STRANGER






 『大盤解説お疲れ! 温泉入ってゆっくり寝ろよ!』



 アキラは携帯電話の画面を見つめたまま、一人そっと微笑んだ。
 返信をしようとする前に、再び着信を知らせるバイブレーションが携帯を震わせる。新たに届いたメールもまた、ひとつ前と同様ヒカルからのものだった。
『おみやげよろしく〜』
 これには思わず小さな声を出して笑ってしまった。
 ねぎらいに対する礼と、おみやげについての了解を返信しようとすると、部屋の窓際で煙草を燻らせていた緒方が「何を笑っているんだ?」と尋ねてきた。
「大したことじゃないですよ」
「そうか? その割には随分楽しげだったけどな」
 言葉の割にはそれほど探る様子のない緒方に、アキラは笑ってそれ以上何も言わなかった。
 緒方はすでに浴衣姿で、まさに温泉に入って寝るだけ、の楽なスタイルになっている。アキラもスーツを脱いで肩の力を抜こうと、自分に割り当てられた浴衣へと手を伸ばした。
 東京から電車を乗り継いで二時間半、辿り着いた先は名湯で名高い温泉の街。囲碁セミナー会場の場所を聞いたヒカルは、心底羨ましそうにアキラに「いいなあ」とすねてみせた。そんなに言うなら今度二人で来よう、と言うと機嫌はすぐに直ってしまったが。
 ステージ上で若手との対局を行うのが十段・碁聖・名人と三冠揃った緒方であり、アキラはその大盤解説を任されていた。
 同じ門下の兄弟弟子ということもあり、棋院側の配慮で緒方との二人部屋を当てられたアキラは、低段とはいえ自分より年上の面々が大部屋に突っ込まれていることに若干の躊躇いを感じていた。しかしお前はすでに五段だと緒方に諭され、渋々ながらもこの割り当てを受けることにした。
 何より、
「誰も俺と一緒に泊まりたがらないだろう。」
 という緒方の言葉に妙に納得してしまい、それならばと酔っ払った兄弟子の面倒を見る覚悟を決めることで、自分の中だけの交換条件としたのである。
 その緒方といえば、セミナー終了後に数人で飲みにいったものの、珍しくほろ酔い寸前程度で戻ってきた。どうやらそれほど楽しいメンバーではなかったらしい。
 セミナーのスポンサーと食事に出ていたアキラは、緒方が戻ってくる前にのんびり温泉なんて思っていたのだが、意外に早く部屋へ帰ってきた緒方に調子を狂わされてしまった。
 緒方は早々に浴衣に着替え、窓際にテーブルと一緒にセットされたチェアに凭れてしみじみ煙草を吸っている。そんな様子を見ると、緒方さん年とったなあなんて思わず呟きそうになるが、兄弟子の報復が恐ろしいので決して口には出さない。
 そうこうしているうちにヒカルからのメールが届き、何通かやりとりしている間にそれなりの時間になってしまった。
 せっかくここまで来たのだから、温泉くらい入っておきたい。アキラは手慣れた様子で浴衣を纏い、温泉に行く準備を整える。
「緒方さん、ボクお風呂行ってきます」
「温泉か? 待て、俺も行く」
「緒方さんも?」
 つい目を丸くしてしまったアキラに、緒方は吸いかけの煙草を灰皿に押し付けながら、俺が温泉に行って悪いのか、と毒づいた。
「でも緒方さん、少し酔ってるでしょう。大丈夫ですか?」
「おい、風呂場で俺が引っくり返るとでも言いたいのか? 心配するな、今日はそれほど酔っちゃいないさ」
 そう言って立ち上がってしまった緒方を、止める理由なんてどこにもなかった。
 アキラは兄弟子と連れ立って、温泉に向かうハメになってしまったのである。




 全体的に古いホテルだということは分かったが、それでも隅まで清潔に掃除が行き届いているのは入った瞬間から頷けた。
 浴場もまた、広い脱衣所はゴミや髪の毛が散らばっているということもなく、気持ちよく利用できそうでアキラは安心する。
 なんだか妙な図だなと思いながらも、緒方の隣で浴衣を脱ごうとした。帯を解いて浴衣を落としかけた瞬間、突然緒方がぐいっとアキラの浴衣の襟首を掴んで、脱ぎかけていた浴衣を引っ張り上げた。
「? お、緒方さん?」
「アキラ、お前後で入れ。夜中に一人で来たほうがいい」
 緒方の言っている意味が分からず、アキラは眉を寄せて首を傾げる。緒方は静かな、しかし早い口調で人目を気にするように続けた。
「今日はお前の同期の――名前は何と言ったか、まあいい、ああいう口汚い連中も何人かいるだろう。この時間に入ってくるとも、いやもう入っているとも限らん。人目につかないようにしておけ」
「あの、緒方さん、意味がよく……分からないんですが」
「もうちょっと自覚するんだな。その背中、どこの猫に引っ掻かれた」
「!」
 思わず目を見開いてしまったアキラは、この鋭い兄弟子の前でごまかす術を完全に失ったことを即座に理解した。
 ――まだ、残っていたのか。
 先月末にヒカルと会った時、やけに絡んできたヒカルとそのままラブホテルに入って、いつになく激しいセックスをした。
 妙に色づいた目で誘われて、諍う理由なんてどこにもなかった。普段と違う場所で興奮したせいもあり、理性が完全に飛んだその夜は今までで一番熱い夜だった。今も思い出すだけで身体の奥が疼いてくる。
 ヒカルに爪を立てられたのはその時が初めてだった。引っかかれた一瞬は僅かに痛みを感じたものの、快楽のほうが遥かに勝ってアキラはそれほど気にしてはいなかった。
 しかし、一晩経って帰宅という段階になり、ヒカルが背中の傷を見つけて青ざめ、何度も謝っていたことを考えると、恐らく傷は深かったのだろう。それから風呂に入るたびに沁みていた傷も、いつしか気にならなくなっていたからすっかり治ったのだと思っていた。
 アキラはほんのり顔を赤らめて、そうします、と小さく呟いた。
 脱ぎかけていた浴衣の合わせを直し、帯を締める。
「俺は先に入ってくるぞ。先に寝ててもいいが、鍵だけは開くようにしておけよ」
「それって起きてろってことじゃないですか」
「どうとでも判断してくれ。じゃあな」
 さっさと全裸になった緒方は、それ以上アキラの背中の傷には追及せずに浴室へと消えていった。
 アキラはすっかり予定が狂ってしまったことにため息をつきつつ、背中に残された傷痕を想って微笑する。
 なんだかヒカルが傍にいるようで嬉しかった。
 ヒカルが、自分を――ヒカルのものだと主張してくれているような、そんな気がした。



 一人部屋に戻り、特にすることもなくなったアキラは、ヒカルから借りていたマグネット碁盤を取り出した。
 結局、何か暇を潰すといえば碁で、暇がなくても碁で、碁漬けの毎日は相変わらず健在である。
 ここにヒカルがいればまた少し話は違ってくる。もちろん碁を打っていることが多いが、ヒカルはアキラがこれまで知らなかった世界をたくさん知っていて、いかにも楽しそうにそれを教えてくれるのだ。
 それから――セックスも覚えた。
 自分がここまで性に貪欲な人間だなんて知らなかった。三大欲に性欲が含まれるというのも、今なら強く頷ける。
 幸せなことに、身体を重ねる度にヒカルが愛しくてたまらなくなっている。初めての相手が愛する人で、本当によかったと思う。愛する人だったから、抱き合ってキスすることの大切さを身を持って知ることができたのだろう。
 こんなふうに傷を残されて頬が緩む自分がいる。できればヒカルにも何か痕を残してみたいとつい思ってしまったが、乱暴なことをするのは嫌なので難しいかもしれない。
 その代わり、会っている時間の一瞬一瞬を大切にしよう。ささやかな幸せを心から喜ぼう。
 こんなことを考えていたら、早く帰りたくなってしまった。アキラは長い夜を思ってため息をついた。
 日付が変わった頃なら、大浴場も人が少なくなっているだろうか。そこまでして温泉に入る価値があるかどうか分からなくなってくる。
 緒方が戻ってきたらさっさと寝てしまおうか。今度、約束通りヒカルと一緒に来ればいいだけの話だ。そうしたらこんな手持ち無沙汰な時間なんかなくて、二人きりで温泉を楽しんで……夜は夜で……
(……マズイな、ちょっと興奮してきた)
 トイレに行ってこよう、と立ち上がりかかった時、部屋のドアがこんこんとノックされた。時間からしてすぐに緒方だと察したアキラは、軽く前屈みになりながらも慌ててドアに走る。
 ドアを開けて、まだ少し濡れた髪がぼさっとした緒方の様子を見た途端、燃え上がりかかっていた身体が一瞬で冷めていくのが分かった。
 社との関西での一件以来、どうにも緒方に会うとまず裸エプロンを想像してしまう。今のところ、あれ以上に破壊力のある生物兵器はない。ヒカルに話した時も、俺とエッチしてる時に変なもん想像するなと本気で怒られた。
 そんな訳で、アキラの青い性欲は緒方に見破られずに澄んだが、背中の傷はばっちり見られてしまっている。緒方を部屋に入れてドアを閉めてから、どうしたものかとアキラは肩を竦めた。
 アキラが産まれる前から父親の門下生として実家に出入りしていた緒方だ。それこそオシメをしている頃からの知り合いである。尊敬すべき棋士であり、ちょっと悪いことを知っている人生の先輩であり、酔うと手のかかる兄のようでもある。
 学生の頃はよく食事に連れていってもらったものだが、最近はお互い忙しいこともあってしょっちゅうというわけではなくなっていた。こんなふうに二人になるのは久しぶりである。余計なことを勘ぐられないといいが、なんてアキラが思っていると、風呂に入る前の定位置だった窓際のチェアに再び座った緒方は煙草に火をつけ、「ビールとってくれ」とアキラに頼んだ。
「まだ飲むんですか?」
「言ったろ、今日はそんなに飲んじゃいない。いいだろ、一本ぐらい」
 一本で済むのかなあ。少し大きめに呟いて、それでもアキラは冷蔵庫まで足を運んで冷えたビールを一本取り出した。
 緒方に渡すと、湯上りで仄かに赤らんだ顔をして、緒方はにやっと笑った。
「よかったぞ、温泉。いい湯だった」
「それは……よかったですね」
「あの時間にあらかた知った顔は入ってたみたいだ。お前も夜中に行って来い。少なくとも同業者には見つからんだろう」
「うーん……時間になったら考えます」
 アキラは曖昧に笑って、すでに敷かれている布団の上にぺたりと座る。取り出していたマグネット碁盤は結局開いただけで終わっていた。石を並べようか迷っていると、ふいに緒方が声をかける。
「珍しいな」
「? 何がです?」
「足を崩して座るのが、だよ。お前はどこにいてもかちっとしているから」
「あ……」
 言われて自分の足を見ると、確かに膝を軽く曲げて前に投げ出していた。座る時はいつも正座をしていた自分が、いつの間にこんな座り方をするようになっていたのだろう。
 いつからかは思い出せなくても、原因はすぐに分かった。ヒカルと一緒にいるからだ。仕草や言葉遣い、ちょっとした端々にヒカルの影が見え隠れする。どうもヒカルに引っ張られてしまっているらしい。この前も、うっかり「マジですか」なんて言ってしまって、棋院の人を唖然とさせてしまったのだ。
 何となく気まずくて、アキラは正座にこそ修正しなかったが、足を少し引っ込めた。小さい頃からの付き合いである緒方にはいろいろな変化がすぐに分かってしまうのだろう。
 緒方はどう思ったのか知らないが、笑った顔のまま少しだけ遠い目をして、ぐびりと一口ビールを含んだ。
 それからふっと息をついて、まるで独り言のように語り始めた。
「こんなシチュエーションを迎えると思い出す夜があってな」
「……何です?」
 アキラもまた、特に続きに興味があるふうではなく尋ねた。
 緒方が誰にも頼まれずに何事か話し出すのは、大抵酔いが回り始めた時だ。やっぱり酔っていたんじゃないか。アキラは内心早く寝てくれないかなと思いつつも、何の気なしに相槌を打った、それだけのつもりだったのだが。
「……あれは二年前の……五月だったか。今日みたいにセミナーが終わった後、部屋で二人で打った……進藤と」
「え……」
 恋人の名前が出た途端、アキラは耳を疑って目を見開いた。






ちょっとずつ真面目な話も進めなくては。
曲者緒方センセイ大好きです。