Timepieces






 注目を集めながらもロビーを横切り、自動ドアから棋院の外へ出たアキラは、だらりとしたヒカルを引き摺りながら目的の場所へ向かっていた。
 恐らく車で来ていると見当はつけていた。ヒカルはいつも同じ場所に愛車を停めている。アキラもすっかり乗り慣れた車体を目指しながら、案の定主の帰りを待っていた見覚えのあるカラーを見つけたところで、二人を追いかけて来たらしい声が背中に届いた。
「おい、塔矢!」
 振り向かずとも誰の声かを悟ったアキラは、小さく舌打ちをする。面倒だ、とは思うものの、この状況は当たり前だ。ヒカルの身を心配して傍で声をかけていた友人を差し置いて、半ば強引に連れ出して来たのだから。
 しかし今は何よりも先にヒカルを休ませなければ――アキラは自分用に受け取っていたヒカルの車の合鍵を取り出し、ロックを外して後部座席にヒカルを押し込む。されるがまま狭い車内に横たわったヒカルだが、その呼吸が寝息そのものであることを確かめて、アキラはほっと息をついた。
 ばん、とドアを閉めたところで振り向けば、和谷と伊角がすぐ目の前に立っていた。
 さあ、どうするか。アキラは動揺を完全に振払い、逆に彼らが怖じ気付くほど潔く二人と対峙した。
「お前、進藤……何処に連れてくんだよ」
 和谷がたじろぎながら、もっともな疑問をぶつけてくる。
 ここで正直に自分のマンションへと伝えれば、後々厄介なことになるだけだろう。瞬時にそう判断したアキラは、何の不自然さもなくさらりと答えた。
「自宅に連れていくよ。ここしばらく、彼はオーバーワーク気味だった。疲労が溜まったんだろう。呼吸も落ち着いているし、病院に急ぐほどじゃない」
 更なる質問を極力潰すような返答は、アキラの思惑通りだったようだ。和谷は言葉に詰まり、助けを求めるように隣の伊角を伺っている。
 伊角も数秒ほどぽかんとしていたが、やがて和谷の懇願に気づいたのか、気を取り直したようにアキラに顔を向けた。
「でも、これ進藤の車だろう。お前が乗っていくのか……?」
「何度か代わりに運転したことがありますので。免許証は携帯しています」
「あ、そうなのか……お前、進藤の自宅は……」
「以前お邪魔しているので道は分かります」
「そ、そうか……」
 きっぱりと返すアキラの口調と、決して柔らかくない視線に気圧されたのか、伊角の語尾が自然と小さくなっていく。その横でやきもきしながら二人の会話を聞いていた和谷は、ついに核心部分に頭を突っ込み始めた。
「じゃなくて! なんでお前、いきなりやってきてフツーに連れてくんだよ! あんまり当たり前にいなくなるからぼけっと見送っちまったけど、おかしいだろ!? 病院は急がないって、そりゃお前の判断だろ!」
 予想はしていた和谷の反論に、アキラは僅かな時間押し黙った。
 和谷からすれば当然の意見のはずだ。和谷はヒカルの恋人がアキラだなどと知る由もないし、親友の危機に突然現れた別の人間が、ひょいといいところを攫って行くとなれば面白くはないだろう。
 ここは慎重に行くべきだと、アキラは言葉を選び始めた。
「……少し前だが。彼のご両親から相談を受けたことがあってね。最近仕事が忙しいようで、体調面が心配だと。過去に仕事をする機会が多かったから、ボクなら何か気づきやすいと思ったんだろう。そんなこともあって、ここしばらく彼の様子に気をつけていたんだよ」
「……相、談……?」
「ああ。これを機会に彼は少し休んだほうがいいと、ご両親にも進言する予定だよ。随分心配されていたようだから」
 今度は和谷が黙る番だった。和谷の知らないところで何かしらやり取りがあったとなれば、迂闊な横槍は入れられまい――アキラの狙いは成功したようだが、すんなり納得した顔にはならず、アキラの眉にも若干の苛立ちが滲み始める。
 こんなところで押し問答を続けている暇はないのだ。いくら命に別状はないと判断しても、ヒカルに早急な休息が必要なのは明らかだった。早く落ち着かせてやりたい――こんな狭い後部座席に転がされているのではなく。
 埒が明かないと悟ったアキラは、手早く胸ポケットからスリムな手帳を取り出し、フリーページにさらさらと何やら書き込んで、顔に似合わない乱暴な仕草でそのページを千切り取った。
 雑な紙切れを差し出された和谷は、戸惑いながらそれを受け取った。
「ボクのメールアドレス。後でそこに連絡してくれ。彼を送り届けたら、キミに状況を説明する。言い合ってる時間が惜しいので、これで」
 一方的に言い放ち、素早く運転席へ回ったアキラは、飛び乗ると同時にエンジンをかけた。慣れた手付きでシートベルトを締めると、すぐ傍にいた二人を気遣うことなくアクセルを踏み込む。
 走り出してしまえば、サイドミラーに映る二人がアキラを追うことは不可能だった。
 随分強引な選択だったが、経過を報告するとなれば多少なりとも納得はしてくれるだろう。電話ではなくメールアドレスにしたのは、声の応酬よりも文字のほうが楽だからだ。そして、時間を拘束される通話と違ってメールは自由が利く。
 両親に無事に引き渡した、後から病院に行く予定のようだと伝えておけば、和谷もそれ以上口出しすることはできないだろう。アキラはそこで和谷への対応について考えることをやめた。
 後は、後ろで眠っている恋人――ヒカルのことだけを考えて、大きく揺れないよう運転に気をつけながら車を走らせた。




 あの人の集まり具合からして、相当派手に倒れたのだろう――そう予想するにはあまりに緊張感がない、ヒカルの寝顔は幾分アキラを脱力させる。
 そう、眠っているのだ。倒れたというよりは、睡眠の不足が限界を訴えて、唐突に眠りに落ちたというほうが正しいのではないだろうか。
 マンションに辿り着いた後、アキラは自ら力を入れてくれない人形のような身体を引き摺って、随分と苦労しながら自室へと運び込んだ。
 これまで意識がある時に何度か抱き上げたことはあるものの、眠っている人間は意外に厄介だ。垂れた手足がまるでアキラに抵抗するように重力に従う。
 それでも一度室内に入ってしまえば、もう人目を気にする必要もなく、アキラは何とかヒカルの身体を抱き上げた。衰えていた腕の筋肉は今やすっかり逞しくなり、決して低くはない身長のヒカルを抱えても頼り無さは感じられない。
 完全に体重を任せているヒカルを寝室に運び、大きなベッドに横たえてやると、安らかな寝顔がようやくしっくりくる状況になった。見下ろしたままふうっとひとつ溜め息をついたアキラは、軽くヒカルの衣服の胸元を緩め、毛布を肩までかけてやる。寝顔が苦しそうではないか、寝息は規則正しいか、念のため脈の速さも確認して。
 自分の言葉通り、病院は急がなくても良さそうだと再認識したアキラは、ヒカルが目覚めた後に胃に優しいものを提供できるよう、そっと寝室を後にした。
 携帯電話に見慣れないメールアドレスからメールが入ったのは、その少し後だった。最初は眉を顰めたものの、すぐに和谷にアドレスを手渡したことを思い出し、アキラは事務的に返信を打つ。

『無事に送り届けた。睡眠不足が祟ったらしい。念のため明日にでも病院に行くと言っていた』

 こう打ったからには、何としても明日ヒカルを病院に行かせるしかないな、とアキラは溜め息ひとつ、携帯電話を閉じた。






多少食べなくても大丈夫だけど、
眠らないと人はもたないなあと思います。
惰眠を貪りたい。