Time has come







 照りつける日差しが日に日に強さを増す六月。
「おーい、和谷」
 夏目前だというのに洗濯が追いつかず、渋々長袖を着ていた和谷は、外の温度に耐えるために袖をまくりながら棋院を出ようとしていたところだった。
 呼び止められて振り向くと、和谷と同じ森下門下の先輩である冴木が、A4サイズの用紙をひらひらさせながら追いかけてくる。
「お前、忘れもん。肝心なもの忘れてどうすんだ」
「あっ、やべ。冴木さんありがとう」
 和谷が受け取った用紙には、先ほど説明を受けたばかりの静岡出張について詳細が記載されている。
「なんか暑くてボケてるかも、俺」
「進藤も同じようなこと言ってたよ」
 冴木は弟弟子にあたる和谷を見て苦笑し、用紙に書かれた日程を指差した。
「来週だぞ、間違えんなよ。俺らは駅集合だからな」
「間違えないって、進藤じゃあるまいし」
 何かと話題に名前が挙がりやすい進藤ヒカルは、二人にとっては明るくて単純でからかいやすい弟分だった。
 先月行われた北斗杯では日本代表として三名のうちの一人に選ばれ、二敗したもののどちらも評価に値する一局を残してきた。
 そのため北斗杯直後からヒカルに舞い込む仕事が増え、ここ最近はあまり和谷たちとも顔を合わせている時間がない。森下九段主催の元で行われる研究会にはなるべく顔を出すようにしているようだが、それも欠かさずというわけにはいかなくなっていた。
「進藤と仕事かぶるの久しぶりだから楽しみだな」
 和谷は改めて、紙に記された今回の出張メンバーを確認する。
 芦原四段、冴木四段、和谷二段、進藤初段。その他、和谷があまり親しくない低段者が数名。
「微妙なメンバーだよなあ」
 冴木が複雑な笑みを浮かべる。
 森下門下三人に対し、唯一の塔矢門下である芦原一人。
「あの人は何にも考えてなさそーだから大丈夫じゃないかな……」
「まあ、そうなんだけどな。どうも俺はあの人のノリにはついていけん」
 確かに、と和谷も苦笑いする。
「ま、いいさ。来週、進藤にも会ったら念押ししといてくれ」
「あいつ寝坊の常習犯だからなあ」
 冴木は軽く笑ったが、ふと何か思いついたようにあ、と口を開けた。
「そういやその進藤だけど、あいつ最近何か雰囲気変わったよな」
「進藤が?」
 和谷は首を傾げる。
 和谷の知っている進藤は、お調子者でラーメンばっかり食べているようなイメージだ。それは昔からずっと変わらないと思っている。
 ここしばらく一緒につるむ機会が少なかったため、最近と言われるとどうにもピンとこない。
「なんか変わったかなあ? 別に気になんなかったけど」
「いや、ならいいんだが。あいつ最近、ちょっと大人っぽくなったというか、落ち着いたというか……」
「進藤が〜〜?」
 和谷は不満たっぷりな声を出す。
「ほんのちょっとだ、ほんのちょっと。彼女でもできたのかと思ったけど、気のせいかな」
「カノジョ!? そんな気配一切ないって!」
 自分にもできないのに進藤に先を越されるなんて!
 和谷の顔いっぱいの非難に冴木も思わず後ずさりしてしまう。
「だから、気のせいかなって言ってるだろ〜。お前こそ落ち着けよ、和谷」
 冴木は自分より頭ひとつ小さい和谷の頭をぽんぽん叩き、和谷は子供扱いするなよ〜と怒りながらも冴木と連れ立って棋院を後にする。
 ヒカルの微妙な変化に、大人たちが少しずつ気づき始める。
 囲碁と向き合う姿勢が変わり、集中力も格段に冴えを見せている。それに伴い日頃の様子にも落ち着きが見られるようになってきていたのだが、ヒカル本人には全く自覚はなかった。
 ヒカルが化けたと、大人たちの間で噂されるようになるのはもう少し後のことだ。
 そしてヒカルが変わって来た頃から、冴木も和谷も、その他の棋士たちも、森下門下だと思われているヒカルが、塔矢門下、それも直系である塔矢アキラが待つ碁会所へ足繁く通っているとは想像もしていなかった。



「俺さあ、来週来れないから」
 たった今終わった一局を崩しながら、ヒカルはさらりとそう言った。ジャラジャラという音に紛れてよく聞こえなかったアキラが、碁盤を挟んで正面に座るヒカルに「え?」という顔をしてみせる。
「だから、来週来れないって。仕事入っちゃった」
「一週間ずっと? そんなに長い仕事が?」
「いやー、入ったのは一泊二日の出張だけだけど。最近森下先生の研究会にも顔出してないから、和谷とかうるせーんだ」
「それでも七日のうち三日間しか予定が埋まってないじゃないか。一日くらい来れないのか」
「お前なあ、手合いとかも入ってるし、今俺結構忙しいんだぜ」
 呆れたようにそう言ったヒカルは、大体お前だって忙しいだろ、と続けた。
 アキラも黙ってしまうしかなかった。北斗杯が終わって以来、何かと仕事の依頼を受けざるを得ない状況が続いている。それはヒカルと共に北斗杯に出場したアキラも同じで、恐らく関西にいる社もそうに違いなかった。
 北斗杯で高永夏との激戦に破れたヒカルは、その夜こそ落ち込んでいたようだったものの(そしてアキラはそれを慰めに行ったつもりで余計なことをしてきたのだけれど)、翌日以降は今まで以上に集中して対局に臨むようになっていた。
 スピードは損なわず、その上以前より気迫のこもった打ち筋には勢いがついている。
 アキラは心底ほっとしていた。北斗前直前の合宿の時のような不安定さは、今のヒカルには見られない。こうして、以前のようにアキラの待つ碁会所へ、変わらない様子で通ってきてくれている。
 棋士としてお互いに認め合っているのは勿論、アキラとしては恋のお相手(といっても片思い)でもあるヒカルが、アキラと碁を打つためにやって来てくれるのは嬉しかった。
 とはいえ、それぞれ仕事に手合いに碁の研究に忙しい毎日を過ごしているわけで、今でも相当予定を工面して逢瀬(?)を重ねているのだから、これまでのように「最低でも週イチ!」といった、まるで夜の回数みたいな希望を通すことが難しいのもよく分かっていた。
(来てくれるだけでも喜ばないとダメなんだけど)
 アキラはヒカルに気持ちを打ち明けてからの、自分の暴走っぷりを思い起こして肩を落とす。
 よくもまあ、突っ走ってしまったものだ。その都度反省はするものの、どうやらあまり活かされていないらしい。
 そんなアキラに、ヒカルは特に警戒するわけでもなくいつも通りに接するものだから、それもまた困るのだ。
(変な期待をするじゃないか)
 ヒカルが今、アキラをそういう目で見ていないのは理解していても。
 待っていれば、ひょっとしたら何とかなるんじゃないかなんて……そんな淡い、いや実は相当に濃厚な期待を抱えてしまいそうになる。
 ヒカルへの恋心を自覚してから、それなりの時間が経った。
 初めの頃にあれだけ見ていたヒカルの夢を、今はほとんど見ていない。
 ひょっとしたら、現実が夢に近づきつつあるのだろうか。
「だから次来るのは再来週かな。……塔矢聞いてんのか?」
「え? あ、う、うん、わ、分かったよ」
 考えが大幅に逸れそうになって、ヒカルの話半分だったアキラは、とりあえず適当な相槌を打ってごまかした。ヒカルの目がむっとしたように細められる。
「……お前、ちょっと俺が来れないからってすねてんじゃねーよ。この甘ったれ」
「あま……!?」
 恐らくヒカルはここが碁会所ということを考慮して、アキラに気を使って小声でからかったのだろうが、それに対するアキラの反応がヒカルの気遣い台無しなオーバーリアクションだったのだからどうしようもない。
「ああ、どうせボクは甘ったれだよ! キミが来ないと聞いてすねた、それのどこが悪い!?」
 顔を真っ赤にして立ち上がり、大声でそんなことを喚く若先生の剣幕に、碁会所は一気に静まり返った。
 客たちは全員見ないフリをしてくれているのだが、この状況で一番辛かったのはそんなアキラと対峙しているヒカルだっただろう。
 ――こいつはやっぱりバカだ、と改めてヒカルは思う。
 冷静沈着、品行方正、そんな四文字熟語の似合うこの碁会所自慢の若先生は、事にヒカルが絡むととんでもない猪に化けてしまう。ヒカルがこの場所に通うようになってからそれなりに時間が経ったため、常連客などにはその様子がバレバレだ。特にアキラに肩入れしている北島などは、「進藤君が若先生を振り回している」なんて珍妙な解釈をしてヒカルを責めてくるぐらいである。
 そんな二人のおかしな言い争いはしょっちゅうだったため、今日のように突然アキラが立ち上がって訳の分からないことを喚いても、客たちは最早驚かない。ただ、若先生の嵐が早く過ぎ去りますように……と祈るばかりだ。
 そして内心、ヒカルに「何とかしろ」と思っているのも事実である。
(全く、こいつって何で場所とか考えないかなあ)
 ヒカルはため息をつく。
 アキラに好きだと告白されてから、もう何ヶ月経っただろう。
 初めてのキスを奪われ、その後も何度か危うい目に遭い、それでもアキラと碁を打ち続ける道を選んだから、今もこうして一緒にいる。
 アキラの想いに応えられるかと聞かれたら、首をどちらにも振ることができない。別に、アキラのことは嫌いじゃないからだ。
 しかしそれが友達としてなのか、アキラを一人の人間として見てそうなのかは、正直なところヒカルにも分からない。
 ただの友達とは、違うと思うのだ。だって、あんなふうに抱き締められたりキスされたりして平気でいられる友達なんてちょっとおかしい。例えば、和谷とか越智とかに同じことをされたと仮定してみて。
(……やっぱりヤなんだよなあ)
 純粋な友達とはあんなことはできない。たぶんされたらメチャクチャ抵抗する。想像するのも彼らに申し訳ないくらい。
 でも、アキラは何となく彼らとは違うのだ。
 バカみたいに一生懸命で、必死すぎて、見てるほうが居た堪れない気持ちになるほどだけど、ヒカルに対して誰よりも真剣で誰よりも優しい。
 アキラにキスされるのは、不思議と嫌じゃない。それどころかうっかり流されてしまいそうになるくらい……気持ちよかったりする。
(俺が変なのかなあ)
 それも当たりかもしれない。友達でいながら友達とは違うアキラ。アキラほどの感情はないにしろ、アキラのことは嫌ではないヒカル。
(そうか、どっちも変なんだ)
 ヒカルはそんなミもフタもない答えで自分を納得させようとした。深く考えたらなんだか自分が変わってしまいそうで不安だったのかもしれない。
 これまでのことを意識しすぎたら、アキラの傍にいることも怖くなってしまうかもしれない。だから、これ以上深く考えないようにと、ヒカルの心が自動的にストッパーを用意する。
「……座れよ、塔矢」
 ヒカルはまたも小声でアキラを落ち着かせようとした。
 アキラはしばらくすねた顔のままだったが、やがて恥ずかしさを思い出したのかそのまま腰を下ろした。
「あのな、ここお前んとこの碁会所だぞ。ちょっと考えろよ」
「……どうもキミが絡むと頭に血が昇るんだ」
「その台詞ももうちょっと小さい声で言ったほうがいいと思うけど」
 ヒカル自身で思うのもなんだが、恋は盲目という言葉は本当にその通りなのだろう。
 まさか碁会所に来ている客たちが、アキラがヒカルに惚れているなんて想像もしないだろうから良いようなものの。
(棋院でコレをやられたらまずいよなあ)
 ヒカルとしても、碁を打つ時のカッコいい塔矢アキラ像を崩したくない気持ちはある。
「……まあ、そんなわけで来週は来れないからな」
 もう何度目の言葉だろうか、ヒカルは再度アキラに念押ししなければならなかった。アキラも今度は素直に頷く。
 ヒカルはそのまま帰る準備を始めた。名残惜しい様子でアキラも碁笥を手に取り、碁石を片付けるのを手伝う。
「出張、どこに行くんだ?」
「ん? 静岡。」
「メンバーは?」
「えっと、覚えてるのは、冴木さんと和谷と……芦原さん」
 アキラは顔を上げてへえ、と相槌を返した。
 芦原四段。アキラが小さい頃から「友達」として慣れ親しんできた、塔矢門下の兄弟子である。
「それは……面白い組み合わせだね」
「だろ? まあ、芦原さんっていっつもテンション高いから、俺らがぼーっとしてる間にイベント終わっちゃうかもな」
 笑うヒカルに、ようやくアキラも笑い返した。
「おみやげよろしく」
「はぁ? なんでお前に」
「毎回毎回キミの検討につきあってあげてるんだ。それくらいいいだろう?」
「それはこっちの台詞だ! お前だっていつもおみやげなんか買ってこないくせに」
「……じゃあ今度買ってくる」
「いらねーよ、お前からのおみやげなんて」
「! 何が何でも買ってくるっ!」
「いらねー!」
 また始まった。碁会所がブルーのため息に包まれる。
 幸いにも今日はよく晴れた一日で、二人が外に出る頃には天気と一緒に気持ちも晴れるだろう。その程度のくだらない喧嘩なのだ。
 案の定、「帰る!」と碁会所を飛び出したヒカルは、家に着く頃には笑顔で「ただいま!」を言えるようになっていた。





北斗杯が終わってちょっと落着いたヒカル。
インターバルみたいなつもりで。
冴木と和谷の冒頭シーンが何より時間かかりました。
静岡の場所は適当に決めました……ごめんなさい。