昼の打ちかけ、他の棋士が読みかけのまま休憩所に置いて行った週間碁を手にとったヒカルは、あぐらを掻きながら気のない素振りでちらりと一面に目を向けた。 大きなフォントで強調された良く知る人物の名前を、細めた目で上からなぞるように見つめる。飽くまでさり気なく、たとえその名前に比べてごく小さなフォントで記された名前の持ち主――自分が敗北した一局の記事だなどと周りに悟られることのないくらいの穏やかな目で。 「あれ? お前今日ここで食ったの?」 ふと頭の上から声がして、見上げれば和谷がヒカルの持つ週間碁を覗き込むような格好で背後に立っていた。 「和谷は外?」 「ああ、気分転換。珍しいな、出前取るの」 「今日は外出んの面倒でさ。午後から長くかかりそうなんだ」 和谷が尋ねた通り、テーブルに置いたヒカルの肘の傍には空っぽの丼に箸が乗っていた。 まだ休憩時間は二十分ほど残っている。 残りの時間をヒカルと話すことで潰そうと決めたのか、和谷はそのままヒカルの隣にあぐらを掻いた。 そしてヒカルが手にしている記事を改めて見て、面白くなさそうに下口唇を尖らせる。 「マジで復活しやがったな。ちえ、せっかくの新しい国際棋戦だったのによ」 不満げな和谷の言葉にヒカルは苦笑し、記事に踊る名前を見つめる。 代表・塔矢アキラ――年明けに中国で行われる国際棋戦の代表の一人に選ばれたことを讃える記事だった。 「ったくよー、先週、俺はお前を応援してたんだぞ」 「俺だって俺を応援してたよ」 ヒカルのやり返しに和谷は肩を竦める。 ABCと三つに分かれたトーナメント、先週行われたBブロックの最終戦でアキラと当たったヒカルは、二目半の差をつけられて代表の座を譲ることになってしまった。 トーナメントが開始されたのは三月。ギリギリだった、とヒカルは微笑を浮かべる。不調の波を潜り抜けるようにして対局予定が組まれていたのも幸いだった。 より強い棋士と当たるようになる九月頃、アキラは完全に元の力を取り戻した。取り戻しただけではない。彼なりに出した答えが、確かにアキラに以前よりずっと大きな力を与えていた。 「不調のままでいてくれたらこっちも楽だったのによ。復活した途端バカスカ勝ち抜いて行きやがる」 「ああ、ムカつくヤローだ」 「……なんだよ、嬉しそうな顔しやがって」 呆れた顔を見せる和谷に、ヒカルはにっと笑って返事の代わりにした。笑顔を隠さないヒカルに、しょうがねえなと和谷も苦笑いを零す。 ――和谷だって、本心からの言葉じゃないくせに。 ヒカルはひしひしと実感していた。棋界が、塔矢アキラの復活を待っていた。長いスランプから抜けた直後の一局、あの勝利は本物であるかと多くの目が彼を射抜いたのだ。 それらの目にアキラはしっかりと応えた。 まぐれ勝ちと言わせない力強さ。以前よりも更に一手一手を丁寧に運ぶ細やかさも加わり、勢いづいているだなどという単純な言葉だけではアキラの前進を表すことはできない。 ぼうっとしていたらまた先へ先へ、背中を見せられてしまう――ヒカルは軽く目を伏せ、睫毛の下でブラウンの瞳を静かに光らせた。 ――行くさ、どこまでも。 俺もお前も腹は据わってんだ。 そうそうデカい顔させやしないからな―― 記事を元のテーブルの上に戻したヒカルは、両手で軽く頬を叩いて立ち上がる。 後半戦に向けて気合を入れたヒカルの目は、遠い未来を見つめていた。 *** 「おー、じゃ、来週な。バイバイ」 ピ、と携帯電話の通話を切ったヒカルは、その隣に座っていたアキラに顔を向けて「聴こえた?」と尋ねた。 「全部聴こえたよ。相変わらず社は声が大きいな」 アキラの苦笑にヒカルも頷く。 「便利だよな。スピーカー状態」 「案外確信犯じゃないのか?」 今頃くしゃみしているかもね、と続けたアキラにヒカルは楽しそうに笑って、肩にとんと頭を乗せた。 「というわけで、来週はアイツん家泊まり決定ね。久々だよな、俺ら一緒に集まんの」 アキラはゆっくり腕を持ち上げ、肩にさらりと流れた髪を慈しむように指先で掬ってから、優しくヒカルの頭を撫でた。 「そうだな。……北斗杯以来かな」 「ああ。……今度はゆっくり話せるな」 「そうだね……」 二人の身体がぴったりと収まるクリーム色のラブソファで、静かに身を寄せ合うリビング。 テレビもコンポも消された室内はシンとしていたが、落ち着いた暖かい空気が流れていた。 アキラが一人暮らしをしているマンションに、ヒカルはしょっちゅう出入りをしている。来年一緒に暮らそうと約束して以来、ヒカルに割り当てる予定の部屋には着々と彼の私物が運び込まれつつあった。 と言ってもせいぜい本や少しの着替え程度で、本格的な家具などは何もない。それでも、ヒカルの頭の中ではすでに持ち込む予定の荷物の配置が決まりつつあるようだった。 『母さんがうるさくってさあ』 少し前、ヒカルは渋い表情でそう言っていた。 来年になったら家を出たいという話はしたらしい。不安そうな顔をしていた彼の母は、転がり先がアキラの元であることを聞かされた途端にその不安をはっきり色濃くさせたようだった。 『どうせ迷惑しかかけないってさ。まー、ぼちぼち説得するわ』 何だか諦めたような顔をしながら、それでもヒカルはきちんと話し合うつもりらしい。理解してもらいたい、と真っ直ぐな目をしたヒカルに、もしもこじれるようなら自分も挨拶に行くからとアキラが告げると、ヒカルは頼もしく笑ってくれた。 『大丈夫だって。今、とりあえず自炊の訓練受けてんだ。人並みの家事をクリアしたら、文句言わせねーから』 ……それはつまり、現時点では人並みレベルにも達していないということだろうかと若干アキラは不安になったが、ヒカルの笑顔に何となくごまかされた。 訓練の成果を見せると言われてその後何度も酷い目には遭ったが、前向きな姿勢は母親にも伝わっているはずとヒカルは自信満々である。その自信が、アキラからするとあまりに根拠がなさすぎて心配は尽きないのだが。 そんな、未来に向けての計画を発進させながらの日常。明日は珍しく二人とも午前中がオフだったため、束の間の休息を二人で過ごすべく、二週間ぶりにヒカルが泊まりに来ていた。 来週、関西棋院主催のイベントが大阪で開かれる。そこにいわばゲストという形で招かれることになった二人は、どうせならと大阪の社に連絡を取ったところだった。 四月から一人暮らしを始めた社のアパートならば、特に気兼ねがなくて良い。つい数ヶ月前までどん底にいたアキラのことを、そしてヒカルのことを心配してくれていた社と、ゆっくり話す機会が持てるのも二人にとっては嬉しいことだった。 「楽しみだな。俺、アイツん家行くの初めて」 「実家にならお邪魔したことがあるんだが。彼の家はボクも初めてだ」 「それどころじゃなかったもんな?」 「……意地悪だ、キミは」 アキラの肩に頭をつけたまま、上目遣いに悪戯っぽい笑みを見せたヒカルは、そのまま首を伸ばしてアキラの口唇に軽く口付けた。 そして身体にバネを仕込んだかのようにぴょんとソファから飛び降りて、大きく背伸びをしてからアキラを振り返った。 「んじゃ、寝る前に一局。やりますか」 「了解」 目を細めたアキラは、穏やかに微笑み返した。 |
今回は社一家+アキヒカですが、本編の続きなので
社家がメインという感じではなくなりました。
オリキャラ設定が苦手な方は3〜4話あたりを
飛ばしていただければなんとか読めるんではないかと。
そしていい加減な国際棋戦の設定とか毎度毎度すいません……