STRANGER






「進藤と……?」
 アキラは顔を上げ、無意識に疑問を呟きに表していた。
 すぐにはっとしたが、緒方はアキラの反応について茶化す様子はない。反応が過剰すぎやしなかったか、と少し冷や汗をかくが、いや、それほどおかしい素振りは見せていないはずだと気持ちを落ち着かせる。
「ああ。アイツが、俺と打ってくれと言ってきた」
「それで……部屋で打ったんですか」
「そうだ。あの夜の俺はしこたま酔っていたから、簡単な死活のミスで俺がやられてしまったが」
「へえ……」
 アキラは記憶を巡らせる。
 二年前といえば、まだヒカルに気持ちも打ち明けていない時だ。好きだともはっきり気づいていなかったように思う。
 それから、酷く苦しい記憶も掘り起こされる。ちょうどその頃、ヒカルが手合いに出てこなくなった時期があった。不戦敗を重ねるヒカルに、ついに業を煮やしたアキラは彼の通う中学校まで押しかけたことがあったくらいだ。
 思えば、あの頃からずっとヒカルが好きだったのだろう。ヒカルが好きで、同じ道を歩いて行きたいと思っていた。ヒカルが自分の求めていた人だと、感じ取っていたからこそあんなに大胆な行動がとれたのだろうか……
「あの一局は……どうにも、俺にとって忘れがたくてな」
 緒方の言葉に、アキラの回想は中断された。おまけに、意味深な一言が胸に引っかかる。
「……忘れがたいとは?」
「気になるか?」
 嫌な切り返しに、アキラはぐっと言葉に詰まった。
 しかし、何もおかしな質問ではないはずだと自分に言い聞かせ、開き直って口を開く。
「それは、そんな話し方をされたら気になりますよ。進藤の力はボクもよく知ってしますし」
「ああ、アイツもついに王座戦トーナメント入りに王手だそうだな」
 アキラは頷いた。
 王座戦は、十六人のトーナメント戦で挑戦者を決める。ヒカルは次のトーナメント入りまであと一勝というところまで来ていた。
 アキラはすでにトーナメント入りが決まっているが、ヒカルにとっては初めて挑戦者の椅子をかけた最後の戦いに挑むチャンスだった。
 実力はあるはずなのに、どうも大事な大一番で何かしらミスをやらかすヒカルは、他の棋戦では未だにリーグ入りを果たすことができていない。そんなヒカルを見守っては、アキラももどかしい思いに歯噛みしていた。
「アイツはどうも、ここぞって時に何か問題を起こすからな。……今年の北斗杯、正直打てる状態だとは思えなかったぜ」
「あれは……、もう、済んだことですから」
 アキラはそれ以上何も言えなかった。
 実際、アキラもあの時のヒカルについて何か聞かれたとしても、何も分からないというのが本音である。
 ヒカルの碁が突然荒れて、アキラを拒絶し、それでも最後は自分のところに戻ってきた。自分と打つことで本来のヒカルを取り戻せたというのなら、恐らくアキラ自身も彼の葛藤に何か関わりがあったのではと思うのだが、憶測の域を出ない。
 あれから半年以上経過したが、当時のことを今更聞きだそうという気持ちはなかった。ヒカルは今、彼らしい深みのある碁を打っている。それでいいと、心からそう思える自分がいる。
「アキラは何も知らないのか」
「何も、とは?」
「進藤が何故突然あんな出鱈目な碁を打ち出したか。そして、何故北斗杯が終わった途端に調子を取り戻したのか」
「……彼なりに迷いの答えが出たんでしょう。詳しいことは何も知りませんよ」
 ひょっとして絡み酒に変わってしまっただろうか。だとしたら厄介だ。アキラは緒方に分からないようにため息をついた。
「暇さえあれば進藤と碁会所で打ち合ってるお前も分からないとはな。覚えてるか? お前、北斗杯の予選、進藤対越智の棋譜を見て血相変えただろう。俺はてっきりあの後進藤に何か話したんだと思っていたが」
「あれは……あんな棋譜を見たら、普段の進藤を知っている人なら驚くのは当たり前です。緒方さんだって、おかしいと思ったからボクに見せたんでしょう」
「まあな。……だが俺は、お前にあれを見せることで進藤を何とかしてくれるんじゃないかと期待していたんだ……と言ったら、お前はどう思うかな」
「……」
 アキラは眉を顰めた。
 昔から、緒方が妙にアキラに対してヒカルの存在をけしかけてくることはよくあった。ヒカルが院生になった時も、初めての若獅子戦の一回戦で破れた時も、常に含みのある言葉でアキラを翻弄させる。
 それは、進藤ヒカルという人間がアキラにどれほど影響を与えているか、緒方がよく知っていたからに他ならない。
 アキラは身震いした。――この男は、本当は全て知っているのではないだろうか。
 社以外知るはずのないアキラとヒカルの関係を、彼はすでに感づいているのでは?
 緒方は食えない顔で、ぐびぐびをビールを流し込んでいる。
「……だが、結局北斗杯が終わるまでアイツは変わらなかった」
「……」
「五月。……そう、五月だ。アイツは、五月を境に……いつも変わる」
 アキラの目が僅かに大きくなった。しばし瞬きを忘れていたせいで、渇いた目の表面がちくちく焼けるような痛みを訴える。
「あの一局も……五月、だった」
 アキラはごくりと唾を飲み込んだ。
 五月。
 初めてのキーワードだった。
(五月を……境に……?)
 碁を打たないと言った二年前。
 初めての北斗杯で高永夏に敗れた一年前。
 そして今年、アキラはヒカルを手に入れた。

『俺はもう打たない』
 全てを諦めたようなあの目から、
『ずっと、この道を歩く』
 同じ方向を目指す真っ直ぐな目に変わり、
『じゃあ、俺どうやって一人でいたらいいんだ?』
 やがてその目はヒカルの心ごと呑み込んでしまうような湖に覆われ、
『お願いだから、今夜だけは一人でいさせて。』
 たった一人で何かを振り切って、
『お前は何にも分かっちゃいねぇよ!』
 また迷い、怖れ、悩んで、苦しんで、
『おまえが、いなくなったら、嫌だ』
 泣きながらこの腕の中に飛び込んできた。

 アキラの背中をひたりと汗が滑り落ちた。
 五月。北斗杯。不可思議なヒカルの行動は常に五月。
(――考えちゃいけない)
 ヒカルを待とうと誓った日から、アキラは余計な推測はしないと決めていた。だが、緒方の与えたヒントはアキラを酷く動揺させる。
 ――だってボクは、キミが碁を打たないと言った訳も、
 秀策に拘って高永夏と戦った訳も、
 対局後に流した涙の本当の訳も、
 あの湖みたいな瞳の訳も、
 何故ボクの元に飛び込んできたのかも、
 ……何も知らないんだ……
「気づかなかったか? 五月を境にアイツが化けるのは、高段者の間ではちょっとした話題になってる」
「そう……なんですか……」
 口の中がカサカサに渇いている。
 自分の知らないところでヒカルの噂話をされているというのがたまらなく嫌だった。
「大方は、アイツに女ができたんだろうって予想だ。アイツの雰囲気は確かに大人びたし、碁の浮き沈みが激しいのは、惚れた女としょっちゅう修羅場を迎えてるんだろうってな」
「……」
「ところが、俺は彼女とデートどころか暇を見つけてはせっせとうちの碁会所に通ってくる進藤を知ってるもんでね。その説に同意したことはないんだが」
 何が言いたいのだと、緒方を見上げたアキラの目は酷く分かりやすい戸惑いを乗せていた。
 こんな簡単な挑発に乗ってはいけないと分かっているのに、心に取り憑いた動揺が離れていかない。
 そんなアキラを見て、緒方は少しだけ目を細めたようだった。
 そうして、静かな声でアキラ、と名前を呼びかけ、
「お前、――saiを、覚えているか。」
 アキラの心を確かに蝕むその名前を、はっきりと告げたのだった。






なんか物凄く唐突なキーワード提示ですが、
緒方センセイの中では繋がってるに違いありません。