STRANGER






 ――saiを、覚えているか――

(覚えていないはずがない)
 アキラとヒカルの間に常に見え隠れする影。
 ヒカルだけが握る全ての鍵。
 そういえば、緒方はsaiにご執心だった――アキラはまとまらない頭でそんなことを思い出していた。
「塔矢行洋との一局を最後に、saiは姿を消した。いや、そもそも姿があったのかも分からん……誰もsaiの正体を知らないんだ」
「緒方さん」
「進藤以外は」
 アキラはぎり、と口唇を噛んだ。
 気づけばきつく兄弟子を睨みつけていた。
 それ以上、続けるのは許さないと、知らず目で訴えていた。
 緒方は少し苦笑して、缶に残っていたビールを飲み干す。
「そんな目で見るな。ただ、俺はな。――俺は、二年前のあの夜、進藤と対局したあの碁の中に……確かに、saiを見たんだ」
 ビク、とアキラの肩が揺れる。ちらりと右手を見ると指先が震えていた。緒方に悟られたくなくて、拳をぐっと握り締める。
「随分酔っていた。俺はろくな手を打てなかったよ。だが、俺は今でもあの碁にsaiと対局したかのような感覚を認めたがっている」
 耳を塞ぎたくても、身体は動かない。
 自分の知らないところで、知らない顔を持つヒカルの話を聞きたくないと拒否しているのに、身体がそれに追いつかない。
「五月を境にアイツは変わる。――アキラ、俺はな。」
「……緒方さん」
「アイツの変化をこの目で確かめたいんだ」
「緒方さん」
「ひょっとすると……俺は」
「緒方さん」
「俺は、アイツがsaiに変わるのを待っているのかもしれん」
「緒方さん!」
 たまらず叫んでいた。
(――やめてくれ!)
 胸が痛い。息が苦しい。
 碁を打たないと言った、空っぽのヒカルの目。底の見えない湖の中に、誰も知らない影を隠しているなんて認めたくない。
 saiに変わるヒカルなんて見たくない。
 saiとヒカルは違う。違うけれど、それをうまく説明できない。
 いいや、説明なんかしたくない。自分だけが分かっていればそれでいい。

 ――五月を境に……

(……変えるものか!)
 今のヒカルが全てだ。ヒカルの全てであり、アキラの全てだ。
 それでいい。saiなど必要ない。saiなど、saiなど、――
「……ボクは……、」
 アキラは震える口唇で、無理やり声を絞り出した。
「ボクは、……saiなんかどうでもいい……。」
「アキラ」
 緒方の声色が酷く優しくなった。
 俯いてしまったアキラには、緒方の表情は分からない。
 ふと、緒方が纏う空気が動いた。顔を上げる前に、ぽん、と何か頭に置かれた感触がある。――緒方の手だ。
「悪かったな、急にこんな話をして」
「……ボクは」
「もういい。だがな、俺は今でもsaiとの対局が諦めきれないんだ。saiが現れないのなら、他の誰かにその影を求めてしまう弱さを、許してくれないか」
「……」
 アキラは答えられず、ただ膝を睨み続けた。
 何故緒方が突然こんな話をアキラにしたのかは分からない。
 分かるのは、アキラにだからこんな話をしたのだろう、ということだけだった。
「……なあ、アキラ。俺は、アイツがsaiに変わるのを待っているといったが、同時に、それを止められるのはお前しかいないとも思っているんだぜ」
 アキラの肩がぴく、と反応する。
 思わず顔を上げた先に見えた緒方の目は、酩酊している人のそれではなかった。
 そうして、動揺で黒目を揺らすアキラに、アキラ君、と、今はもう人前でしか使われない呼び方で名前を呼ばれて、アキラはぱちぱちと瞬きをする。
「お前は、こうと決めたことにはいつも一生懸命で、一直線だ。それが悪いとは言わない。だが、走り続けるお前には、そうと気づかないうちに見失っているものが少なからずあるはずだ」
「……緒方、さん……?」
「いいか、忘れるなよ。周りをよく見ろ。どうしようもなくなったら、誰かを頼れ。お前は何でも一人で決めてきたと思っているだろうが、そんなことはない。この世の中に、たった一人きりで生きている人間など存在しないんだ」
 アキラはゆっくりと首を傾げた。
 目の前で、真剣な口調でアキラを諭す兄弟子の真意が分からない、とそんな表情だった。
 緒方もまた、そんなアキラの反応を初めから分かっていたように、ふと目元を緩めた後は、それ以上厳しい顔に戻ることはなかった。
「……本当は、今日はこれだけ言いたかった。余計な話をして悪かった」
「緒方さん……ボクが何かを見失ってると……?」
「まあ、あまり気にするな。俺の言葉の意味が分からないままなら、そのほうがいいんだ」
 緒方はそう言い残すと、ふっと軽く息をついて立ち上がり、再びチェアに深く腰掛けた。テーブルに置きっぱなしの煙草を一本取り出し、咥えてライターを手にする。
 アキラはまだ少し放心したようなぼうっとした顔で、緒方の言葉を反芻していた。
 初めは、ヒカルの話をしていたのに、どこからこんな流れになったのだろう。
 ――どうしようもなくなったら、誰かを頼れ。
「緒方さん……、ボクは、大丈夫です。ちゃんと、皆を頼りにしてますよ」
 それだけ言って、アキラは微かに笑ってみせた。
 ヒカルのことで取り乱したアキラを、緒方は心配してこんなことを言ったのかもしれない。それとも、最近きちんと話す時間がなかったから、これを機会に兄弟子らしい苦言を呈しようと思っただけかもしれない。
(そうだ……深く考えちゃいけない)
「ああ、それならいいんだ。」
 緒方は紫煙を吐き出しながら、少しだけ目を細めてアキラを見た。
 穏やかな様子の緒方に、アキラはほっと肩の力を抜く。
「早く酒を飲める年になれ、アキラ。飲みながら話せば大抵のことは聞き流せる」
 緒方の言葉は、暗に深く考えるなと伝えているようにアキラは受け取った。
 そう、深く考えなくていい。緒方は酔っている。酔っ払いが、昔話を色付けしてそれらしく語ったにすぎない。現に、話の繋がりも支離滅裂だったではないか。
(それなのに、何故)

 ――部屋で二人で打った……進藤と
 ――アイツは、五月を境に……いつも変わる
 ――あの碁の中に……確かに、saiを見たんだ
 ――アイツがsaiに変わるのを待っているのかもしれん

 ――いいか、忘れるなよ――

 緒方の言葉が頭を支配して離れていかない。
(大丈夫)
 誰よりも、ヒカルのことを分かっているのは、自分だ。
(大丈夫だ)
 そして、自分のことは自分が一番よく分かっている。
(大丈夫……)
 このまま、迷わず歩けばいい。ヒカルと共に、真っ直ぐ前だけを見て――
「しかし、俺も年をとるはずだな。アキラが背中にそんな傷をつけてくるとは」
 ふいに傷痕の話題を蒸し返されて、アキラがぐっと言葉に詰まる。
 緒方はそんなアキラを見下ろして、楽しげににやにやと微笑を浮かべている。
「か、からかわないでください」
 少し頬を赤らめて、アキラはそっぽを向いた。しかし、急激に緩んだ空気にどこかほっとしている自分もいた。
「それにしてもやんちゃな猫だな。そんなに激しかったのか?」
「緒方さん」
 緒方の口調からは、アキラの相手がヒカルと分かっているのか読めなかった。アキラは内心ヒヤヒヤしながら、どうにかこの話題から別なものに逸らせないかと頭を巡らせる。
「あるいは、余程独占欲の強い猫か。……ああ、独占欲ならお前も強そうだ。案外相手も痣だらけか」
「あ、痣だらけって……ボクはそんな乱暴なこと」
 思わず言い返して、アキラははっと口を押さえる。
 緒方の言葉にのってしまったことにカッと顔を熱くさせるが、緒方は少し不思議そうに眉を顰めた後、
「……アキラ、お前キスマークって分かるか?」
 突然そんなことを尋ねてきた。
「え? ……キスマークって、女性の口紅が写る……」
「……そうか、分かった。アキラ、ちょっと手を貸せ」
 軽く指先でこめかみを押さえた緒方が、アキラに手を寄越せと片手を差し出してきた。
 アキラは何だか分からず、それでも言われた通りに右手を差し出すと、その手をとった緒方がいきなり手の甲にぶちゅっと口唇をつけてきた。
「!!」
 咄嗟のことに一瞬固まったアキラも、すぐに我を取り戻して慌てて手を引く。そして思わず布団にごしごしと手の甲を擦りつけた。
「な、なにするんですか、緒方さん!!」
「おい、人を病原菌みたいに扱うな。見てみろ、手」
「え……」
 アキラが恐々手の甲を見ると、丁度緒方に口をつけられた部分に小さな赤い斑点が浮かび上がっている。痛みを感じた訳ではなかったのに、いつの間に痣がついたのだろう――驚いてまじまじ眺めていると、緒方が楽しそうに「それがキスマークだよ」、と告げた。
「キスマーク……」
 なるほど、緒方の言う痣だらけとはこういう意味か。
 アキラは感心すると共に、これなら痛い思いをさせずにヒカルの身体に痕を残すことができる、なんて考えていた。
 それにしても、どうやってつけたのだろう? アキラの目が分析に突入したのを見てか、緒方は簡単な説明を付け加えてくれた。
「それはな、皮膚の表面を吸う事で鬱血して痣になるんだ。吸うと言っても多少はコツがあるんだがな。あんまりきつく吸うと痛いぞ」
「吸う……」
 アキラは呟き、取り憑かれたように手の甲を見つめていた。そんなアキラをいかにも面白そうに眺めている緒方に気がついて、アキラは慌てて立ち上がる。
「ぼ、ボクお風呂にいってきます」
「ああ、ゆっくりしてこい」
 特に引き留められることもなく、アキラは安堵して支度を始める。
 酷く居心地が悪かった。全ての弱みを見せてしまったようで、アキラは逃げるように部屋を後にした。



 大浴場にはアキラの他に二人ばかり先客がいたが、湯気に紛れて顔かたちまで確認することはできなかった。
 それぞれマイペースで風呂を楽しんでいる様子なので、必要以上に近づいてくることもなさそうだと、アキラは安心してため息を漏らす。
 湯船に浸かると、思っていた以上に冷えていた指先がじんわり解れていった。微かに濁った湯はゆらゆら揺れて、水面に移るアキラの輪郭を幻のように歪めていく。
 緒方の言葉が耳から出て行かない。気にするなと言っても、もう無理だろう。
 ならば、彼の言葉を否定すればいいのだ。
(進藤は変わらない。ボクが、変えやしない。)
 saiなんかに、ヒカルは渡さない。
 そう、saiなどもう必要ではないのだ。
 少なくとも、自分にとっては。
(進藤)
 早く会いたい。会って、顔を見て、抱き締めたい。
 アキラはそっと、先ほど緒方が触れた手とは逆の左手を見つめ、その手の甲に口唇を当ててみた。すぐに口を離して様子を見るが、赤くなっている気配もない。
 今度はもう少しきつめに吸ってみた。僅かに赤い痕が残るが、すぐに消えてしまう。
「……案外難しいんだな」
 それからしばらくの間、アキラはキスマークをうまくつけることに没頭した。集中しすぎて、少々のぼせ気味になって部屋に戻るハメになってしまった。
 翌日、左の手の甲に点々と残る小さな赤い斑点を、アキラは人に見られないようにそっと隠しながらホテルを後にした。




 駅に着くと、思った以上に身体が疲れていることが分かった。
 仕事と移動のせいだけではないだろう。昨夜は結局何時頃眠りについたのかよく覚えていない。
 家に帰ったらまず、少し横になろうか、いやそれより先にヒカルに電話をして――そんなことを考えながら家路を急ぐと、自宅の門の前に見慣れた人影が凭れているのを見つけ、アキラは立ち止まった。
 人影はアキラを振り向き、ふわ、と笑った。風が軽く金色の前髪を揺らして、アキラは思わず目を細める。
「おかえり」
「……、進藤……」
 ヒカルはぼんやり突っ立ったままのアキラに小走りに駆け寄って、驚いた? と顔を覗き込んでくる。
「駅まで迎えに行くより、こっちのが早かったから。あ、これおみやげ?」
 嬉しそうにアキラの手から紙袋を奪い、まだ少し呆けているアキラの腕を引いて中に入ろうと催促した。
「なあ、外寒いから中に入れろよ。どうしたんだよぼーっとして、疲れたのか?」
「あ、ああ……いや、ごめん。少し寝不足で……キミがいたからびっくりしたんだ」
「なんだよ、いない方が良かったのかよ」
「嬉しくてびっくりしたんだよ」
 ようやく微笑んだアキラは、ヒカルに腕を引かれるまま門を潜り、誰も居ない玄関の扉の鍵を開いて、ヒカルを中に招き入れた。
 引き戸を素早く閉めたアキラは、ヒカルが靴を脱ぐ前にその身体をきつく抱いて、首筋にそっと口唇を寄せる。
「お、おい、……ひゃっ」
 耳の下、すぐには目立たない場所に口唇を当ててちゅっと吸った。少し力んでしまったかもしれない、ヒカルが小さく「いて」と呟いたのが聞こえる。口唇を離してそこを見ると、小さな赤い痣が確かに残っていた。
 その痕を見たとき、アキラの胸に燻っていた動揺がようやく晴れた気がした。
 おい、なんだよ何したんだよと抗議するヒカルの背を抱いて、何でもないよと靴を脱ぐ。
 ――そう、何でもない。
 ヒカルは何にも変わりはしないし、自分は何も見失ったりしない。
(大丈夫だ)
 アキラは胸に巣食おうとした不安を、強い思い込みの力で握り潰した。
 その時のアキラには、緒方の言った言葉の本当の意味はまだ分からなかった。



 ――『この世の中に、たった一人きりで生きている人間など存在しないんだ』







どちらかというと、緒方センセイにとっては
会って数年のヒカルよりも小さい頃から見ている若のほうが
より良くどんな人間か理解できてるんではないかと。
大人の言うことを、多少聞いておいたほうがいい時もある。
ちなみに若は、風呂場で右手を30回ほど洗いました。
(BGM:STRANGER/氷室京介)