まるで台風のようだった――後にアキラから何度か言われた言葉だった。 ヒカルは転がり込むようにマンションに帰り着き、靴を脱ぎ散らかして騒々しい足音を立てながら廊下を走ってきた。 騒音にアキラは驚いた顔で振り返り、息を切らせてリビングに現れたヒカルをまじまじと見つめた。 「……おかえり。どうしたんだ? そんなに急ぐことないだろう?」 テーブルにすっかり並んだいつもよりちょっと豪華な食事をバックに、アキラは呆れたような声で告げた。 確かに時刻はもうすぐ午後九時近く、今日と言う日は三時間以上も残っているのだから、大人の二人にとってはいくら記念日とはいえまだ焦る時間ではないだろう。 しかしヒカルにとっては大仕事を終えた後――シャッターが閉まる寸前の店に突撃し、焦る気持ちそのままに包装も袋もいらないと既製の箱に入っただけの指輪を受け取って、興奮冷めやらぬ状態でマンションまでの帰路を急いだのだ。 指輪さえ無事に受け取れば、後は慌てる必要なんか少しもないはずなのに、気持ちがどんどん先走ってどうしようもなかった。 早くアキラに逢いたかったのだ。逢って、思い切った贈り物を早く渡したかった。 その勢いのまま、ヒカルはずっと右手に握り締めていた小さな箱を突き出すようにアキラの前へと差し出した。気の利いた言葉ひとつ思い浮かばず、ただ無言でぶっきらぼうに。 アキラは不思議そうに瞬きし、差し出されたものを受け取ろうとして――その形状に心当たりがあったのか、はっとして伸ばしかけた手を空中で止めた。 その反応がどくんとヒカルの胸を打つ。 「……、これ……」 アキラは小さく呟き、微かに眉を寄せて箱を見つめてから、きっと顎を上げてヒカルを見据えた。 「……ちょっと、待ってて。すぐ戻る」 それだけ言うと、アキラはヒカルの横を擦り抜けて足早にリビングを出て行った。 ヒカルは箱を突き出した格好のまま、ぽかんとアキラの後ろ姿を見送る。 (えっと……、この反応、なんだ……?) 予想外のアキラの行動をどう受け取るべきか困っていたが、アキラは言葉通りものの数分もしないうちに戻って来た。どうやら自分の部屋から何かを持って来たらしい。 ヒカルはアキラが手にしているものを見て目を丸くした。綺麗にラッピングされてリボンもついているけれど、その手のひらの上の小さな箱のサイズは――ヒカルが今持っているものとほぼ同じ。 ヒカルは改めてアキラを見た。アキラも驚きの顔から苦笑いへと表情を変えて、ヒカルを見ている。 「……中身はひょっとして同じものだろうか……?」 独り言のように呟きながら、アキラもまた静かに箱をヒカルへ差し出した。 ヒカルは右手を突き出したまま、恐る恐る左手を伸ばす。アキラの手から箱を受け取った瞬間、アキラも同じようにヒカルの手から箱を取った。 二人は小さな箱を交換し、まるで初めてキスした日のように慎ましく顔を赤らめて、相手から渡されたものを見下ろした。 数分はそうしていたのではないだろうか。中に何が入っているかの察しはついている。それなのに、いざ開封する前のこの焦れったい空気をもう少し楽しんでいたいような気もする。 やがて、アキラが躊躇いがちに口を開いた。 「……開けても、いい?」 「う、うん」 その声が合図となり、ヒカルも包装に手をかける。綺麗なラッピングだが、急いで開こうとしたので少し破けてしまった。ヒカルが渡した箱には何の包装もされていないから、急がなければアキラが先に中を見てしまうから。 焦るヒカルを気遣って、アキラは箱のフタに手をかけたままヒカルも同じ状態になるのを待っていてくれる。ようやく包装紙を取り払い、フタを開ける前にちらりと目を見合わせて――照れくさそうに目元を緩めてから、えいと同時に開いてみた。 ヒカルが目にしたのは、少し太めのストレートラインが美しい、そして極々小さな青い石がちょこんと埋め込まれたシンプルかつ個性的なリングだった。 指輪を見て、すぐにアキラに目を向けた。するとアキラもヒカルと同じように紅潮した頬で、指輪に向けていた視線をヒカルへ向ける。 「……驚いた……、ひょっとして、ボクが用意していたのに気づいていたのか……?」 信じられないといった調子で尋ねて来るアキラの目がキラキラ輝いていて、ヒカルは胸がぎゅうっと疼くのを感じた。 「知らなかったよ……、気づいてなかった。お前も、今日に合わせて……?」 ヒカルの問いかけに、アキラは苦く笑みを見せてゆっくり首を横に振った。 「……もっと前だよ。キミの誕生日プレゼントとして用意していた」 「えっ……」 「こういうのはあまり好きじゃないのかと思って、怖じ気づいて渡せなかったけどね」 あ、とヒカルは口を押さえる。 ――間違いない。あの、テレビを見ていた時の発言を気にしたのだろう。 確かにあの日は誕生日の数日前だった。恐らく、あの時に指輪は注文済みか、すでにアキラの手元にあったのだろう。 それなのにヒカルは指輪なんてと馬鹿にしてしまった。アキラの顔が強張った理由がはっきり分かり、思わず顎を引いて上目遣いになる。 「す、好きじゃない訳じゃなかったんだよ。深い意味、なかったし」 「うん。でも、躊躇してしまった」 アキラは軽く眉を垂らしながらも、優しい眼差しで指輪を見下ろした。 「渡せないままずっとしまっておくしかないのかと思っていたけど、……まさかキミまで用意してくれているなんて。一体どうして?」 疑問口調のくせに、やけに嬉しそうに聞くアキラを見ているとどんどん恥ずかしさが込み上げて来て、ヒカルは顔を逸らしながらぼそりと呟いた。 「牽制」 「え?」 「……牽制だよ。お前、モテるくせにぼけっとしてるから……心配なんだよ」 早口でそこまで言うと、アキラが何か言葉を挟まないうちに、決心が揺らがないうちにヒカルは一気に続きを口にした。 「だから、それつけて俺のもんになっとけ」 自分で言っておきながらあまりにクサイ台詞に俯いてしまうと、指輪の箱を包んだままの手にアキラが優しく触れてきた。 ちらとだけ黒目を向けて様子を伺えば、目眩がしそうなほど綺麗な微笑みを浮かべたアキラが目尻を下げてヒカルを見つめている。 思わず身体がフラついたヒカルの手を軽く握り、アキラは低く囁いた。 「これ……キミがつけて?」 腰から力が抜けそうな低音を受け、思わず足を踏ん張ったヒカルはすぐに返事が出来なかった。 アキラは箱から取り出した指輪を摘んで、顔に近付けて間近で眺めてから、ふと優雅に顔を綻ばせた。 その理由に心当たりがあって、ヒカルの顔の赤みが増す。 H to A――はっきり名前を伝えるのは流石に躊躇って、イニシャルだけでごまかした。 だけどこうして文字を彫ってもらうと、この指輪が本当に誓いの指輪のようでたまらなく気持ちが盛り上がった。 アキラは見愡れるような笑みのまま、そっとヒカルへ指輪を差し出す。 ヒカルは指輪を受け取ろうとして、自分の指先が少しだけ震えていることに気がついた。 小さなリングを摘み、もう片方の手でアキラの手を取って、そっと薬指にはめてみる。ほとんどないと思っていた節で軽く引っ掛かった時はサイズが小さかったかとドキッとしたが、持ち上げるようにして指輪を進めるとすんなりと付け根に落ちた。 アキラは手の甲側から指輪を眺め、嬉しそうに微笑した。 すらりと伸びた薬指に、控えめなウェーブのラインはとても際立って見えた。 ヒカルも一緒になってアキラの指で輝く指輪に見蕩れていると、アキラはヒカルが手にしたままの指輪をちらりと見つめ、それからヒカルへ促すような視線を送って来た。 ヒカルはごくんと唾液を飲み込み、アキラからもらった指輪を取り出す。手渡す前にふと気になって、指輪の裏側を覗いてみた。 とても小さくて見落としそうになったが、確かに刻まれたA to Hの文字――驚いて顔を上げると、はにかんだアキラが軽く首を傾げていた。 「考えることは同じみたいだね」 その口調がやたらと嬉しそうで、あんまりあからさまで、名前・to・名前は一般的だって言ってたぞなんて茶化すことさえ恥ずかしくなってしまう。 ヒカルも笑ってしまいそうな口元を緩めながら、アキラからもらった指輪をつけてもらうべく差し出した。 リングを受け取ったアキラは、ヒカルの左手を取り薬指へそっと潜らせていく。 ――なんだか、結婚式のようだ――リビングのドアの傍に突っ立ったまま、ロマンチックなシチュエーションなど何もないのに、二人を包む空気には確かに普段と違う色がついている。 アキラの手ではめられた指輪は、やはりほんの少しだけ節で引っ掛かったけれど、微かに上下させて通過した後はぴったり付け根に収まった。 ヒカルもまた、アキラと同じように手の甲を自分に向けて、薬指で輝く指輪を見つめる。 やや節が目立つ指に、シャープなラインが合っているような気がする。何より、さりげなく光る青い小さな石がアクセントになって、堅苦しすぎないのが自分らしい。 「これ、石入ってる……」 「サファイアだよ。キミの誕生石だ」 「バカ、お前、すげえ高いの買ったんじゃねえのか?」 「それはこっちの台詞だよ。凄く質がいい……無理したんじゃないのか?」 お互いの顔と指輪を交互に見ながら、つい値段に関する野暮な方向へ話題が転がったのは、きっと照れ隠しだったからだろう。 指輪をもらってこんなに喜ぶなんて、考えていなかった――渡すことばかりで頭がいっぱいになって、最初は「恥ずかしい」だの「男同士だし」だの否定的なばかりだったくせに、いざ指につけた時にこれほど感動するものだったなんて。 俺のもんになっとけ、なんて言って指輪をつけさせたのだから、アキラの手で指輪をはめてもらった自分もまたアキラのものだということだ。 小さいけれどはっきりとした束縛の形が、不思議と胸をときめかせて息が苦しいくらい。 やがて隠しようもないほど顔を真っ赤にして嬉しそうに微笑み合った二人は、そろそろと腕を伸ばして緩やかに抱き合った。 「な、なんか、すげえ照れる。指輪、つけただけなのに」 「ボクも……凄く嬉しい。キミが指輪を贈ってくれるなんて。サイズ、ぴったりだ」 「そうだ、お前、なんで俺のサイズ知ってるんだよ」 「キミは一度寝たら朝まで目を覚まさないから。調べるのは楽だったよ」 「マジかよ〜……」 肌を擦り寄せ、もじもじ身体を揺らしながら、こつんと額をぶつけた後、触れ合うだけのキスをした。 口唇の柔らかさが余計に恥ずかしさを助長させて、もうお互い見ていられないほどにやけた顔で、今度は深く口付ける。 口唇が離れた後も、薄ら開いた目でうっとりと見つめ合い、何度も何度もキスをした。 キスの合間に、呼吸が上がって来るのを感じながら、切れ切れの言葉を交わす。 「お前……なんで、指輪、くれようとしたの……?」 「……キミと似た理由だよ。キミはボクに自覚がないと言うけど、それはお互い様だ……」 「そんなこと、ねえよ……」 「あるよ……。でもね、ホントは……単純に、憧れていただけかもしれない……」 「指輪に……?」 「うん……。……キミの、薬指を独占することに……」 「……、お前、バカだろ……」 せっかくアキラが用意した夕食も、すっかり二人の頭から消え去っていた。 なんだか初めての夜みたいだ――そんなことを思いながら、甘ったるくて優しすぎる闇の中へ身も心も落ちて行く。 声が枯れるほど燃え上がった夜は久しぶりだった。 |