アキラにとっては久しぶりの休日だった。 「……はあ」 だというのにため息をつきながら、誰もいない家で朝っぱらから一人棋譜並べをしている。 今並べているのは先日行われた北斗杯、ヒカルと高永夏との一局だった。ヒカルの必死さが伝わってくる。あの時の空気を思い出しながら、より良い結果を残そうと一人検討も進めていた。 だが、心はどこか晴れない。 こんなふうに何もない休日は本当に久しぶりなのだ。仕事も手合いもない、誰かとの約束もない、両親もいない。 それなのに、不思議と早くに目が覚め、いつも通りの午前六時には起床していた。朝食をとってしまえばやることもなく、碁の勉強くらいしかアキラには思いつかない。 ヒカルなら、どんなふうに休日を過ごすのだろうか。――アキラは自分の無趣味ぶりに改めて呆れてしまう。 おまけに珍しく、明日までの連休となってしまっていた。二連休もあれば、どこかでヒカルと会うこともできそうだったが、ヒカルは例の出張で今日から出かけるはずである。 「間が悪いな」 一人苦笑して、それからアキラは両腕を天に捧げて背伸びをした。 この機会に、中韓の棋士たちの棋譜研究に力を入れるのも良いかもしれない。以前の合宿では見切れなかったものも、じっくりと念入りに。 そうと決めたら、と早速立ち上がったアキラの耳に、機械的な電話の音が届いた。 こんな朝から誰だろうと、アキラが急いで電話をとると、 『よかった、いた〜! アキラぁ〜』 聞き慣れた情けない声。 「芦原さん?」 『いや〜つかまってよかったよ〜。アキラ、いきなりだけど今日ヒマ? というか、明日の夕方くらいまでヒマ??』 「明日の夕方……? なんですか、急に」 芦原の持ってくる話にはいつもろくなことがない。 思わず警戒したアキラは、すぐにうんとは言わなかった。 『いやさぁ、実は俺今日から地方イベント担当だったんだけど、なんか食あたりしたみたいで……昨日の夜からずっと腹下してんだよ〜。』 「……」 『それで今日も到底イベントなんか無理そうでさ、手当たり次第に空いてそうなヤツ探してようやくお前が出てくれたんだけど……』 アキラは深く長いため息をついた。 芦原の暴飲暴食は珍しいことではない。今回も恐らく、食あたりというよりはただの食べ過ぎなのだろう。 アキラは咄嗟に断りの返事を返そうとして――ふと思い出した。 ――えっと、覚えてるのは、冴木さんと和谷と……芦原さん 「! あ、あの、芦原さん、それって……場所は、静岡?」 『ん? アキラなんで知ってるの?』 やはり! ――アキラは思わず空いた右手でガッツポーズをきめてしまう。 『ああ、また腹が……アキラ、頼むから、』 「行きます」 『この兄弟子を助けると思って……、え、行ってくれる?』 「行・き・ま・す。」 『ホント!? やったぁ! ……、力抜いたら腹が……! じゃ、じゃあアキラ、悪いけど頼むから。棋院には後で腹が納まったら連絡入れておくから、八時に……、……駅まで……』 電話が切れた。芦原が力尽きたようだった。 しかしアキラは慌てて時計を見上げ、 「八時!?」 切れた電話を叩きつけて自室にすっ飛んでいく。 現在午後七時過ぎ、支度時間は残りあと三十分。 「芦原さん、遅いよなあ」 駅ですっかり待ちくたびれていた静岡出張ご一行様、和谷が腕時計と駅の外を交互に見ている。 「ひょっとして寝坊かなあ」 ヒカルの呟きに、すかさず和谷が「お前じゃないんだから」とツッコミを入れる。ヒカルも何を、とやり返し、久しぶりの友達らしい会話を楽しんでいた。 棋院に携帯で連絡を入れていた冴木が、「分かりました。」と締めて電話を切る。 「おい、俺たちは先に行くぞ。芦原さん、体調不良で代打が来るって」 「え、そうなの?」 ヒカルたちは一様に驚いた顔をする。 「ギリギリで代理見つけられたみたいで、集合時間には間に合わないってさ。遅れて現地に来るらしいから、俺らは先に行ってろ、だそうだ」 「誰が来るの?」 和谷の質問に冴木も首を傾げる。 「さあ。あっちもまだ分かってないみたいだぜ」 全員が、芦原らしい準備の悪さに複雑な顔で頷きあった。 「じゃあ、行くか。」 芦原がいないため、すっかりご一行の引率者扱いになった冴木は、まだまだ元気盛りな十代連中を連れて歩くことに不安を感じていた。 (芦原さんの代わりなら、来るのは塔矢門下の誰かだよな??) 芦原と付き合いのある塔矢門下は、高段者が多い。まさか緒方十段・棋聖が来ることはないだろうが、期待してもいいかもしれない。 ところが、ヒカルたちが現地に到着してから約三十分後、 「……遅くなりました……」 やや疲れた様子で現れたのは、実力は高段者に引けをとらないものの、歳の頃はまだまだ若輩の十五歳、塔矢アキラだった。 全員の予想外だったのか、冴木までもが言葉をなくして代打のおかっぱ頭を眺めている。 塔矢アキラといえば、先月の北斗杯の活躍も著しく、三段という低段ながら各タイトル戦のリーグ入りも果たして、現在若手ではナンバーワンの忙しさのはずだった。 その彼が、たかが地方イベントの出張業務なんぞに代理でやってくるなんて、誰が想像しただろう。 そして、ヒカルもまた驚きで口をぱっかり開けてしまった。 ヒカルが考えることといえば、先日のくだらないやりとりだ。まさか、ヒカルが碁会所に来ないならばとわざわざ出張先までヒカルを追いかけてきたのでは。芦原の体調不良も、初めから仕組まれていたものでは? ――そう思うのも無理はなかった。アキラならやりかねない。これまでの暴走の急上昇ぶりなら、充分頷ける。 「塔矢が来たのか……。お前、明日までスケジュール大丈夫なのか?」 思わず尋ねた冴木ならずとも心配しただろう。 「ええ、ちょうど明日まで休みがあって。芦原さんの頼みですから」 アキラはそう言ってにっこり笑った。 ヒカルは僅かに胸に広がる不安を拭えなかった。 「何も企んでなんかないよ」 人気の少なくなったロビー、周りに関係者が誰もいないことを確かめてから、ヒカルはアキラに詰め寄った。 他の人間が部屋に向かう時、ヒカルだけ「ジュースを買う」とロビーに残った。その時に一瞬目配せしたヒカルの視線を、アキラはしっかり受け取っていた。 「だって、忙しいお前がなんでうまいこと代理で来れるんだよ?」 本気で疑っているヒカルに、アキラも複雑な表情でため息をつく。 「だから、本当に偶然休みだったんだ。明日まで何して過ごそうか考えてたら芦原さんから電話があったんだよ。断る理由はないだろう?」 ヒカルは相変わらず訝しげな表情を崩さない。 自分の信用のなんと薄いことか。アキラは苦笑した。 「……でも、キミがいなかったら来なかったかも」 「!」 ヒカルの顔が朱に染まるのを間近で見て、アキラは思わず吹き出した。冗談だよ、と続けるが、ヒカルは信じていないし、本当に冗談ではない。 「さ、そろそろ部屋に向かわないと怪しまれるよ? 周りはボクとキミがよく会ってるなんて知らないんだから」 「……お前、ヘンなことするなよ」 「……本当に信用ないなあ」 アキラは楽しそうに笑い、ヒカルを置いてエレベーターに向かった。その後をヒカルが慌てて追ってくる。振り返って、その様子を見てまた顔がにやけてしまう。 今日は北斗杯の時のようなピリピリした空気はない。北斗杯前に不安定だったヒカルも、今ではすっかり元通りだ。 楽しい旅行になりそうだ――アキラは鼻歌でも歌いだしそうな雰囲気のまま、辿り着いたエレベーターで上へのボタンを押した。 |
もうイベントや棋院関連デタラメですいません。
ヒカルの気持ちをまとめようと思って書いた話ですが、
いろんな人を出してるせいでどんどんまとまらなく……