Timepieces








 ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ




 例えるなら虹色。
 パステルカラーの七色の空気。
 何か形があるような気もするけれど、ぼんやりした優しい色に包まれている感触のほうが大きくて、うっとりと身体を預けて色の中に漂っていた。



 ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ



 もやもやとした微睡みの霧がじわじわ晴れて来る。
 すべすべしたシーツの感触を足先で味わい、暖かさに逃げ込むように首を縮め、仰向けから俯せへ体勢を変える。



 ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ



 至福の表情が少しずつ崩れ、眉間に縦皺、口元はへの字を描いて大きく彎曲し始めた。
 背中も丸め、胸までずり落ちていた布団を引っ張り上げて頭から被り、心地よいひとときを邪魔する耳障りな音を遮断しようと無駄な努力を試みる。



 ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ



「……、……るせー!」
 自分の怒声がとどめだった。

 しっかり意識を現実に引き戻されたヒカルは、最後まで抵抗していた瞼をこじ開け、渋々逃げ込んだ布団の中から顔を出して、ベッドを抜け出て音の出所――机の上に鎮座する目覚まし時計に手を伸ばす。
 ばしん、と不必要なほど勢い良く時計の頭を叩くと、喚いていた電子音はぴたりとやんだ。
 午前六時。ふわあ、と顔中を口にしたような大あくびをひとつ、まだ瞼が半分下りたままのヒカルの身体は回れ右をしようとする。しかし、再びベッドに身体を沈めることは本人の意志で思いとどまったようだ。
「……」
 皺の寄ったシーツと布団を恨めしく見下ろす。もう一度潜ったら、未だに残るぬくもりの心地よさに二度とベッドから出られなくなるかもしれない。
 身体は怠い。まだ頭だって寝呆けてぼんやりしている。軽く瞬きした瞼が、接着剤でも仕込まれたかのようにぴたりとくっつき、このまま開かなくなったらいいと思うくらい……
 それでもヒカルは誘惑に勝った。薄らクマの浮かぶ目の下を擦り、覚醒を促すためにぺちぺちと顔を叩いて、うーんとひとつ背伸びをしたら準備は完了。
 ヒカルは無理に目を大きく開いて、大袈裟とも言える動作でカーテンを開け放った。まだ少し薄暗い空だが、ガラス越しのひんやりした空気は更なる目覚めを促してくれる。
「……よし」
 自分に気合いを入れたヒカルは、勢い良くパジャマ代わりのシャツを脱ぎ始めた。部屋の冷気で身体が竦むが、それもまた頭をすっきりさせるためと言い聞かせて手早く服を着替えて行く。
 一年前の自分なら、二度寝して遅刻ギリギリまで惰眠を貪るのが常だった。いや、半年前の自分だって。
 しかし今はそんな甘ったれたことを言っていられない。
 着替えを終えたヒカルは、まだぼさぼさの頭で、それでもはっきりした目で部屋を出た。


 ――まず、自分で起きられるようになりなさい。誰かに起こしてもらうんじゃなくて、一人で。


 階段を下りて行き、廊下を擦り抜けて洗面所へ向かう。
 ぬるめのお湯で顔を洗うと、まだ頭の奥に残っていた眠気が完全に吹っ飛んだような気がした。


 ――それから自分の食事は自分で支度しなさい。最低でも自分が使う食器は自分で並べること。後片付けもちゃんとやらないと、家を出るなんて認めませんからね――


「おはよー」
 すでに人がいると仮定して声をかけたキッチンには、やはり母親が立っていた。父親の弁当を作っているのだろう、まだノーメイクとはいえしっかり着替えてエプロンをつけた後ろ姿は頼もしいし頭が下がる。
「おはよう。今日は棋院?」
「うん。対局」
 簡単な朝の会話を交わしながら、ヒカルは炊飯器の手を伸ばす。すでに母親の手によって解されている飯にしゃもじを突っ込むと、予想外の柔らかすぎる手ごたえに顔が歪んだ。
「……やわすぎ……」
「あんた、また水多くいれ過ぎたんでしょう。目盛り通りに水を入れるだけなのに、どうしていつも硬かったり柔かったり丁度良くならないのかしら」
 仕方ないからお父さんのお弁当はこれで我慢してもらうわ、と母親が笑いながら告げる。ヒカルは苦い表情で肩を竦めた。
 昨夜炊飯器のタイマーをセットしたのは確かにヒカルだ。米の量と水の量をきっちり測るだけ――後は全て炊飯器が請け負ってくれるだけだというのに、未だかつて一度も美味しい飯を炊けたことがない。
 それでも努力は認めてもらえているようで、出来が悪くとも母親が極端にヒカルを責めることはなかった。いや、今までが何もしなさすぎたのだ――僅かでも食事の支度や後片付けをし始めたヒカルに、少なからず両親が喜んでいることをヒカルは知っていた。
 そして、いかに自分が甘ったれて育ってきたかを思い知らされる。家を出たいと伝えた時、ヒカルが何もできないことを誰よりも良く知っていたのは母親だっただろう。
 
 一人暮らしをしたいと言い出したのなら、案外すんなりと事は運んだかもしれなかった。
 一人であれば、多少家事が出来なかろうと、そこら中に二十四時間営業の店がごろごろ転がっている。食べるものには困らない。不摂生をしたとしても、影響が出るのは自分の身体だけ。
 しかしヒカルの希望はそうではなかった。アキラと一緒に住みたい――母親が、ヒカルが家事の全てをアキラに任せっきりにして、楽をして過ごす気だと思い込んだのも無理はなかった。
 最初は頭ごなしに反対だった。とにかくダメ、あんたが塔矢くんと暮らしたって迷惑かけるだけ。しかしその反応はヒカルも予想していたこと。嘆願は根気強く続けられた。
 ただ我が儘を言っているだけではないことに母親が気づいたのだろうか、その後父親を交えての家族会議が開かれた。そこで出された提案――自分一人での起床、食事の支度と後片付け、そして料理と洗濯の練習。それらを条件に、一通りのことができるようになったら家を出ても良いという承諾を得たのだった。

 よく考えなくとも、提示された条件は特に難しいものではない。当たり前にこなす人間のほうが余程多くいるだろう。
 しかしヒカルにとっては何もかもが初めての試みに近かった。
 やはり早めに動き出したのは正解だった。出鱈目に提案をした訳ではなく、ヒカルにとって意味のある月を新しいスタートの日として選んだのだが、八ヶ月近い準備期間が決して多すぎることはないとすぐに悟った。
 何しろヒカルの家事レベルは母親が頭を抱えるほどだった。
 朝起きるにもだらだらとベッドにへばりつき、怒った母親に布団を剥がされるまで身体を起こすことができない、なんてほとんど毎朝の光景だった。セットした目覚ましを止めて、二度寝を何度繰り返しただろう。
 しかし今では、何とか自力で起きている。危うい日もあったが、母親の助けがないとなると自然と緊張感が保たれるようだった。
 朝食のメニュー自体はほとんど母親が用意してくれているが、盛り付けは自分で行っている。ずっと上げ膳据え膳だったことを思えば随分な進歩だ。もちろん、食事の後の食器もきちんと自分で下げることを忘れずに。
 時間に余裕がある時は皿洗いだってやったりもする。割った皿は一枚や二枚では済まなかったけれど。
 そして、帰宅後の料理特訓――これが一番の課題だった。
 忙しい身であるから毎晩ではないが、多少早く返ることができた日は必ず母親に料理教室を依頼する。別段難しいメニューではない。それでも漏れなく失敗作が完成した。
 例えば味噌汁を作るにしても、出汁だって手軽な顆粒を使っていながら、どうしてか味がまともなものにならないし、野菜も肉も切り方・茹で方・炒め方・焼き方全てがおかしいようで、出来上がったものは禍々しいオーラを放っていた。
 唯一口に入れることができるのは、炊飯器で炊いた米のみ――それも丁度良い炊き具合であったことはない。母親の溜め息が耳に痛いが、それでもヒカルは諦めなかった。
 せめて一品だけでもまともな料理が作れたら合格。自分の中に非常に低いハードルを定め、朝食をかき込んで行く。痩せた痩せたとアキラが騒ぐから、食事はなるべくきちんと摂るようにしている。それでもあまりに遅い帰宅になった夜は、そのまま睡眠欲が勝ってしまうこともあるのだけれど。
 しっかりと朝食を胃袋に収めたら、食べ終わった食器を片付けて、時計を見れば午前七時半。
 そろそろ出かけなければ――ヒカルは今日の対局相手の棋譜を頭に並べながら、家事見習いから棋士へと頭を切り替えにかかった。





またも久しぶりの本編!
ちょっとやりすぎ感漂うヒカルの惨状……↑
しかしヒカル、これで19歳かよ。