Welcome to the twilight






 待ち合わせの場所にはすでに和谷と伊角が揃っていて、五分遅刻のヒカルに手を振っていた。
「遅ぇぞ、進藤!」
「ちょっと遅れるってメール入れたじゃん」
 悪びれないヒカルに和谷は殴るフリをしてみせて、その横で伊角が穏やかに笑っていた。
 この三人で並ぶのも久しぶりだ。ヒカルは頭一つ高い伊角を見上げ、自分と同じような身長の和谷を見て、そして笑った。
 最近は何かというとアキラと行動することが多く、特に和谷や伊角と連れ立って碁会所なんて院生時代以来である。
 行ったことのない碁会所も楽しみだったが、この二人と打てるのもヒカルには楽しみだった。
「進藤プロ、いらっしゃい! 伊角プロまで!」
 和谷の先導で訪れた碁会所では、恰幅の良い主人が両腕を広げてヒカルたちを迎えてくれた。
 和谷を振り返ると、案の定面白くない顔をしている。ヒカルは河合のいる碁会所にアキラを連れて行った時を想像し、きっと同じような顔になるんだろうなあと苦笑した。
「やーやー、進藤プロのご活躍は拝見してますよ! ささ、狭いとこですが座って座って!」
「あ、どーも」
 ここまであからさまに大歓迎されると、ヒカルとしても悪い気はしない。頭を掻きながら差し出された椅子に腰を下ろし、もらったお茶を偉そうにすすってみる。
「ちえ、だから連れてくんの嫌だって言ったのに」
 すねた和谷を伊角が宥め、じゃあ打とうか、という話になった。
「進藤プロ、是非一局!」
「いや、わしと!」
「私も一局お願いします!」
 どうやら主人以外にもこの碁会所でのヒカル人気は及んでいるらしく、次々に手が上がる。ヒカルはその勢いに圧倒されながらも、満更でもない表情でまあまあと手を振った。
「一人ずつだとあんまり相手できないから、多面打ちしませんか。俺五、六人くらいなら全然いけますから」
「多面打ち! そりゃいい!」
 わっと盛り上がる碁会所で、早速多面打ちのセッティングが開始される。ヒカルや和谷、伊角も手伝いながら、五面打ち用に広げたテーブルが三台、それぞれ五つの碁盤が並び、合計十五台の碁盤が用意された。
「進藤、なんで三セットも作るんだよ」
「決まってんだろ、和谷や伊角さんも多面打ちやるんだよ」
「俺らも!?」
「そ。でもって、全員持碁にする」
「全員持碁ぉ!?」
 あんぐり口を開ける和谷と伊角をさあさあと促し、ヒカルは五つの碁盤の前に立った。
「さあ、五人どうぞ」
 碁会所は一気に熱を帯びる。



 碁会所オヤジたちは食いつきが良かった。……そして諦めが悪かった。
「もう一局!」
 何度繰り返しても結果は同じだが、ヒカルも少々くたびれながら笑顔でつきあった。
 最初は全員持碁。次は全員早碁で中押し。一目勝ち、二目負け。
 碁盤はあっという間にヒカルの思惑通りの図を描く。
 三戦ほどして休憩を取った和谷と伊角も、その様子に圧倒されていた。
「……進藤、お前どこでこんなの覚えたんだ?」
 和谷は五つの碁盤を凝視している。
 和谷は一戦目で目算を誤り、一人に一目負けした。伊角は十秒碁に十二秒かけた一手があった。残りを達成したとはいえ、五面打ちを三戦もすれば頭はへとへとだ。
 それなのに、ヒカルはすでに五戦を終え、今また六戦目をねだられている。そして一度もミスはない。飄々とした態度からも手慣れた様子が伺えた。
「ん、よく碁会所でやってんだ。と……」
 塔矢、と言いかけて口を噤む。
「碁会所って、前にお前が院生の時に行ってた?」
「え? ……うん、まあ、そう。」
 和谷は不自然なヒカルの言葉に気がつかなかったようだ。
 何となく、アキラの話を出すのが躊躇われた。
 恐らく棋院内で、ヒカルとアキラがプライベートでも頻繁に会っていることを知っている人間はほとんどいないだろう。緒方や芦原などは碁会所の市河から話を聞いているかもしれないが、それでも一緒にディズニーランドに行くような仲だとは思っていまい。
 アキラと親しくしていることを話してしまうと、余計なことまでうっかり喋ってしまいそうで不安だったのだ。例えば、……キスをしたとか。
「進藤プロ、もう一局!」
 碁会所の主人が粘り強く迫ってくるが、ヒカルの疲労もそろそろ無視できないものになっていた。
「じゃあ、次で最後。いいですか?」
 最後と聞いて、我も我もと碁盤の前に集まり始めた。
 人数が絞れず、頑としてどかなかった七名分、ヒカルも初の七面打ちが展開されることとなった。




 ラストはラストらしく華やかに、全員を中押しで。
 ヒカルはリクエスト通り、七人の侍たちに一人で立ち向かった。
 とはいえ、一応はプロだ。ただの滅多打ちにしては芸がない。指導碁とまではいかないが、それなりに彼らに対局の意義を感じてもらうべく、ヒカルは一手一手に集中した。
 右端の人は地が甘い。もう少し模様を広げて……
 ――しかし右辺の並びは上々だ。そこを活かすようにもう少しうまく先導できないのか?
(……うるせぇな、そんなの分かってるよ。そっちは後から手を入れようと思ってんだよ)
 右から三番目の人は石が途切れ途切れだ。もう少しつなげるように……
 ――そこに打つよりもこっちに打つほうが効果的だ。全体を良く見ろ、彼の手筋は大体読めた頃だろう?
(もー、それも分かってるってば! ハイハイ、若先生のおっしゃる通りですよ。でもお前の思い通りになんかしてやんないもんね)
 ――なんだその言い草は! キミは人の話を聞いているのか!?
(聞いてるって、ほら、こっちの碁盤はどうだよ?)
 ――……それはなかなかいい展開だ。彼の突飛な一手をうまく修正できている。
(だろ? 俺だってやるときゃやるんだぜ)
 ――……そんなことはキミに言われなくてもボクが一番よく知ってる。
「ありません!」
 ヒカルははっと顔を上げた。
 目の前で頭を下げるその人が七人目の敗者であることに、すぐには気づかなかった。
「いやあ、お見事進藤プロ!」
「さすがですな。我々なんぞに打ちやすいように工夫してくださって……」
 ヒカルは七つの碁盤を見る。どれもヒカルの中押し勝ち。
 思うとおりの盤面が七つ並んだ様は、ヒカルに碁打ちの自分を改めて実感させるに充分だった。
(どうだ? 塔――)
 ヒカルは振り返り、……その場所にただの空を認めて、そして凍りついた。
「すげぇな、進藤。お前これ六局目なのによく集中力が――、……進藤?」
 和谷の手が肩にかけられ、ヒカルはびくりと首を戻した。
「進藤?」
 伊角が不審げに声をかける。
 口唇を薄く開いて、瞳に広がる深い湖は底が知れない。ヒカルはネジの切れたゼンマイ仕掛けの玩具みたいに、瞬きひとつしなかった。

 ……これは覚えのある虚しさだ。
 ……以前にも、こんなことが……あった。
 ……以前と違うのは、……違うのは、……

「進藤!」
 和谷の怒鳴り声で再び覚醒する。
 ヒカルは瞬きで乾いた目が貼りつくような感覚を覚えた。
「進藤、大丈夫か? 何ぼーっとしてんだよ」
「あ、ああ……。和谷?」
「お前大丈夫かあ?」
 ここはどこだ。目の前にいるのは和谷。ヒカルは記憶を巡らせて、遠くに飛ばしかけた心を引っ張り戻す。
 ここは碁会所。和谷に連れられて、伊角とやってきた。
 ……そうだ、今、七面打ちが終わったんだ……
「……大丈夫。俺、ちょっと疲れたみたい」
「だよなあ。あれだけ連続で打ちゃ誰だって疲れるぜ」
「和谷、お前と打つの今度でもいい? ……伊角さんも」
「しょうがねぇな。今度絶対だぜ」
 腕組みをしてむくれる和谷は、表情ほどは怒っていない口調で答える。伊角もこの次は打とうな、と優しく微笑んでくれた。
 碁会所のマスターは感激しきりで、ひたすらヒカルにお礼を述べてくれた。店に来ていた客たち総出でヒカルたちの帰宅を見送ってくれた。

 心は嵐の真っ只中。

 つ、と背中を汗が滑り落ちた。
 ――混ぜっかえすな、俺!
 いつかの自分の警告は、このためだったのだ。
 心に直接語りかける声。
 自分にしか聞こえない声。
 大切な存在。
「……!」
 ヒカルは口を覆った。
 ひょっとしたら、自分はとんでもないことをしていたのではないだろうか。
 「彼」に対して、とんでもない役割を押し付けようとしていたのではないだろうか。
「……ダメだろ……」
 そんなのダメだ。また同じ間違いを繰り返す。
 こんなのはダメだ。どうしてもっと早く気づかなかった。
「ダメだ……」
 呟きに応えてくれるものは何もない。
 ヒカルはただ、同じ言葉を繰り返した。いつしか耳から拾うその音は脳を支配し、心の中に絶対的な地を確保し始める。

 ――ダメ。

 警告はすでに命令に変わっていた。







ちょっとややこしいというか、
ヒカルが一人でドツボにハマりました。
普段難しく考えない人がいきなり難しいことを考えると、
答えも難しくないといけないと思い込んで、
難しい努力をしようと勘違いするかもしれません。
(BGM:Welcome to the twilight/BOΦWY)