熱い日差しが傾きつつある夕刻、手合いと検討を終えて帰路につこうとしていたヒカルは、一階に着いたエレベーターの扉が開いた時、視界に映った後ろ姿に声をかけた。 「塔矢!」 顎のラインで切り揃えられた黒髪が揺れ、アキラが振り向く。 自分を呼んだのがヒカルと分かると、アキラは対局中にはまず見せることのない穏やかな目で笑った。 「進藤」 「何? お前今帰り?」 小走りにアキラの元へ近寄り、アキラの様子がすっかり帰り支度を整えていることを確認して尋ねた。 「ああ。キミも? この後の予定は?」 「俺は帰るだけ」 「なら、碁会所に寄っていかないか。先週キミが高崎六段に勝ったっていう一局、見せて欲しい」 「ん、いいよ」 ヒカルの言葉ににっこり笑うアキラの表情は、一歩間違えるとだらしがないほどに破顔している。そんな分かりやすいアキラの顔を見て、ヒカルも少し照れ臭い。 ――コイツ、自覚ないんだろうなあ。 囲碁界のプリンスと謳われる塔矢アキラ。先月昇段を果たし、現在は四段となった。囲碁の実力もさることながら、物腰柔らかく容姿も端麗とあって、若手棋士のアイドル的存在である。 一方囲碁界の異端児、進藤ヒカルも今月ようやく昇段し、長い長い初段時代にやっとピリオドを打つことができた。が、実はとっくに昇段点をクリアしていたにも関わらず、自力で昇段点を計算するのを放っておき、本来の昇段確定時期より一月以上経ってから友人の和谷に初段が長過ぎることを指摘され、そこでようやく昇段できることが発覚したというおまけつきであった。 『お前なあ、待ち望んだ昇段なんだから、もっとしっかり計算しておけよ!』 和谷の言うことはもっともである。 自分で計算して自己申告なんて面倒臭い。性格に全くキメ細やかさがないヒカルにとっては少々やっかいな昇段システムだが、そのことをアキラに告げると彼は呆れたようにため息をつき、 『キミらしいというかなんと言うか……。分かった、キミの次の昇段が近くなったらボクが声をかけるから。大手合の結果はボクにも報告すること』 なんて約束までさせられた。 うるせー、と悪態をついたヒカルだったが、内心有難いと思っていたのも事実である。それだけヒカル自身も、次の昇段を自力で計算できる自信がなかったのだ。 とまあ、話は逸れたが、そんな二人の関係はというと、自他共に認めるライバルであり、あまり他人には知られていないが親しい友人であり、それどころか恋人未満とも言える、かもしれない。 未満、というのは、現在アキラが一方的にヒカルに想いを寄せている状態であり、しかしヒカルもまんざらではないという中途半端な関係のためだ。 勿論ヒカル自身、望んでこんな中途半端を続けているわけではない。自分の気持ちに素直でいたら、今の状況になっただけなのだ。 アキラのことは嫌いではないが、そういう対象として見るとやはり違和感がある。そのくせ、アキラに抱き締められたりキスされたりするのは平気。寧ろキモチイイとさえ思ってしまうような危うさもあり、なんとも矛盾しているのはよく分かっている。 しかしあれこれ考えて自分の気持ちにわざわざ名前をつけるのが面倒になったヒカルは、あえて今のままを選択した。 ――なるようになれ。 ヒカルらしいといえばらしい決断である。 そんな訳で、二人は友達にしては親しく、恋人にしては淡白に日々の付き合いを重ねている。それでもアキラには満足らしく、今のようにヒカルと一緒に碁会所に行くというだけであまりに分かりやすく喜ぶものだから、 ――コイツ、自覚ないんだろうなあ。 となるわけである。 幸いにも二人のそんな関係に周囲は一切気づいていないようなので、アキラがいかに自覚のない表情をしようとヒカルが照れ臭くなる程度で済む。 ヒカルとしても、ちょっとしたことですぐ怒るアキラの顔を見ているよりは、こんなふうにカワイイとさえ表現できるような笑顔のほうが安心する。アキラの逆鱗に触れると、この柔らかな表情が一気に般若に変わるのだから恐ろしい。 ヒカルはそんなことを考えながらも、こうしてアキラと笑い合っての帰り道は楽しかった。仲良く連れ立って碁会所へと向かうつもりだったのだが、最寄の駅に着く前に、ヒカルの目がふいに何かを捕らえる。 「進藤?」 急に立ち止まったヒカルに、アキラもその視線の先を追った。 「浴衣着てる」 ヒカルの呟き通り、そこに見えたのは浴衣を来た女性二人連れだった。アキラは一瞬、浴衣姿の女性にヒカルが見惚れたのかとムッとした様子だったが、すぐに誤解は解けることとなった。 「そうか、神社! お祭りだ!」 ヒカルはそう言って、輝く目でアキラを振り返る。 「塔矢、行こう!」 「え? ど、どこに?」 「もー、今言ったじゃん、お祭り! 縁日!」 ヒカルは迷わずアキラの腕を掴み、引っ張って走っていく。 「ちょっと、おい、進藤、碁会所は、」 「そんなのいつでもいいだろ? お祭りなんて久しぶりなんだから、デートしようぜ」 「デ……!?」 振り返らなくても、絶句したアキラが首まで真っ赤に染まっているだろうことは分かる。 こんな冗談は残酷なのかもしれない。だがヒカルは、本当にデート気分でもいいや、なんて思っていた。――恋人じゃなくてもデートくらい誰でもするさ――案の定、アキラはデートという単語ひとつで大人しくヒカルについてくる。 祭りの音が近づいてきた。 大分薄暗くなってきたとはいえ、まだ少し提灯の灯りがグレイがかった青い空に浮いて見える。 神社の鳥居を潜ってから境内に向かうまでの道の両脇には、色とりどりの旗がはためく露店が並び、呼び込みの声が飛び交う独特の匂いが立ち込めていた。 まさにこれから混み時らしく、ヒカルとアキラの後ろから横から次々に人々がやってくる。学生グループ、肩車をした親子、カップル、様々な笑顔が露店に並んでいた。 「賑やかだね」 アキラは人込みに圧倒されている様子で、瞬きを繰り返す目には明らかな狼狽が見られた。 「それがいいんじゃん」 ヒカルはアキラに目配せして、いざ人の中へと入っていった。アキラも慌てて後を追ってくる。 「進藤、待ってくれ」 「はぐれんなよ? はぐれたら見つけるの大変だから」 ヒカルは後ろを振り返り振り返り前に進む。アキラも必死でヒカルの傍から離れまいとついてくる。 そんなアキラの様子がおかしくて、ヒカルは振り向いては何度も笑った。アキラはむくれながら、それでも少し笑い返して、やっぱりヒカルの後をぴったりついてくる。 「あっ、たこ焼き食べたい」 ヒカルが立ち止まったたこ焼き屋、アキラは不思議そうに店の様子を眺めている。 鉄板に流し込まれる液体、ネギやタコが紅生姜が散りばめられ、焼きあがったものからくるくると丸められていく様を、物珍しげに覗きこむアキラ。そんなアキラに微笑みながら、ヒカルは財布を取り出した。 「おじさん、二箱ちょーだい」 「あいよ」 店主は手際よく、鉄板から焼きあがったたこ焼きを串でひょいひょいと指していく。アキラはそれをたこ焼きのように丸くした目で穴が開くほど見つめていた。 ヒカルは受け取ったたこ焼きのうち一箱をアキラに渡す。 「ほら」 「あ、……ありがとう」 たこ焼きを受け取ったままぼんやりしているアキラの袖を引き、ヒカルは人込みの少ない露店の隙間へと潜りこんでいった。 目を白黒させているアキラを引っ張って茂みに座らせ、ヒカルもその隣に腰をおろした。早速買ったばかりのたこ焼きを開いて、ひとつ口に放り込む。 「あっつ!」 噛んで解れたたこ焼きの生地の中央は、熱い溶岩のように口内を焼いた。ヒカルは目尻に薄ら涙を溜めながら、それでも美味しそうにもぐもぐと口を動かす。 ごくりと飲み込んで、深く熱い息をついた。 「うめ〜。上手だな、あのおじさん」 もう一個、と爪楊枝を持ち直すが、横でぽかんとしたままのアキラに気づいてヒカルは眉を寄せた。 「なんだよお前、食べないの? 冷めちゃうぞ」 「あ、う、うん……ちょっとびっくりして」 「びっくり? 何が?」 「これ、ああやって作るものなんだ。作ってるところ初めて見たから」 「まじで?」 アキラは頷く。異世界のものを見るようにまじまじと丸いたこ焼きを見つめる様子が、なんだかミスマッチで可笑しかった。 「手際よく作るんだね。あんな丸い鉄板でくるくる回して」 「俺、昔友達ん家で作ったことあるぜ。丸くすんのが結構難しいんだ〜。さ、食えよ」 ヒカルに促され、アキラもようやくたこ焼きをひとつ口に入れた。想像以上に熱かったのか、アキラはぎゅっと目を瞑って口唇の隙間から細く息を吸い込んだ。ヒカルは少し笑う。 「塔矢ってお祭り初めて?」 苦しそうに息をつくアキラの横で、大分熱さに慣れたヒカルが次々にたこ焼きを頬張りながら尋ねる。アキラは少しだけ涙目でヒカルに軽く首を振ってみせた。 「本当に小さい頃に、一度来た記憶がある。父と母に連れられて」 「小学生くらい?」 「それよりもっと前かな。ボクがあまり興味を示さなかったせいか、その一度だけで終わってしまったけど」 「お前、人込み苦手そうだもんな」 ヒカルはあっという間にたこ焼きを平らげた。アキラもゆっくりながら、ひとつひとつたこ焼きを口に入れる。ヒカルは見慣れない「たこ焼きを食べる塔矢アキラ」の姿が面白くて、じいっとアキラを見つめていた。 「うまい?」 視線に気づいたアキラが、少し恥ずかしそうに目を逸らす。喉が大きく上下して、一息ついてから口を開いた。 「美味しいよ。正直、こんなに美味しいと思わなかった」 「だろ? お祭りで食べるのってみんなうまいんだって」 「違うよ、キミが買ってくれたから」 「え?」 「キミがいるからだよ」 目の前でストレートにそんなことを言うアキラの前で、吹き出すのを堪えたヒカルは今飲み込んだたこ焼きが逆流するのを抑えなければならなかった。 ヒカルに引っ張られて乱れていたアキラのペースが戻ってきたようだ。素知らぬフリでたこ焼きを食べ続けるアキラの横で、今度はヒカルが赤くなる。 ――全く、恥ずかしいヤツ。 これだけのざわめき、他の人間に会話を聞かれることがないからいいようなものの、いつでもどこでもマイペースで愛を告白されてはヒカルの心臓がもたない。 ちらりと横目でヒカルを見たアキラは、ヒカルの表情を見てしてやったりと微笑む。 (ちえ、アワアワしてたのは最初だけかよ) 狼狽えながらヒカルの後をついてくる様子が面白かったのだが、どうやらその姿はもう拝むことができないようだ。 アキラはたこ焼きを食べ終わり、ごちそうさま、とヒカルに律儀に頭を下げる。ヒカルもどういたしまして、と頭を下げ返して、 「よし、次だ!」 元気良く立ち上がった。 「次? 次はどこに?」 「どこでもいーよ。うまいもん見つけたら食う!」 分かりやすいヒカルの言葉に、アキラは優しく苦笑する。 「了解。付き合うよ」 一時間も過ぎた頃にとっぷり日は暮れて、夜空にぼんやり光る提灯も来たばかりの頃より存在感を増した。 ヒカルはまだまだ増える人込みの中、先程と同じくアキラが傍にいるか振り返りながら歩いていく。 焼き鳥、イカ焼き、お好み焼き。熱気にあてられたらカキ氷。ヒカルはレモンで、アキラはブルーハワイ。お互いの舌が原色に染まるのを見て笑い合った。 デザート代わりにクレープ、ヒカルは生クリームとチョコレートがたっぷり入ったバナナのクレープを、アキラはウインナーの入った甘くないものを。りんご飴は大きくて食べ切れなさそうだからやめておいた。 「こんなにいろんなもの食べたの初めてだ」 目を回しながらもアキラは笑顔だった。 「たまにはこういうのもいーだろ?」 ヒカルも年齢より幾分子供っぽい笑顔を全快にする。 綿飴を見てアキラが立ち止まった。 「ボク、これ食べたことある」 「わたあめ?」 「昔父に買ってもらった」 アキラが言っていた小さな頃のたった一度きりの縁日で、父である行洋からふわふわする甘いものを買ってもらったのだ。 若かりし頃の行洋に手を引かれ、可愛らしい浴衣姿のアキラがわたあめを持つ姿が目に浮かぶ。 「ふわふわして本当の綿みたいだろう? それが不思議で、これだけは強請ったんだ。口に入れたら溶けて、でも甘くて、本当に不思議だった」 「へえ。そういえば、俺も小さい頃はよく食べたなあ」 ヒカルは綿飴をひとつ買った。袋の柄は昔懐かしい戦隊もの。 「一人だと甘くて食べきれないから、半分こな」 千切った綿飴をアキラに渡すと、それは嬉しそうに、でも少し照れくさそうに、アキラは鮮やかに笑った。 「――懐かしいね」 「うん、懐かしい味」 口の中で溶けて広がる甘い味。 アキラの黒髪に透ける提灯の灯り、いつしか空には黄金に輝く月が浮かんでいる。行き交う人々、都会の喧騒とは違う雑多なざわめき、何故か胸が躍るように震えている。 食べてばかりで腹もきつくなってきたので、ヒカルは射的に挑戦した。倒れたのは小さな熊のマスコットがついたキーホルダー。 舌打ちするヒカルの隣で、アキラが構えた銃が放った弾は、ラジコンのスポーツカーを見事に倒す。 「まじで〜? お前すげーな。いいな〜」 キーホルダーを振り回すヒカルに、アキラはラジコンの入った袋を渡した。 「いいよ、あげる」 「いいの? これ滅多にとれねーぜ?」 「いいんだ、どうせまぐれ当たりだし。ボクは興味ないから」 「……じゃあもらう」 本当はヒカルも車のおもちゃには卒業しつつあったのだが、アキラが仕留めた大物を遠慮なくもらうことにした。 「その代わり、これボクにくれる?」 アキラはヒカルが振り回していたキーホルダーを指差す。 お前、ホントバカだろ。ヒカルは笑いながら小さな熊をアキラの手のひらに乗せた。 |
ようやくアキヒカチックに。
昇段システムは知人に教えてもらい、
ヒカル絶対計算後回しにしてそうとか思いました。
お祭りに関しては記憶と想像をフルに。
棋院と神社の位置関係なんか全然気にしない。
※追記:昇段システムについて
なんか調べたら現在の制度は違うみたいです……
情報が古くてすいません……