Timepieces






 それから二時間も経った頃だろうか。
 陽が落ち、薄暗くなった窓にカーテンを引こうと寝室へ向かったアキラが見たのは、まだぼんやりした顔ながらも上半身を起こしていたヒカルの姿だった。
「進藤」
 声をかけると、ヒカルがゆっくり振り向く。そして、状況を把握できているのかいないのか、へら、と笑った。
「目が覚めたか? 気分は?」
 尋ねながら近寄り、形式的にヒカルの額に触れ、それから頬に触れた。ヒカルはぱち、ぱちと大きく瞬きをしながら、薄く口唇を開いて「平気」と答えた。
「何があったか思い出せるか? ……ここが何処かは?」
「何となく。頭はすっきりしてるよ……お前んちだ」
「それは良かった。なら、ボクの言いたいことも分かるな?」
 やや口調を強めると、ヒカルは困ったような苦笑いを見せた。
 笑ってごまかすな、とアキラが諌める前に、観念したのかヒカルは降参のポーズよろしく両手を軽く上げる。
「はい。体調管理がなってなくてすいません」
「……こうなる予兆はあったはずだ。ボクは何度もキミに言ったはずだよ」
「はい。分かってます」
「スケジュールが無茶すぎる。休める時にも休まないで……倒れるのは当たり前だろう」
「はい。以後気をつけます」
「……ヒカル」
 茶化すようなヒカルの言葉に、アキラの声のトーンが更に下がった。
 ヒカルは肩を竦め、苦笑の顔はそのままで、それでも真面目な声で「ごめん」と口にした。
「……じっとしてられなかったんだよ」
「……」
「休むの、怖くてさ」
「……うん」
 アキラは先ほどまでヒカルの頬に触れていた手を、寝起きで乱れたヒカルの後ろ髪へ伸ばした。梳くように指を差し入れ、それが心地よいのかうっとり目を伏せるヒカルを見つめながら、諭すように囁きかける。
「……何も焦る必要はないだろう?」
「……ああ」
「キミが不安に思う気持ち……分からなくはないから、強く口出しはしなかった。でも、限界だ。仕事だけじゃない、慣れない家事だって負担になっているだろう。何もかも詰め込むから、身体が悲鳴を上げてる」
 ヒカルの口元が、気まずそうに吊り上がる。バツの悪そうな笑みは、日頃ヒカルから修行の惨状を聞いているアキラには何とも頼り無く見える。
「もし、ご両親の理解が得られないのなら、ボクが」
「それはいい」
 思わず横道に逸れた言葉をばっさり切られ、アキラは思わず片眉を上げた。
 こんなによれよれになっているくせに――言葉は顔に出ただろう。ヒカルも呼応するように渋い表情になる。下口唇を少しだけ突き出すのは、ムキになりかかっている証拠だ。
 アキラは髪を梳いていた手を止め、気持ちを切り替えるようにふっと息をつく。
「……ともかく、キミは少し休むべきだ。取り返しのつかないことになったらどうする? まだ二月だ。この先ずっとこんな調子で無茶を続けたら、……約束の五月には倒れるだけじゃ済まなくなる」
「……」
「時間が足りないのなら、先延ばしにしたっていいんだよ。……五月でなくともボクは」
「五月だ」
 アキラの言葉を遮ったヒカルは、視線は下ろしたままはっきりと告げた。
 アキラは思わず手を下ろす。それと同時にヒカルが静かに顎を持ち上げ、伏せていた視線をアキラへと向けた。
「五月がいいんだ……」
「ヒカル」
「やっと……やっと、ここまで来れたんだよ」
 アキラが下ろした指に、探るように自分の痩せた指を絡ませて、ヒカルは小さく笑って改めてアキラを見つめる。窶れて頬が薄ら痩け、目の下のクマも目立ったが、瞳の輝きは薄闇でも頼もしく光っていた。
 アキラは腰を屈めて、ヒカルと視線の位置を合わせる。そして、ヒカルが絡めた指に左手を重ねて、緩く握り締めた。
「……ボクは、キミが思うよりも……キミのことを理解しているつもりだ」
 アキラの囁きにヒカルが小さく喉を鳴らす。
「キミが何故、五月を指定したのか。眠る間も削って動き続けるのか。どれだけ身体を酷使しても、キミは活き活きしていた……楽しくて仕方がないと言うように」
 ヒカルが何か言おうと口を開きかけた。しかし、それより先にアキラが言葉を続ける。
「待ち遠しいんだろう?」
 確信を持って尋ねられた問いは、ヒカルに息を呑ませたようだった。
 真直ぐにヒカルを見据える。アキラの言葉に反応しながらも、視線を受けるヒカルの瞳もまた真直ぐだった。
 力強さだけではない、優しさも含まれた大人の瞳。今よりずっとあどけなかった頃の無邪気な光を思い出し、アキラは僅かな間追懐に浸った。
「キミが今までボクにくれた言葉――ひとつも忘れていない。だから、キミが選んだ五月に何があるのか、ボクだって気づいている。待ち遠しい気持ちは……ボクも同じだ」
「アキラ……」
「一人で走らないで。ボクはここまで追い付くのもやっとだった。少し……立ち止まってくれないか。」
 静かだけれど、曇りのない声でアキラが告げると、ヒカルの眉尻が僅かに下がった。
 泣くだろうか、とアキラが危惧したのは一瞬だった。ヒカルはアキラに握られた手の中、絡めた指に強く力を込めて来た。
 そして、何かを噛み締めるように目を閉じ、口元に穏やかな微笑を浮かべる。
「……分かった……」
 握り締めたヒカルの指は、熱が通って暖かい。
 アキラもまた微笑み返し、そっと放した手でヒカルの頭を胸に引き寄せた。
「一緒に行こう。焦らないで。どうせ散々遠回りしたんだ」
「ああ」
「足を止めることを怖がらないでいい。ボクらが後ろに下がる道は、もうないんだ」
「ああ」
「たくさん休んで、元気になって、確実に目指せばいい。……そのほうが……」
 ヒカルを抱き寄せていた腕から力を緩め、アキラは覗き込むようにヒカルと目を合わせた。
「きっと喜ぶ」
 主語を省いて呟いた言葉は、ヒカルに確かに伝わったようだった。
 見つめ合う瞳の中、それぞれ胸に刻む時計の針が時を進めて行く。自分のペースで、時に急ぎ、止まり、遅れることもあるけれど、決して後退しない明日への道。
 鼓動にも似た優しい秒針の音色は、きっと相手の耳にも届いているだろう。アキラは大きく頷いたヒカルの笑顔を見て、小さく頷き返した。
 ヒカルが額をアキラの胸に乗せる。その後頭部をあやすように軽く叩いたアキラは、さあ、と声の調子を上げる。
「もう一眠りしたほうがいい。まだ夕方だから。夜になったら家まで送るよ」
 アキラの言葉に、ヒカルははっと顔を上げて窓を振り返った。確かめるまでもない、室内に影を落とす薄暗い空の色に、おおよその時間はすぐに察しただろう。
「マジ!? あ〜、研究会ー! 和谷に謝んねえと〜」
 髪を掻き毟りながら慌てるヒカルにアキラは肩を竦める。
 そういえば、和谷から二通目のメールが来ていたな――ホントに大丈夫かとうるさく念を押して来たメールを無視したままだったことを思い出したアキラは、どうしたものかと思案しながらしれっと言い返した。
「彼も事情は知ってるよ。その場にいたんだから。心配しないで、もう少し寝て」
 倒れた当時の状況を説明するべきか否か。涼しい顔の裏側でヒカルがどんな反応を寄越すか身構えたが、アキラの思惑に反してヒカルの言葉にはまるで緊張感がなかった。
「その前に何か食うもんない? 寝たら腹減った」
 予想外の切り返しにアキラが瞬きすると、丁度良いタイミングで物悲しい音が聴こえて来た。
 両手で髪を掴んだままの格好で、ぴんと伸びたヒカルの腹が鳴いている。その情けない腹の虫に脱力したアキラは、考えるのは後にしようと大きく溜め息をついた。
「スープとお粥を作ってある。軽く食べたらまた寝るんだよ」
「やった、サンキュ! でもお粥かあ〜、もっと腹に溜まるもの……」
「寝直すのに満腹になったら身体に悪いだろう! ……それと、明日は病院に行ってもらう」
「ええっ! でも、明日は取材と打ち合わせ……」
「でもじゃない! 周りに心配をかけた責任は取れ! 万が一疲労以外の原因があったらどうするんだ!」
 大丈夫だ、寝れば治るを連呼するヒカルだが、アキラもここばかりは譲れない。ヒカルをリビングに連れて行くべく手を貸しながらも、しっかり説教は続けた。
 アキラの隣でヒカルがぎゃあぎゃあと騒がしく抗議を続ける。その拙い反論をはね除け、アキラが正論でヒカルをやり込めると元気な病人も悔し気に黙らざるを得なかった。
 リビングの扉を開くと、アキラがつけたままにしていたライトの灯りが二人を優しく出迎えた。


 こうして並んで歩ける喜び。
 一瞬一瞬が眩しくて、細めた目で前を向いた先に続く道程を、支え合いながら進んで行こう。
 立ち向う覚悟はできた。
 後は確実に近付いて行けばいい。その時はもうすぐやって来る。
 一歩ずつ、その時まで。






最初の頃に行き当たりばったりで書いていた
設定がなければこの話もなかったのだと思うと、
偶然と運命は紙一重なのかなあという気がしました。
(BGM:Timepieces/河村隆一)