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「和谷ー、昨日悪かったな〜!」
 すれ違い様にぽんと背中を叩き、自分を追い越して足取り軽くエレベーターへ向かう男に、和谷は慌てて声をかけた。
「進藤! お前、昨日よくもさっさと帰りやがったな! ……って、お前……」
 跳ねるように上機嫌で先を進むヒカルを追いかけながら、和谷を叩いた弾みで宙に揺れるヒカルの左手が何やら光を発しているのに気付いた和谷は、訝し気に眉を寄せた。
 追い付いて隣に並び、一緒にエレベーターを待ちながら、和谷は先ほどきらりと光った違和感を確かめるべくヒカルの左手を見下ろす。そうして薬指にはまっているものに軽く目を見開いて、次の瞬間には直接疑問をぶつけていた。
「お前、指輪なんかしてたか?」
「えっ何、和谷気付いたの? お前意外に目敏いなあ〜」
 少し掠れたような声のヒカルはだらんと目尻を下げて、困ったように疑惑の左手をひらひら振ってみせる。
 薬指で、今までは見当たらなかったリングがその存在をしっかりと主張していた。
「そりゃ……気付くだろ。お前、あんまりそういうシンプルなのつけねえじゃん」
「ん〜? そっかもな〜。ま、これはアレだよ、牽制ってやつだよ」
「牽制ぃ?」
 締まりのない顔で不似合いな単語を口にするヒカルへ、和谷は思いっきり胡散臭気に聞き返してやる。
 ヒカルはへらへらと笑いながら、そうそう牽制牽制、と何度か繰り返し、
「なんかさ、そこそこ雑誌とか取り上げられるようになってファンとかついてきたじゃん? 今そーゆーのめんどくさいからさ、あんまり寄って来ないように、牽制」
 何だか偉そうな態度で説明するのだが、その口元がふにゃふにゃと緩んであまり説得力がない。
「……、フーン……」
 すっかり呆れた和谷がやっとそれだけ呟いた時、エレベーターが一階に下りて来た。
 中からは越智と、続いてアキラが現れて、和谷もヒカルもあっと目を留める。
 アキラは軽く和谷に目礼してから、ヒカルに向かって蕩けそうな笑みを見せた。
 ヒカルもまた、アキラを前にして分かりやすすぎるほどぱあっと顔を輝かせた。
「何、お前もう打ち合わせ終わったの?」
「ああ、予定より早かったんだ。これから事務局? 急ぎじゃないならその前に少しつき合わないか? さっき伊藤さんから面白い棋譜をもらったんだ」
「あ、見る見る! 行く行く!」
 エレベーター前で花を巻き散らしたようなはしゃいだ会話を見せびらかし、ヒカルは和谷の隣からアキラの隣へと身を滑らせて、じゃあなと呆気無くエレベーターを後にした。
 二人がいなくなる前に、和谷は素早くアキラの左手にも目を走らせる。
 一緒に暮らしているくせに、棋院で出逢ってまで二人で行動することもないだろう……恐らく和谷も越智も同じことを頭に思い浮かべていただろうが、今更のことなのであえて口には出さない。
 取り残された和谷と越智はしばし無言のままだったが、やがて和谷が渋い表情でぽつりと質問を落とす。
「越智……塔矢の左手、見たか?」
「見たよ。珍しいものつけてるねって声までかけちゃったよ」
「なんて言ってた?」
「牽制だって」
「……」
「……」
 この重い空気から察するに、越智もヒカルの左手薬指をしっかり確認してしまったのだろう。
 ――目敏いな、とは言われたが。正直、彼ら以外の他の男が薬指に指輪をしていようが気にもならないし、そもそも気づかない。
 しかし本人たちは幸か不幸か自覚がないのだ。二人が「そう」なのだということは、実は日本棋院に所属する棋士なら大抵の人間が薄々勘付いているということも、二人の共同生活は、同居ではなく同棲であるということを、知っていながら知らないフリをしている人間がほとんどであるということも。
 つまり、彼らが指輪をして来たということは、「牽制」だなんて生温い意味ではなく……
「あれは『公表』っつーんだよ……」
 うんざりした和谷の呟きに、越智が溜め息で相槌を打つ。


 ヒカルは小さなくしゃみをした。と、その隣でアキラも小さくくしゃみをする。
 顔を見合わせ、目が合うだけで嬉しそうに顔を解す。今はもう、何を見ても何を聞いても嬉しくて幸せでたまらない。
 思わず人目も気にせず手を繋いでしまいたい衝動にかられながら、たとえ実際に繋いでも多少周りを怯えさせるだけでそれほど騒ぎにはならないことを本人たちは知らないまま、小さな束縛に左手を守られて棋院を闊歩して行く。
 秋空を突き破るような季節外れの春の空気が、二人の周りをフワフワと漂って甘酸っぱく弾けた。






あらゆるところに自らツッコミを入れたい感はありますが、
なんかこう意味もなく二人でベタベタしている話は久しぶりなので
とってもとっても楽しくて恥ずかしかったです……!
読んでくださって有難うございました!
(BGM:TWINKLE/河村隆一)