「よー進藤」 「進藤、おはよう」 棋院に到着してからすぐ、ロビー付近で立ち話をしていた和谷と伊角に出会い、朝の挨拶を交わすヒカルの顔は明るい。対局前の張り詰めかけていた空気が、彼らのお陰で良い方向に解れて行くのを感じて、ヒカルは心からの笑顔で二人との会話を楽しんだ。 「で、どうだよ今日は」 「うん、予定特にナシ。対局終わったら行くよ、久々の研究会」 和谷の質問に頼もしく答えたヒカルは、目の前の親友の顔が破顔するのを見て自らもにっこり歯を見せた。 「そんじゃ早々と切り上げて来いよ! お前が来るのホント久しぶりだからなあ〜」 「本当に大丈夫か進藤? 無理して予定空けたんじゃ……?」 純粋に喜ぶ和谷の隣で、伊角が穏やかな顔を心配気に曇らせた。伊角らしい気遣いに、ヒカルは彼の不安を取り払うように軽やかに首を振ってみせる。 「大丈夫だって。ホントに何もなかったんだよ」 「本当か? それならいいんだが……」 「伊角さ〜ん、ひょっとして俺に来て欲しくないのかよ〜」 「いや! そんなつもりじゃ!」 はっとして焦り出す伊角を囲み、ヒカルと和谷は声を上げて笑い出した。 気の置けない仲間とのひととき。アキラといる時とは違う形で、ヒカルの心に活力を与えてくれる。 二週間ほど前のことだった。指導碁に向かうため棋院を出たヒカルと、まさにその時棋院に訪れた和谷が久しぶりに顔を合わせたのは。 『おう、進藤! 久しぶり!』 『和谷ー! 元気そうだな〜!』 時折メールでくだらないやり取りを交わしてはいたが、同僚だというのに仕事があまり重なることはなく会う機会が滅多になかった。久々の再会を喜び、お互いほんの少し時間に余裕もあったものだから、エントランス前で軽い立ち話が始まったのだ。 その話の流れで空いているスケジュールを確認し合い、この日の研究会ならヒカルも参加できるかもしれないという結論が出た。それが今日。 ヒカルが仲間内の研究会に参加するのは数カ月振り。恐らく半年は泣く泣く断り続けて来たのではないだろうか――月にたった二回の研究会にどうしても時間を裂くことができず、そんなヒカルの忙しさを知っているからこそ伊角も心配したのだろう。 その忙しさの通り、スケジュールが空いているからと言って予め確保しておくことはできなかった。突発で仕事が入ればそちらを優先せざるを得ないからだ。 そのためヒカルは「多分大丈夫」とだけ和谷に返事をしていた。当日である今日になるまで軽くそわそわしていたのだが、余程不測の事態が起こらない限り、特に横槍が入ることはないだろう。 直接伝えられたのは幸いだった。ヒカルの参加を心から喜んでいる和谷を見ていると、顔が自然と綻ぶ。 場所や参加メンバーについてあれこれ話をした後、和谷が携帯電話の時計を覗いてあ、と声を上げた。 「そろそろ行くか、伊角さん。そんじゃ俺らイベントの打ち合わせだから」 「おー、対局終わったらメール入れるわ」 「勝って来いよ〜」 「当然」 友人の激励に手を上げて応え、ヒカルが軽やかに身体を回転させて目的の方向を見た時。 一瞬、視界が上下に揺れたような気がした。 「……?」 咄嗟に左腕を伸ばして傍の壁に手をついたヒカルは、ぱちぱちと瞬きをして景色を確かめる。 ……何の変哲もない床がどっしりと映っているだけだった。 「進藤?」 背後で様子のおかしいヒカルの気配を感じ取ったのか、和谷と伊角が振り返って声をかけてくる。 ヒカルはやや乱暴に頭を振り上げ、今見えている世界に何の変化もないことを確認すると、ふっと肩の力を抜いて二人に振り向いた。 「何でもない。じゃ、後で」 繕ったなどという意識は微塵もない、自然と出て来た笑顔だった。 対局に向かう道すがら、今日の研究会を約束した日に和谷と話したことについて、ヒカルは静かに思い出していた。 ――なんだよ、お前断ったんだって? 「三年務めた北斗杯じゃん。団長なんていい話だと思うけどなあ」 「バカ、倉田さん今年もムチャクチャ張り切ってんだぞ。俺がほいほい出てったって譲る気ねえって、あの人」 「でもなあ、棋院から話あったのはお前なんだし」 「いんだよ、まだ団長ってガラじゃねえよ」 どこからか聞き付けて来た情報の真偽をヒカル本人に確かめた和谷は、からっとしたヒカルの反応とは裏腹に不満そうな表情を浮かべて腕を組んでみせた。 「だってよ、なんかお前が出てない北斗杯って変な感じすんだよな」 「おい、団長だって対局するわけじゃねえんだぞ」 「そうなんだけどさ、なんつーか……お前らのためにあるような大会だったから」 文句を言う和谷の表情に苦笑いが浮かんだのを見て、ヒカルのからかうようだった笑顔が静かに動きをとめる。 「最後まで出番くれなかったよな」 やや自嘲気味に、しかしさっぱりした控えめな微笑みを見せた和谷に対し、ヒカルも若干瞳を細めながら小さく頷いた。 決して和谷が嫌味で言っているのではないことがよく分かるから、卑屈にならないようもう一度笑おうとして――ヒカルはぽつりと呟いた。 「……だからかも」 「え?」 聞き返す和谷に答えるというよりは、独り言を語るような口調でヒカルは話し始める。 少し考えるような素振りを見せて、僅かに視線を下げながら、ゆっくりと。 「たぶん……、俺じゃないヤツが、あの場所で戦ってんのを見るの……ちょっと悔しい、と思う。もう、あそこで打てないと思うと」 「進藤」 「まだ、若いヤツら抱えて見守るってガラじゃねーよ」 軽く肩を竦めながら、最後は少し戯けた調子で言葉を締めると、和谷はどこかほっとしたように頬を緩めた。 「そっか」 それ以上追求しようとせず、ヒカルの気持ちを察してくれたらしい和谷の表情を見て、ヒカルもまた胸に安堵を感じていた。 関係者ではなく、当事者でいたい――関係者にすらなれなかった和谷の前で告げるには、あまりに贅沢すぎる痛みだろうことは自覚しながら。 そんなヒカルを和谷は誇らし気に眺めてくれている。戦友とは有り難い存在だと、改めて思った。 「北斗杯自体は見に行かないのか?」 「ああ、もうその日予定入ってんだ」 「まじかよ、三ヶ月先まで御苦労だなあ。お前、ホント年中忙しいのな」 予定と言えば自動的に仕事に変換されているらしい和谷に苦笑してみせて、否定も肯定もしなかったあの日―― 和谷に告げた理由は嘘ではない。 確かに「今年の北斗杯で団長をやる気はないか」と棋院側から伺いはあったが、その日のうちに断った。まだ指導側の立場ではない――控え目に笑って頭を下げた。 しかしそれだけではない。人々が北斗杯と聞いてすぐにヒカルやアキラの存在を連想するように、ヒカルもまた胸に甦える想いがある。 五年前、一人になった。 ずっと一緒だと思っていた優しい気配が消えて、それ以来ヒカルはその夜を一人で過ごすことを選んでいた。 毎年北斗杯が開かれた五月五日――悔しい敗北に涙した夜も、ざわめく心に戸惑って悩んだ夜も、ようやく手にした勝利を噛み締めた夜も、未来のために辛い決断を下した夜も。 自然と壁を作っていたのかもしれない。その日だけは特別なのだと。 ヒカル一人しか存在を知らなかった微笑みを、独り占めして浸りたかったのかもしれない。 身体はひとつ、心はふたつ―― 深いところで繋がれていた相手なのだ。家族とも友人とも恋人とも違う、まるでもう一人の自分自身。 大切すぎて、誰とも共有できなかった。ただ一人、目には見えない力に気付いたアキラを除いて…… 『俺の……気持ちの整理がきちんとついたら、あの時いつか話すって言ったこと、全部話すよ。』 ようやく、今の自分を認められるようになった。 今年は、二人で過ごしたい。 甦る時の欠片をひとつひとつ、話して聞かせたい。ヒカルが今まで抱えて来た大切な思い出を、これから先を共に歩く人へ。 だから二人でいたいのだ。 |
わざとらしいくらいに思わせぶりなのは、
いよいよ彼らの物語も終盤に近付いているからです。
このお話も一年以上前から予定していたので、
ここまで来たかあと自分もちょっと感慨深い。