまく伝えられるかどうか分からない。 それでも、思い立ったが吉日の言葉通り、今伝えなければこの先ずっと何も言えずに過ごしてしまいそうで、ヒカルは拙いながらも真剣に言葉を紡いだ。 「俺、昔手合いサボってたこととかあったし。この前も、部屋に閉じこもって碁漬けになってたりして……いろいろ心配かけてごめんなさい。でも、もうプロになって四年目だし、俺もちゃんとけじめつけたいんだ」 「ヒカル」 母が思わず、と言った様子でヒカルの名を呼んだ。 ヒカルは一度目を伏せて、それからしっかりと顔を上げて口を開く。 「プロ棋士って、普通の人にはあんまり馴染みにくい仕事だし、複雑で分かりにくいと思うけど……でも、俺はその仕事を誇りを持って頑張ってるから。昔みたいに、もう二度と途中で投げ出そうとしたりしない。この仕事で一生生きてく。……それだけ、安心してて欲しくて」 両親は驚きの表情ながら、どこか感慨深気にヒカルを眺めていた。 母が静かに微笑み、普段あまり言葉を交わさない父も大きく頷いてくれた。 「しっかりやんなさい」 「はい」 ヒカルは笑顔を見せ、正座のまま二人に頭を下げる。 言葉足らずだったかもしれないが、それでも気持ちだけは伝わったと思いたい――ヒカルは自分なりのけじめのつけ方に、志し半ばながら満足していた。 そう、まだ半ばだった。 これからもアキラと共に生きる決意を固めている自分は、新たに両親に対してつけなければいけないけじめがあるだろう。 しかしそれはまだ時期尚早だと、ヒカル自身直感的に理解していた。 ――一人では駄目だ。アキラと二人で立ち向かわなければ、けじめどころか全てを失ってしまいかねない。 (考えよう) どうしたら、二人で幸せになれるのかを。 今のアキラでは、まだ駄目だ。今の自分でも足りない。 どうしたら、このまま二人で幸せになれるだろう。 *** それからしばらく、アキラの様子は穏やかだった。 発作的に現れる、やけに怯えたあの目が見えなくなって落ち着きが戻ったことは、幾分ヒカルを安心させた。 アキラの中でも何らかの変化があったのだろうか。アキラの不安が表に出て来なくなったことにほっとしつつも、ヒカルは全ての問題が解決したわけではないことを承知していた。 アキラはヒカルの心の中を読み切れていない。いずれ、あの目がまた怖れに惑う日がくるのだろう。 ――その時は、お前にも覚悟してもらう。 (俺はもう、お前を離すつもりはないから) 俺がどれだけお前のことを好きか、思い知らせてやるから―― それまではしばしの平穏に身を委ねよう。 やりたいこともある。ちょっとした秘密の悪戯。せっかく十八歳になったことだし、アキラに内緒で免許を取って、驚かせてやるのだ。 あまり長く放っておくと、拗ねるどころか押し掛けて来かねない。なんたって情熱的な恋人だから。 なるべく早く手に入れて、アキラを抱き締めてやらないと…… 嵐の前の静けさ――それはヒカルの直感だった。 |
蛇足かなあ……と思いつつ悩んで悩んでつけた8話目……
最初は7話で終わりだったんですけど……。
いや、やっぱ入れても良かったか……うーん。
このお話のイメージイラストをいただいてしまいました!
アキヒカのスーツグラビア絵ですv
とっても素敵なイラストはこちらから
(2007.01.28追記)
再びスーツイラストをいただいてしまいました!
三人組のスーツグラビア絵ですv
とっても素敵なイラストはこちらから
(2007.04.01追記)
(BGM:So Deep/河村隆一)