うたかた






 人の動きは波のように勢いを増してくる。
「急に人が増えた気がしないか?」
 アキラは熱気のせいか、額に浮かんだ汗を指先で拭き取る。
「みんな広場のほうに向かってるみたいだけど」
 ヒカルは人の流れの方向を目で確かめながら、その行き先に何があるのか伸び上がってみたが、人の頭ばかりでその先の景色は到底見えなかった。
「俺らも行ってみる?」
「何かあるのか?」
「分かんないけど」
 皆が行っているのだ、悪いことがある訳ではないだろう。そう判断したヒカルとアキラは、あらゆる方向から流れて来る人の波の一番大きな流れに合流しようとした。  とはいえ、切れ間なく押し寄せる人のうねりは思いのほか自由を奪い、大人たちより頭ひとつ小さいヒカルは自分がどの方向に向かっているのかさえ一瞬分からなくなる。
(塔矢)
 アキラを目印にしようと振り返り、後ろ、左右、首を全て回して、――アキラの姿が見えないことに気がついた。

(塔矢?)

「塔矢」
 呟きは人込みに掻き消され、余韻さえ残らない。
 自分の声さえも耳に届かない、人々の空気で閉ざされた空間のど真ん中で。
「塔矢」
 もう少し大きな声で呼んでみても、ヒカルの声は他人の肌に飲み込まれていく。
(どこにいった?)
 さっきまですぐ傍にあった存在が、ほんの一瞬で消えてしまった。
 熱を感じるくらいの距離にいたはずなのに。
(消えて――)
 ほんの一瞬。
 いなくなったことにすぐには気づかないくらいの瞬間で。
 さっきまで交わしていた言葉も、微笑みも、奪っていったのは僅かな時間。
 当たり前の日常が、突然変化する心の風穴。

「……さい」

 囁きは呆気なく闇に紛れて。






 粟立った腕がふいに強く掴まれた。
「進藤!」
 凛と響く声の元に少し乱暴に引き寄せられ、ヒカルの身体は簡単に飛び込んでいく。
 勢いあまって顔を突っ込んだ暖かい場所から、ヒカルの好きなアキラのニオイがした。
「よかった、急に見えなくなるから心配した。大丈夫か?」
「……塔矢」
 ヒカルの声は夢でも見ているみたいにふわふわしていた。
 時間にしたらほんの数十秒。あれだけの人込み、はぐれるのは珍しいことじゃない。
 ただ、アキラが離れた瞬間、ヒカルはたった一人になったのだ。
 人々の笑い声が響きあう騒がしい空間で、耳が痛いほどの静寂に包まれたのだ。
「進藤……?」
 ヒカルの様子を不審に思ったアキラが優しく名前を呼ぶ。
 ヒカルはアキラの胸におでこをつけたまま、軽く首を横に振った。
「なんでもない。いなくなってびっくりした」
「うん、見失ってごめん。さっき近くに居た人が話してたのが聞こえたんだ、広場で花火が上がるって。行こう、進藤」
 アキラはそのままヒカルの左手のひらをぐっと握り締めた。さすがにヒカルも慌てる。
「おい、こんな人の多いとこで」
「この人込みじゃ誰も分からないよ」
 そう言ってふわりと笑ったアキラの顔が、提灯の灯りに照らされてほんのり赤く輝いていた。眩しさにヒカルは目を細める。
 繋がれた手を解くことなく、二人は人の波の中を広場へ向かって歩き始めた。
 人の壁に流されそうになっても、きつく繋いだ指がお互いを引き戻す。
 それぞれの世界で生きている人々の海の中からヒカルを見つけ出したアキラ。アキラは手の力を緩めない。
 アキラがヒカルの手を引き、ヒカルはアキラの背中を追った。
 さっきまでと逆の景色に、ヒカルが少し寂しそうに笑う。
 でも、繋いだ手のひらから伝わるアキラの熱はとても優しい。



 広場では、中央を囲むように大きな輪の人集りができていた。
 アキラが腕の時計を確認する。
「もうすぐ八時だ。ちょうどに始まるのかな」
 輪の中に立ち止まっても、二人は手を繋いだままだった。ヒカルは少しだけ周囲からの視線がないかと見回したのだが、誰一人、手を繋ぐ二人を気にする様子は見られない。
 アキラは夜空を見つめている。その横顔がとてもキレイだと思う。迷いがなくて真っ直ぐで、いつも黒曜石みたいな瞳をヒカルに向けて目を逸らさない。
 そうか、とヒカルは瞬きを繰り返す。いつも一生懸命なアキラに自分は甘えているのだ。
 どんなにヒカルが我儘を言っても、理不尽な態度をとっても、いつもアキラは追いかけてきてくれた。どこに居ても見つけ出してくれた。そうして捕まえられた。
 もし、アキラがヒカルから離れるようなことがあっても、自分はアキラを追いかけていけるだろうか。
 繋いだ手のひらの隙間は、お互い少し汗ばんでしっとり熱い。
 この手を離さずにいられるだろうか。
 この手をいつまでも繋いでいてくれるだろうか。
 自分がいつまで待たせても、アキラは待っていてくれるだろうか。
(でも今はまだ)
 遠い世界に消えた人の面影が心の奥底に棲みついている――
「進藤」
 アキラの声に弾かれて、ヒカルも天を睨んだ。
 光の龍が空を駆け上り、手の届かないところで鮮やかに花を広げる。
 空は白々と染まった。
 腹の底に響く音が、全身を震わせる。
 沸き起こる歓声。
 漆黒の空に次々に華が開く。身体を揺らす強い音。煌きながら消えていく光の粒は、夜空に飲み込まれて儚い煙に変わる。
 目を閉じる間もなく、華は空に咲き続けた。
 ヒカルはアキラの横顔を見た。花火の光で照らされた頬がぴかぴかと色を変える。その目は真っ直ぐに空を射抜き、やがて視線に気付いたのかヒカルを振り向いた。
 ――きれいだね
 口唇はそう動いたような気がした。
 キレイなのはアキラだ、とヒカルは思った。揺ぎ無い瞳。優しい眼差し。
 ヒカルは答えずに、繋いだ手に力を込めた。アキラの目が少し細くなる。
 アキラの指が強くヒカルの指に絡みつき、力強く握り返してきた。
 ヒカルは目を閉じる。
 瞼の裏に透ける夜空の光。

 ――この手を離したくない。

 この手を離さずにいられたら。
 緩やかに、だけど急速に変わりつつあるこの心が、アキラの元まで届くことができたら。
 それまで待っていてほしい。
 いつも待たせてばかりだけれど。
 でも……

『待つよ』

 ――俺はまた、こうしてお前に甘えて時を過ごすのか。


「進藤、ラストだ」
 アキラの声に導かれて開いた瞼の先に、昼と見紛うような眩しい白色の空が広がっていた。
 七色の光に包まれた世界で、ヒカルは眩しさに眩暈を覚える。
 鮮やかで力強い、まるで誰かのように。
 きつく繋がれた指はそのまま。熱く湿った手のひらを重ねたまま。
 ヒカルは祈りにも似た気持ちで夢の後の黒い空を見つめていた。




 ――今日は楽しかった。
 笑い合う二人の目に、淀みはなかった。






無自覚の自覚というか。
じりじり前進しつつ後退を繰り返して、
いろんなことは時間が解決してくれるかも。
夏の夜は何となく夢見がちになりますね。
(BGM:うたかた/河村隆一)