私を独りにしないでね






 五年前、十七歳のアキラは日本棋院から特別な許可をもらい、五年の期限を条件に韓国へいわば留学のような形で渡航した。留学と言っても、滞在期間は仮ながら韓国棋院の棋士として所属し、棋戦にも参加を許されるという破格の待遇を受けていた。
 父親である塔矢行洋の勧めがきっかけだったというアキラの韓国留学は実りが多かったようで、その活躍ぶりは常時日本の棋界にも伝わってきていた。韓国棋院主催の十段戦、高永夏と繰り広げられた決戦の棋譜は、ヒカルも身震いするほどの素晴らしい内容に仕上がっていた。
 アキラの韓国行きが決定した当時、突然の決断に日本の棋界全体が騒然となったものだった。
 無理もない、その頃のアキラは十七歳にしてトップ棋士の一人と評価が高く、これからの棋界をリードする担い手としての期待を一心に背負っていた。そのアキラが五年もの間韓国へ行くとなると、日本の囲碁界はどうなるのかとファンからも問い合わせがあったほどだ。
 ヒカルも例に漏れず、初めは何かの冗談かと疑い、本当のことだと知らされた後は驚きを通り越して怒りさえ感じた。
 ヒカルとアキラの二人は、北斗杯などの活躍を経てリーグ戦にも常連になりつつあり、セットで龍虎と称されることも少なくなかった。これからの日本の囲碁は二人の手にかかっている、などと肩を叩かれたことは一度や二度ではない。
 アキラと共に将来を期待されている――それはアキラをずっとライバルとして追っていたヒカルにとってはこの上ない喜びだった。
 アキラの隣に並んで、ライバルとしてお互いの力を高めあう。そんな存在になれたらどんなに素晴らしいだろう。その夢が限りなく現実に近づきつつある、そんな時にアキラの韓国行きを聞かされて、ヒカルは酷く動揺したのだ。
 自分のいない国で五年間も過ごす道を選んだアキラ。それはまるで、彼の成長にはヒカルの存在など関係ないと言われているようで、アキラのライバルを自負していたヒカルには受け入れ難いものだった。
 何故だと詰め寄るヒカルに、アキラは言った。
『今より強くなって帰ってくるから』
 今だって充分強いじゃん、俺と一緒に強くなるんじゃないのかよ。ヒカルの訴えに、アキラは眉を垂らして困ったように微笑んだ。
『今のままだとキミに追いつかれそうだ。キミにがっかりされたくない』
 ヒカルはアキラの腕を掴んだまま、驚いて固まってしまった。まさか、この天才からそんなことを言われようとは。


 それからのアキラは話をうやむやにせず、何度もヒカルに韓国へ行く事の意義を丁寧に説明してくれた。
 双方の棋院の調整上、今を逃すと次に五年という期間を確保できるのはいつになるか分からない。確かに父の勧めがきっかけだったが、自分の意志で向こうで勉強したいと思った。五年で必ず戻ってくる。その時は、きっと良い報告ができるように韓国で鍛え直してくるから――
 真摯なアキラの態度に、ヒカルもいつまでもごねている訳にはいかなくなった。アキラは他の誰でもなくヒカルにきちんと納得してもらってから行きたい、ときっぱり告げていたからだ。
 ライバルとして目指していた男にここまで破格の扱いを受けて、ヒカルはとうとう降参した。そして、笑顔でアキラを見送る覚悟を決めたのだった。
 アキラは韓国で、ヒカルは日本で頑張ると約束を交わし、五年後にお互いを満足させるような碁打ちになろうと誓い合った。
 お前、戻って来なかったら承知しねえぞ、キミこそ五年後にがっかりさせるなよ――そんな会話と共に空港で見送った五年前。
 約束通り、アキラが帰って来るのだ。韓国のトップ棋士たちと並ぶ腕を携えて。
 かつては運命のライバルとまで呼ばれた片割れだ。帰国の知らせを聞いた時、ヒカルは嬉しさでその夜寝付けなかったくらいだった。
 アキラが韓国に行っている五年の間は、一度も直接顔を合わせることがなかった。せいぜいテレビや雑誌の中で小さく姿を見かける程度で、時折メールが来たり季節の絵葉書が届いたりすることはあっても、言葉を交わすことは全くなかった。
 だからこそ、久しぶりに逢うアキラに対して俄然期待が高まるのだ。
 きっと強くなっているだろう。しかしヒカルだってこの五年、必死で腕を磨いてきた。アキラに恥じない碁打ちとして在るように。
 周りからはまだまだ落ち着きがないなんて言われるが、タイトルもひとつ手中にし、五年前よりは心身ともに成長したつもりだった。そんな自分を、アキラに見てもらうのが楽しみだった。
 アキラはどんなふうになっているだろう? 元々大人びていたアキラだから、イメージはあまり変わっていないのだろう。
 アキラも少しは背が伸びただろうか? 空港で見送った時、向かい合った目の位置はまだアキラのほうが上だったが、あれから随分と伸びたヒカルが追い付いて、ひょっとしたら追い越しているかもしれない。そう思うと無性にわくわくした。
 久しぶりに会った自分を見て、アキラは何と言うだろう。少しは大人になったと思ってくれるだろうか。
 早く逢いたい。逢って久しぶりに一局打ちたい。そう、この五年、アキラの碁といえば棋譜に触れるばかりで、ずっと指が疼いていたのだから。
 指折り数えた帰国までの日々。あと二ヶ月、いよいよ来月、あと二週間、来週、明後日、明日。
 ヒカルは忙しいスケジュールを何とか工面して、アキラが訪れる日程に合わせて喜び勇んで棋院に向かっていた。



 いつもより人が多いと感じたのは気のせいではないらしい。普段は静かな棋院のロビーにいくつか野次馬のグループが出来ていて、中には小柄なカメラを構えた雑誌か何かの記者のような連中も見える。
 噂を聞き付けて集まってきたのか、年若い棋士たちの姿がちらほら見える。更に若い集団は院生だろうか。どうやら塔矢アキラの帰国はこれから彼を目指す年代の棋士たち中心に、相当に関心が高いようだった。
 恐らく上で挨拶をしているだろうから、ギャラリーに混じってロビーで待っていれば会えるだろうか、それとも上まで行って探してみようか……ヒカルがそんなことを迷っていた時、後ろから「進藤」と名前を呼ばれて振り返った。
「和谷」
 振り返ってすぐにあからさまに目線を下げたヒカルに和谷は少々むっとしつつも、気を取り直してにやりと笑う。
「塔矢のお出迎えか?」
 肘でわき腹を突付かれて、ヒカルは照れくさそうに苦笑しつつもやり返した。ごつ、とヒカルの肘を肩に食らって和谷が呻く。
「和谷こそ、塔矢のこと嫌いじゃなかったっけ? わざわざ見にきたんだ?」
「俺は野次馬根性ってやつ! あと、お前が感動の再会でびーびー泣いてるとこ写メってやるよ」
「誰が泣くかよ〜! ……と……」
 ふいにロビーが騒がしくなった。集まっていた人々が一斉にエレベーターを振り向いている。
 開いたドアから、男性が下りてくるところだった。濃紺のスーツに身を包み、芯が通っているように伸びた背筋と、顎の高さで揺れる艶やかな黒髪。
 ヒカルは咄嗟に人を掻き分け、とうや、と喜びを顔いっぱいにして名前を呼ぼうとして――そのまま固まった。






留学云々は全てデタラメですすいません!
話に合わせて都合の良いように捏造しています……
どうぞさらっと読み飛ばして頂けますように……!