茜の光が落ちた日暮れ刻
 灰を被った空にひたひた闇が訪れる
 怖いのは闇ではない
 怖いのは無だ













 子供の頃、夏休みに家族揃って遊びに行った祖父の家。
 昼間に散々はしゃいでぐっすり眠って数時間、ふと真夜中に目が覚めた。
 尿意を感じて布団を抜け出て、暗く長い廊下を裸足で進み、ギイギイ笑う板張りの道を裸足で歩いて戻る途中。
 何やら声が聴こえた気がした。

「……確かに呼ばれたんだよ。ごく自然に振り向いたけど、何もなかった。おかしいなって首傾げて、歩き出そうとする。そうしたら――また呼ばれた」
 淡々とした語り口と、決して威嚇することのない静かな瞳が、集う青年たちの顔をゆっくりと見渡した。
 大袈裟な身振りに頼らない穏やかな口調は、聞くものに想像の余地を与える独特の間があった。ごくりと唾を飲み込む仕草で、数人が小さく頭を揺らす。
「三度目になると、さすがに変だと気づいた。気のせいじゃないってね。でも、目を凝らしても暗い廊下の向こうには何も見えない。おかしいなあって、闇の中に顔を突き出して見たんだよ。そうしたら」
 息つぎの僅かな合間、それまでなだらかな流線形だった瞳の輪郭がほんの少しだけ丸みを帯びた。
 天井の電灯に皓々と照らされた部屋の中、やけに目立ったそのささやかな表情の変化が、神妙な顔つきで耳を澄ます人々の身をきゅっと竦ませる。
「後ろから――」

 がらりと、背後の襖が開いたのは絶妙のタイミングだった。
 きゃあ、ぎゃあと悲鳴が上がり、正座や胡座で固まっていた面々は飛び跳ねて襖を凝視した。
 呆然と口を開けて開いた襖の向こうに突っ立っているのは、一足先に風呂に出かけて戻って来た仲間の棋士二人だった。
「お、脅かすなよ! 丁度いい時にいきなり開けやがって!」
「伊角くん、話し方怖すぎ! もー、すっごい汗掻いちゃった」
 ピンと張り詰めていた糸が弛んでしまえば、凍り付くようだった空気もどっと熱を取り戻す。
 当初、質素な畳の部屋に宛てがわれた人数は六名。しかし現在この部屋には十数名が集まり、密度も伴って随分と室温が上がっていた。
 ぱたぱたと手のひらを団扇にして喚く連中を、ふうと溜め息をつきながら、アキラは後ろの方で遠巻きに眺めていた。
 とんだ災難だった、と心の中で呟く。思い掛けなく開始された怪談話のせいで、風呂に行くことも、早々に眠ることもできずにやきもきしていたのだ。


 年若い棋士ばかりを集めた、宿泊を伴う囲碁セミナーの初日。
 古びてはいるが清潔感のある旅館で、男性十一名、女性四名の棋士たちが三部屋に分かれて就寝することになっていた。
 ところが、何故かアキラが泊まる部屋に他の部屋から続々人が集まって、まるで修学旅行の一夜のような有り様になってしまった。他の二部屋のメンバーが、活動的だったためかもしれない。部屋割りを確認した時、静かな顔ぶれに内心ほっとしていたアキラにはとんだ誤算だった。
 夏の夜、セミナーの疲れも見せずに狭い部屋に集った棋士たちが、持参していたスナック菓子を食べながらわいわい騒いでいた時。誰かが「何か出そうだよな、ここ」と呟いたのがきっかけだった。
 その一言を皮切りに、半ば冗談混じりの霊体験談が次々と飛び交い出した。最初こそ初めこそ誇張半分、捏造半分のくだらない内容が、時刻が遅くなるにつれて重苦しい響きを孕み始めたのだ。
 次第に静かになっていく室内で、息を呑んで話に聞き入る真剣な表情の間を擦り抜けて、お先に風呂へと頭を下げられるような状況ではなかった。
 盛り上がってしまう前に部屋を出るべきだった――意図せず怪談大会に巻き込まれたアキラは、ついに抜け出すチャンスを見出せずに最後まで付き合うハメになったのである。
 確かに都心から離れた山中の旅館には、木々のざわめきひとつで人をぎくりとさせる不気味な要素があるのだろう。しかし見方を変えれば赴き深い静かな所。幼少から純和風の日本家屋で育ったアキラとしては、長閑で落ち着く良い宿であった。
 そのため彼らの恐怖心には共感できず、余計に時間を持て余す結果となってしまった。時計を見やるとすでに一時間以上も経過している。アキラはげんなりと頭を垂らした。
「それで、続きは? 後ろから何が出たの?」
「やだやだ、もういい! もーやめようよ、聞きたくない〜!」
 両極端な要望を受けて、今回のセミナーの年長である伊角は、先ほど恐怖体験を語っていた時とはがらりと変わった優しい表情で、困ったように笑顔を見せていた。
 怖がらせようと思って話していたのではない、事実を分かりやすく丁寧に説明した伊角の静かな視線が、かえって人の恐怖心を煽っていたことは分かるのだが――アキラは軽く肩を竦める。
 それでも、彼らのように震えるほどではない。アキラの中では、この世の中のものは理解できるものと出来ないものに分かれていて、後者に関しては興味を引かれないために感情が大きく動くことはなかった。
 冷めた瞳で周りを見渡せば、怯えた女流棋士の数名が部屋の隅で身を寄せ合っている。お風呂暗いんだって、うそー入りたくないと囁く彼女たちを、和谷が面白がってからかっていた。
「絶対出るぜ。鏡とかにさ、写るんだよ」
「ちょっと、やめてよ和谷!」
 恐らく本気で怒鳴り返した女流棋士に、和谷は悪びれない様子で頭を下げる。伊角が話していた時は、彼も相当怖がっていたはずだ――身を縮めて話を聞いていた真剣な顔を思い出したアキラは、和谷の空威張りに微笑した。
 すっかり空気は解れ、先ほどまで険しい顔つきだった彼らもリラックスした表情に戻っていた。
 どうやらこのままお開きとなるらしい。固まって自分達の部屋へ移動しようとしている女性陣や、自動販売機へ飲み物を買いに数名が部屋を出る雑然とした雰囲気に、アキラはほっと肩を竦めた。
 自らも遅い風呂に入りに行こうと支度を始めようとした。その時、和谷がぽつりと呟いた。

「でもさ、ホントにいるのかな……そういうの」

 そういうの、が何を指しているのか説明する必要はなかった。
 一瞬冷気が通り過ぎた部屋で、その淡白さゆえに聞く者を震えさせた語り手の伊角が、穏やかながらも真顔で答えた。
「確実に存在すると断言はできないが……人じゃない気配を感じたことは何度かある。それが何かと聞かれたら、俺は“そう”だと答えるだろうな」
 和谷の表情が微かに引き攣ったのが遠目でも分かった。
「……人じゃない気配って……」
「息遣いとか、他にも……。……さっきの話の続き、聞きたいか?」
 ここで初めて伊角は含みのある笑みを見せた。
 咄嗟に首をぶんぶん振った和谷は、自分の強張った身体に気づいたのか顔を赤らめる。
「やっべ、鳥肌立っちまったじゃん! 伊角さんの言い方怖えーよ!」
「はは、そろそろ部屋に戻れよ。何か出て来るかもしれないぞ」
「ちょ、マジ勘弁してくれよ! ここの廊下超暗いんだからさー!」
 ぎゃあぎゃあ喚きながら、連れ立ってやって来た仲間たちと賑やかに部屋を出て行く和谷の後ろ姿を見送って、アキラはまたも溜め息をつく。
 あれだけ騒がしいなら幽霊のほうで避けてくれるだろう。思わずそんなことを考えてしまった集団の後方に、ふと違和感を感じてアキラは目を凝らした。
 違和感の正体は、集団のしんがりを務めていたヒカルの様子だった。
 そういえば、とアキラはこの部屋に来てからのヒカルについて振り返る。
 いつも無駄に元気で騒々しいヒカルが、さっきはやけに大人しかった気がする。和谷や伊角は院生時代からの親しい友人であるから、普段なら一緒になって大騒ぎしそうなものを……
(まてよ)
 いいや、部屋に来てすぐの間はいつも通り賑やかだった。そう思い直したアキラは、ではいつからヒカルが静かになったかを考える。
 ……怪談話が始まった頃からだっただろうか。
 意外にそういったことに弱いのだろうかと、多少呆れを含んだ目で再びヒカルを見やった時。

 襖の向こうに姿が消える寸前、横顔がにやりと笑った。
 吊り上がった口唇の端が持ち上げた頬の肉の動きを、確かにアキラは捉えた。

 同時にざっと背中が総毛立った。
 人の気配が遠ざかる襖を見つめて、アキラはしばし呆然と立ち尽くしていた。アキラに現実を取り戻させたのは、同じくこの部屋を割り当てられていた伊角の呼び掛けだった。
「塔矢、これから風呂か? 浴場は十一時で閉まるらしいから、行くなら急いだほうがいいぞ」
「あ……はい」
 咄嗟に笑顔を取り繕ったアキラだが、思わずもう一度襖の方向を振り返ってしまった。
 ――確かに見た、歪んだ口元の笑み。
 闇に溶けていくような横顔だった……








 浴衣に着替えてタオルを抱え、板張りの廊下に気の抜けたスリッパの音を響かせて浴場を目指す。
 和谷が喚いていた通り、やけに電灯の明かりが弱い廊下をアキラは一人で歩いていた。
 朝風呂が習慣と言う伊角はそのまま寝支度を始め、他の二名はすでに風呂の後であり、残った二名も怪談話が効いたのか今夜はパスするらしい。結局六人部屋から風呂へ向かったのはアキラ一人となった。
 まあ、そのほうが余計な気遣いをしなくて楽だ――そんなことを思いながらアキラが薄暗い廊下を進んでいた時、ふと前方に見覚えのある金色がふわりと靡いた気がした。
 思わず目を凝らすと、人影がこの先の分かれ道を左に曲がったのがかろうじて分かった。
 つい足早に影を追いかけ、分岐点で立ち止まったアキラは壁の案内板を見上げる。
 右に大浴場、左に客室と書かれた表示の通り、右、左と顔を動かしたアキラは、左の道に広がる深い闇に眉を顰めた。
 廊下の電灯すらもついていないということは、この先に泊まり客はいないのだろう。自分達が割り当てられた部屋はもっと後方――では何をしにこちらの方向へ向かったのか?
 進藤、と口の中で呟いた。
 そう、今のはヒカルだ。薄暗くて顔は分からなかったが、僅かな明かりでも輝く前髪を見間違うはずがない。
 アキラは先程感じたヒカルの違和感を思い出した。
 あんな不気味な笑い方をするヒカルは初めて見た。記憶にその表情が甦った途端、ざわりと何かが背中を撫でたような、不快な感覚にアキラは顔つきを険しくさせる。

 ――馬鹿馬鹿しい。人ではないものなら、では一体何だというんだ――

 抱えたタオルを握り締め、背筋を伸ばしたアキラは、迷うこと無く闇に向かって歩き出した。
 吸い込まれそうな黒だった。