Welcome to the twilight






 一晩中降り続いた雪はほんのり地面を覆い、街を歩く人々の息は白い。棋院を目指す青年の背中も自然と丸くなっていた。
「おはようございます、白川先生」
 背後にかけられた声に白川は振り向き、穏やかに微笑を作った。
「篠田先生、おはようございます」
「今朝も冷えますね」
「起きるのが辛かったですよ」
 談笑を風に乗せて二人は並んで歩く。
 暖冬と呼ばれる今年の冬だが、肩を竦めて歩く人々の姿は例年通りである。メガネの二人は棋院に到着したと共に、曇ったメガネを外してレンズを拭いた。
「白川先生の今日のお相手は?」
 靴を脱ぎながら尋ねる篠田に、白川は少し笑顔を引き締める。
「進藤くんです。」
「へえ、進藤くん」
 篠田が少し眉を持ち上げた。
「確か森下先生の研究会でご一緒されてるのでは?」
「ええ、よく打ちますよ。なかなかコワイ存在です。」
 白川の笑顔に誇張や揶揄は見られない。
 篠田もその笑顔の意味が分かるらしく、二度三度黙って頷いた。
「彼は……何というか落ち着いてきましたね。落ち着く、と表現して良いかはわからないですが」
 白川も頷き返した。
「そうですね、落ち着いてきた。去年の北斗杯が終了した頃からでしょうか? 碁も安定してきて……例えるなら」
「例えるなら?」
「おかしな表現ですが、……家庭を持ったような落ち着き方ですかね。」
 白川の目が冗談っぽく歪み、篠田は思わず声を出して笑う。
「そうだ、そうですね。よく分かる。確かにそんな感じかもしれない」
 よく分かると言いながら、笑うのをやめない篠田と、一緒になって白川も笑った。
 進藤ヒカルに対する評価として、「落ち着いた」なんて言葉そのものが可笑しかったのかもしれない。何しろ十六歳の青年というよりは少年に近い、性格も発言もまだまだ子供っぽい彼に使う言葉としては。
 一度碁から離れ、復活を遂げてからのヒカルの戦績は目覚しく、今では立派な若手棋士の代表格である。塔矢アキラのライバルであるという噂も、ほとんどの人間が疑わないようになっていた。
 外見は遊び盛りの学生のようだが、碁盤を前にすると雰囲気は一変する。穏やかな目の奥に鋭い炎が燃えるその様は、高段者が持つ場数の差までも時に越えてゆく。
 しかし碁盤から離れれば彼はごく普通の青年で、その人懐こさから年齢に関係なく可愛がられていた。
「そうそう、北斗杯と言えばもうすぐ今年の予選が始まりますね。今年は誰が選ばれますかね」
「塔矢くんのシードは決定しているんでしたよね? 去年同様に進藤くんと社くんが出てくるか、それとも他の選手が出てくるか、楽しみですね」
 二人は互いの手合いの検討を祈り、それぞれの碁盤の前に向かった。
 すでに碁盤の前に座っていたヒカルの向かいに、白川が腰を下ろす。
「おはようございます」
「おはよう、進藤くん」
 白川は目の前の対局者を正面から見つめた。
 真直ぐに白川を見つめ返す大きな瞳は実に澄んでいて、そのせいか読めない表情を作り出している。
 白川は気を引き締める。序盤でヒカルのペースに引き込まれたら、後半で巻き返すのは難しい。
 穏やかな表情、眠れる若獅子。そんな表現がぴったりだと白川は思う。ならばその獅子が目を覚ます前に叩かねば。
 そうそう簡単に道は明け渡さない――白川の静かな微笑を、ヒカルは黙って受け止めた。



 ***



「どうだ、塔矢!」
 ヒカルの前に並んだ五つの碁盤、どれもキレイに一目勝ちである。
「もう多少のハンデもらったくらいじゃ相手になりませんねぇ」
 ヒカルに向かって右から二番目の碁盤の前に座っていた広瀬が、額の汗を拭きながら笑う。終局間際に覗き込んできた市河も、うんうんと頷いた。
「進藤くん、どんどん目算上手になってくるわね。やっぱりアキラくんが五人の中に入らないと駄目ね」
「若先生が相手だったら、今度は進藤がハンデもらわねぇとやってられないだろ」
 茶々を入れる北島は一番左端に座っている。市河がもう、と北島を嗜めた。
 そんな光景にすっかり慣れてしまっているのか、ヒカルは特に気にした様子もなく、再度「どうだ?」と自分の隣で一部始終を見下ろしていたアキラに尋ねた。
「まあまあかな。ここのツギは疑問手だったけど」
 アキラは目の前の碁盤を指差し、ヒカルが中盤に打った一手を指摘した。
「ここより右辺が先だったんじゃないか?」
「そうかあ? でもそうしたら……」
 二人が話し込み始め、やれやれと大人たちは退散を決める。
 以前に比べれば子供っぽい言い争いは減ったものの、彼ら二人が突き詰めようとする道を理解するのは素人では難しいし、何よりこうして検討を始めた二人には外野の声など届かない。
 五面打ちの賑やかな雰囲気は終わりを告げ、親父達はめいめいの相手を探してそれぞれの碁盤に戻っていく。
 後はプロ同士の時間。ヒカルとアキラはその後しばらく五面打ちの検討を続け、ひと段落ついたところで互戦を始めた。
 ヒカルが白、アキラが黒。碁盤を挟んで向かい合い、頭を下げる。
「お願いします」
「お願いします」
 すでに日常の風景の一部と言っても良かった。




「おーい、進藤」
 エレベーターに乗り込もうとして呼び止められ、ヒカルは開いた扉をキープしておくために下に向かうボタンを押したまま振り向いた。
 走ってくる和谷に軽く手を振り返し、ヒカルはジェスチャーで和谷にエレベーターに乗るかどうかを尋ねた。首を横に振る和谷を見て、ヒカルはボタンから手を離す。扉の閉まったエレベーターはすぐに下に呼ばれて行ってしまった。
「和谷、お前も取材?」
「ああ。進藤は終わったのか?」
「俺はさっき終わった。和谷はこれから?」
 和谷は頷く。そして時計をちらっと見た。
「あとちょっとで取材だからすぐ行くけど。お前、今度の日曜ヒマ? メールしようかと思ったけどお前の姿見えたからさ。」
「日曜? ……たぶん何もなかったと思うけど。なんかあんの?」
「ちょっとさ、お前に会いたいって人がいてさ、……やべ、時間もうすぐだ。続きメールするわ。とりあえず日曜空けとけ!」
 言いたいことだけ言った和谷は、さっさと今来た道を戻っていった。
「なんだアイツ」
 取り残されたヒカルはぱちぱちと瞬きして、改めてエレベーターの下ボタンを押す。
 ヒカルが先ほどまで受けていた、そして和谷がこれから受ける取材は、北斗杯の予選を前にしての意気込みについてだった。取材と言ってもほんの一言二言が記事に載る程度だからそれほど時間はかからない。
 二回目となる北斗杯の出場三枠、一枠はすでに塔矢アキラのシードが決定している。過去一年間の実績と、前大会での二連勝という成績に、文句をつける人間はいないだろう。
 残り二枠を十八歳以下の棋士たちが争うわけだが、同じく前大会で善戦した進藤ヒカルと社清春については、予選シード枠が用意されていた。
 つまり、彼ら三名以外の棋士たちで予選を勝ち抜き、選出された二名と、進藤・社の二名がそれぞれ予選決勝を争うのである。
 和谷はその三名以外の一棋士として予選に臨む。全大会で越智に敗れた雪辱を果たすべく、日々精進を重ねる彼は、ヒカルより一足先に三段に昇段していた。
 その和谷を前回破った越智は、社に破れて選手の権利を逃した。越智もまた、北斗杯出場という悲願を達成させようと予選対策に余念がないようだ。
 和谷や越智だけではない、十八歳以下の若手たちは大舞台のチャンスに意気込んでいる。
 若手といえば、塔矢、進藤、社。その名に並び、追い越さんと切磋琢磨を重ねる棋士たちは、それぞれが野心を抱いて碁盤に向かっていた。
 今回は半ば迎え撃つ形となったが、ヒカルも挑戦者の一人であることに変わりはない。
 ヒカルとて、去年の北斗杯の内容に満足していた訳ではなかった。何としても二度目の出場を果たし、前回の自分自身を越えていかなくてはならない。碁石を持つ指にも自然と気合がこもる。
 去年の北斗杯頃からぽつぽつと通い始めた塔矢元名人経営の碁会所に、年明け以降もヒカルはちょくちょく顔を出していた。
 もちろん事前に碁会所へ行くことをアキラに伝えてあるので、常にアキラもいる。誕生日の日に成り行きで行った多面打ちを何度かやらされた後、アキラと打つ。そして検討。ある意味、二人専用の研究会と言えなくもなかった。
 そんな生活が珍しくなくなっていたここ数ヶ月、思えば棋院の外で和谷や伊角とあまり打っていないな、とヒカルは思い出す。
 上記のやりとりの後に、和谷から届いたメールはこうだった。

『さっきの続き。俺が最近よく行く碁会所のマスターがお前のファンでさ。今度つれてこいってうるさいから、日曜いいだろ?』

 ヒカルはほとんど考える間を置かずに返信した。

 ――いいよ。でもどうせ行くなら和谷とも打ちてえな。
 ――当たり前だろー。伊角さんも誘ってみる。じゃあ日曜にな!

「塔矢んとこ以外の碁会所行くの久しぶりだなあ」
 口に出して、そういえば河合のいる碁会所にもしばらく行っていないと気づく。
 今度塔矢を連れて来いって言われてたっけ……ヒカルは似たような境遇の和谷の心境を察して苦笑した。
「北斗杯の予選が無事終わったら、行こうかな」
 もちろん、「無事に」とは出場を決めてという意味だ。
 その時は、仕方ないからアキラも連れて。
 穏やかな笑顔のアキラを思い浮かべる。
 ヒカルの口元からふいに笑みが消えた。



 ――なんで俺、あの時アイツにキスしたんだろう。







ここからヒカルの混乱期に入ります。
少ししんどい話が続くかも。