私を独りにしないでね






「ああ、和谷くんちょっと」
 棋院の事務所に出向いていた和谷が用事を済ませて扉へ向かおうと歩き出した時、少し離れた場所から坂巻に手招きされた。
 ハイ、と返事をして小走りに近づいた和谷に、坂巻は来週行われるイベント要項が記された書類を手渡す。それは何故か二部あった。
「君の分と、あとこっちは進藤君に渡してくれないかね。なかなか掴まらないもんでね」
「いいっすけど、俺も全然アイツと会ってないっすよ。渡すの当日になるかも……」
「この際当日でも構わんが、彼には初日に挨拶してもらうから、それだけでも伝えておいてくれ。なるべく真面目な挨拶を考えておくように、とね」
 含みのある坂巻の言葉に和谷は苦笑し、伝えときます、と肩を竦めたその時。
 和谷の頭の上にぽんと大きな手のひらが乗せられた。
「なーんか引っかかる言い方じゃないすか、坂巻さん?」
 坂巻は和谷の背後に目を向け、和谷は頭を押さえられたまま上を見上げた。
「進藤」
「進藤君」
 和谷よりも頭ひとつ分高いところから、ヒカルがにっこり笑って二人を見下ろしていた。
 しばらくぼうっとヒカルを見上げていた和谷だが、ふと我に返ってヒカルの手を頭から振り払う。
「お前な、上から押さえつけんのやめろっつったろ! ったく、ちょっとデカくなったからって偉そうに」
「あ〜わりわり、よく見えなくてさ〜」
「進藤!」
 事務所内で大声を出してふざけあう二人を前に、坂巻はごほんとわざとらしい咳をしてみせた。途端に肩を竦めた二人はスイマセン、と謝罪をする。
 ヒカルは改めて和谷の手から件の書類を受け取り、坂巻に確認するようにひらひらと振ってみせた。
「確かに受け取りました。坂巻さんが心配しなくてもちゃんとした挨拶しますよ〜ビシッとね!」
 坂巻のこめかみがぴく、と動いた。
「……進藤君。君は若いが今回のイベント参加者では唯一のタイトルホルダーだ。いいかね、王座としての自覚と威厳を持って……」
「タイトルホルダーの名に恥じない行動を取るように、でしょ。分かってますよ〜」
 へらへらと悪びれないヒカルの前で、坂巻の肩が小刻みに揺れ始める。
 まずい、と和谷がヒカルの腕を引っ張った。そろそろ退散しなくては――後退りかけたその時、充電完了の坂巻から雷が放出された。
「だったらスポンサーの名前くらい正確に覚えておきなさい!!」
「しし失礼します〜!」
 ヒカルは和谷に引きずられながら事務所を飛び出した。背中にはまだ怒号が届いていたが、どうせこれまで何度も言われてきたことと同じ内容だろう。よくもまあしつこく同じことを言い続けられるものだと、悪びれないヒカルは遠くなった事務所のドアを振り返ってべっと舌を出す。
 静かな廊下でヒカルと和谷の二人はふうと呼吸を整え、顔を見合わせて笑った。
「久しぶり」
「おう」
 会話の通り、二人が会うのは実に一ヶ月ぶりだった。
 コンスタントに対局や仕事をこなす和谷に対し、昨年王座のタイトルを手にしたヒカルは連日分刻みのスケジュールに追われている。やれ地方だ、やれ取材だと走り回り、数年前までは参加できていたいくつかの研究会にも滅多に顔を出せなくなっていた。
 来週行われるイベントは久しぶりに兄貴分の和谷と一緒で、ヒカルとしても楽しみにしていた仕事だった。
 再三事務局から書類を取りに来いと言われては居たがなかなか都合がつかず、棋院に来ても仕事に集中しているうちにすっかり失念したりしていて、ようやく今日、帰るために乗り込んだエレベーターの中でふいに思い出して慌てて事務所に顔を出したところだった。すると何度も携帯電話の留守番電話に伝言を残していた坂巻が和谷に書類を渡しているのが見えたと言う訳だ。
 書類の話も挨拶の話も伝言で事前に聞かされている。それなのにわざわざ和谷にまで伝言を託すあたり、とことん信用されていないなとヒカルは苦笑した。
「しかし、坂巻さんもしつこいよなあ〜派手にやったのはあの一回だけなのにさあ」
「棋戦のスポンサー名間違えるバカがどこにいるんだよ。あんだけ人集まってたのによ。お前、あれで伝説になったぞ」
「王座剥奪されなくて良かったあ」
「されてもおかしくない雰囲気だったけどな」
 和谷と並んで歩きながら、久しぶりにそんな他愛のない会話を交わす。しかし出会った頃とは違って、今はヒカルが上から和谷を見下ろし、和谷は渋々ヒカルを見上げなければならなかった。
 ここ五年ばかりでヒカルの身長は急激に伸び、かつて兄のように慕っていた連中をことごとく追い抜かすことになってしまった。現在178センチ。二十二歳になった今も、まだ伸びているような気がするから恐れ入る。
 和谷はヒカルを下からねめつけ、下口唇を尖らせる。
「それにしても図体ばっかデカくなりやがって。昔はこーんなチビだったくせによ」
 下に向けた手のひらを胸の高さで振る和谷に、ヒカルはにっと笑う。
「和谷は全っ然伸びなかったけどな」
「んだと。俺だって伸びてるよ。お前みたいに無駄に肉になってねえんだ」
「ふーん、へーえ」
「あ〜っ、ムカツクっ!」
 むかつくと口では言いながらも、和谷はどこか嬉しそうにヒカルに殴りかかるフリをした。
 こんなふうにじゃれあうのも久しぶりで、もう十年近い付き合いである二人にとっては子供に返ることができる貴重な時間だ。楽しくないはずがなかった。
「この前も久しぶりに伊角さんと一緒になったんだけどさ、俺伊角さんよりデカくなってんだぜ。あの人高校ん時から伸びてねえんだってさ」
「あー、はいはい、おめでとうございます。それにしてもお前、身体はデカくなってもホント落ち着きねえなあ。もっとぴしっとしとけよ。来月いよいよ帰ってくんだろ? ライバル様がよう」
 和谷の言葉にヒカルはぴた、とからかい混じりの笑顔を凍らせ、それからぐるりと上向きに弧を描いた目線が和谷から和谷から逸れたかと思うと、どこかはにかむように緩めた口元から「うん」と小さな相槌を漏らした。
 反応はささやかだが、その表情から醸し出されるヒカルの無邪気な嬉しさを感じ取った和谷は、何処か呆れたように、それでいて感慨深気な苦笑いを見せた。
「五年ぶりだもんな。楽しみだよな」
「……ああ」
 ヒカルは思わず笑ってしまう顔を両手で押さえながら、言葉少なに頷く。そして締まりのない顔を隠すべく、和谷に少しだけ背を向けた。
 ダメだ。この話題になると顔が緩んでしまって仕方ない――ヒカルはごまかしきれない喜びを何とか最小限に押さえようと必死で頬を伸ばしてみるが、無駄な努力だった。
 だって嬉しくてどうしようもないのだ。
 来月、アキラが帰ってくる。五年前韓国に渡り、一時的に韓国棋院に所属していた塔矢アキラの凱旋帰国――ヒカルが待ちに待ったライバルとの再会だった。





二十二歳の設定ですが、それにしちゃヒカルが幼いです……
(もっと大人の設定をご希望されていたんですが諸事情で……!
ラストの後書きでまたちょっと解説という名の言い訳します)
前作(MISTY〜)の反動のように書いたお話です。