***帰国後・塔矢邸*** 「よく来てくれたね。実家だと思ってくつろいでくれたまえ」 アキラたちの前日に日本に帰国していた行洋は、馴染んだ和服姿でアキラと永夏を出迎えた。 永夏は行洋の前では実に大人しい。いわゆる猫かぶりというやつだ。 その晩はアキラ・行洋・永夏でしばし対局や検討を楽しみ、旅の疲れもあることだしと早めに休むことになった。永夏が泊まることになった客間に布団を運んでやって、アキラはぶつぶつと不満を漏らす。 「ホテルでもなんでも借りればいいじゃないか。なんだってうちに居座るんだ」 永夏は用意されていた浴衣を不思議そうに見下ろしながら答えた。 「決まっているだろう、塔矢先生がいらっしゃるんだ。息子はどうでもいいが先生は偉大な方だからな……オイ塔矢、これはどうやって着るんだ」 「随分な言い方だな、散々通訳に使っておいて。父の前では大人しいくせに……ほら、ここに腕を通して紐で結ぶんだ」 アキラが手ぶりで教えてやると、永夏は首を傾げながらも浴衣の前を合わせて紐をぐるぐると巻いた。かなり不格好だがそれを指摘する気はアキラにはさらさらなかった。 浴衣を着て満足したのか、永夏はアキラが敷いた布団にごろんと転がり、俯せに肘をついてアキラを見上げた。 「滅多にない機会だ。先生と打てるだけ打たせてもらうさ。まあほんの一ヶ月だから気にするな」 「そうか、一ヶ月……一ヶ月!?」 眠りの体勢に入った永夏を確認して部屋を出ようと障子に向かっていたアキラは、永夏の言葉にぎょっとして振り返った。永夏は悪びれないどころか寧ろ確信犯の目でにやりとアキラを見ている。 「一ヶ月もここにいるつもりか……?」 「韓国では散々世話してやったんだ、それくらい当然だろう?」 「世話をしてもらった覚えはないぞ」 「薄情なヤツだな。まあいい、言っただろう、一ヶ月あるんだ、お前と進藤の仲を取り持ってやる」 どう贔屓目に見ても悪巧みをしているようにしか見えない永夏の微笑みに、アキラの背中がざわりと寒くなる。 「結構だ」 「そう言うな。ちゃんと作戦も考えた……名付けて『嫉妬で恋の炎を燃え上がらせよう大作戦』だ」 「……おやすみ、永夏」 「待て! まったくせっかちな男だなお前は。俺が今日見たところ、アイツは案外お前に好感触だぞ」 「え」 障子に手をかけた格好のまま、アキラは思わず足を止めた。 振り向くと、やはりニヤニヤと含みのある笑みで永夏が顎を肘に乗せている。 「やけに俺に突っかかるような目を向けて来たしな。ちょっと焦らして揺さぶってやればいい」 「焦らしてって……五年ぶりに逢ったのに」 「だからダメなんだ。すぐに逢おうとしたらそれで満足されて終わるだろう。こういうのは長引いた方が燃えるものだ。第一余裕なくガッついてる男に魅力があると思うか?」 力説する永夏に怪訝な顔を見せつつ、アキラはしかし一理あるかもしれないと上目遣いに天井を睨む。 腕組みをしてうんうん考え込んでいるアキラに、永夏はふわ、と小さなあくびをしてからヒラヒラと手を振って、 「だからお前はしばらく進藤に逢わずに俺に付き合え。明日は取材が三本入ってる。その後日本棋院にも行かなければならないからな、通訳が必要だ」 「それってボクを都合良くこき使いたいだけじゃないか!」 「オヤスミ」 布団の中に逃げ込んだ永夏はそれから顔を出そうとしなかった。 アキラは苦々しく戸口で永夏を包んだ布団を睨んでいたが、やがて怒るだけ自分が疲れるのだと悟って溜め息混じりに自室へ戻っていった。 ***二週間後*** 「すまない、進藤。永夏がどうしてもついてくると言って聞かなくて……」 呆然と永夏を見つめているヒカルに、アキラは心底申し訳なさそうな声で告げた。 アキラとしても永夏の同行は予定外だった。焦らせ焦らせと煩くて、気付けば帰国直後にヒカルと顔を合わせて以来二週間も経過してしまったことにショックを受けたアキラが、永夏の目を盗んでこっそりヒカルとコンタクトをとったにも関わらず。 こういうことには鼻が利くのかしっかりバレてついてきてしまった。 『任せろ、俺が進藤のハートを掴んでやる』 絶対面白がってるだけだ――ヒカルと逢うと白状させられた時の永夏のイキイキ爛々とした目を思い出して、アキラはヒカルに気付かれないようどんよりとした溜め息をついた。 もう、余計な邪魔はしないで欲しい。焦らしているうちにますます疎遠になったらどうしてくれるのか。 すると永夏はつかつかとアキラの横まで歩いて来て、おもむろにアキラの肩に手を置き、こんなことを言った。 「おい、俺と進藤を打たせろ」 「はあ? 何言ってるんだ! 今日はボクと打つ約束をしていたんだぞ!」 「お前はどうせこの後ずっと日本にいるんだから、いつでも打てるだろう? 俺はもう少しで帰国するんだぞ。ああ、それにあれだ、焦らしプレイ」 取ってつけたように言い加えた永夏の言葉には説得力も何もない。 もしや、とアキラはこれまでなるべく考えないようにしていた懸念を頭に浮かべる。 ――永夏は、進藤に気があるのでは……? 仲を取り持つなんて言って、アキラとヒカルを逢わせようともしない。寝顔の写真も返してくれないし、そういえば最初の北斗杯では随分ヒカルに突っかかっていた……いわゆる「好きな子はつい苛めてしまう」心理が働いていたのかもしれない。 「ダメだ! 今日はボクと打つんだ!」 「ガキみたいな顔をするな。進藤に嫌われるぞ」 「ぐっ……!」 「いいから俺と打たせろ。丁度いいだろう、進藤の力を見てやろうじゃないか。最後に打ったのは随分前になったが、どのくらい腕を上げたのか……」 永夏の目がすっと細くなる。アキラははっとした。 棋士の顔になった永夏は、ヒカルと打つと決めて譲らないようだ。 ふざけて邪魔をしに来ただけなら論外だが、永夏が本気になっているのを見るとアキラとしても割って入るのが躊躇われる。普段はどうしようもない男だが、棋士としての実力は間違いなく本物だ。永夏と打てばヒカルにとっても良い経験になるだろう。 でも、ボクだって打ちたいのに……迷ったアキラは、ヒカルの反応を見て決めることにした。もしもヒカルが少しでも永夏と打ちたがっている様子だったら、今回だけは仕方なく引き下がっても…… ――ところが、渋ったヒカルを永夏が拙い日本語で挑発することはアキラにも予想外だった。 ***永夏との対局後*** ヒカルの手から黒石が落ちる。 項垂れるヒカルをアキラは苦渋に満ちた表情で見下ろしていた。 悪くない布石だが、如何せんヒカルが勝ちを焦り過ぎた。永夏の挑発が余程頭にきていたのだろう、視野が狭くなっていたことは否めない。 しかし押さえるべきところはきっちり押さえ、永夏の怖い手にも臆せず巧いやり返しをしている。これだけ荒れた碁を打ちながら永夏に迫るその力は確かだった。 この五年、ヒカルも日本で必死に腕を磨いて来たのだろう。喜びで胸が締め付けられそうだが、今対面に座っている相手は自分ではない。 やはり永夏に譲るのではなかった――アキラが緩く口唇を噛みながら再びヒカルを見ると、相変わらず俯いたままのヒカルは顔を上げようとしない。どうやら負けたことが相当ショックだったようだ。 「棋力が上がっても精神面の成長が足りないな。あれくらいの挑発で自分の碁が打てなくなってどうする」 永夏が声をかけるが、ヒカルは聞こうとはしないし、何より言葉が分からないだろう。それでも構わずに永夏は言葉を続ける。 「日本にこもってたお前は俺や塔矢に比べて経験が足りない。モタモタするな、早く世界に出て来い……揉まれれば多少のことでは動じない」 アキラは永夏に目を瞠った。 言葉は悪いが、これは永夏の最高の褒め言葉だ。 認めた相手でなければこんなことは言わない――アキラは思わず顔を綻ばせてヒカルに顔を向けたが、ヒカルは乱暴に碁盤の上の碁石を選り分けていた。掻き集めた黒石を碁笥に手早くしまったヒカルは、やはり顔を上げないままに席を立つ。 「進藤!」 アキラが呼んでもヒカルは振り返らなかった。一瞬立ち止まった足は、 「……ゴメン。約束、ダメになっちまって」 それだけ小さな声で告げると碁会所を飛び出して行ってしまった。 「進藤はなんて言ってたんだ?」 残った白石をざらざらと碁笥に戻しながら、悪びれずに永夏が尋ねて来る。 アキラはヒカルが消えた自動ドアから目を逸らせないまま、応えることができなかった。 「……まあ、場数を踏ませてやるんだな。腐ってもらっちゃ俺も困る」 ぼそりと呟いた永夏の声は聞き取りにくかったが、決して情のこもらない乾いた台詞ではなかった。 アキラは黙って頷き、そして五年ぶりの対局が流れてしまったことに切ない溜め息を漏らした。 ***金曜日の棋院*** 予定があると言っていたはずのヒカルがロビーに立っていた。 「進藤? どうしたんだ、今日は予定があるんじゃなかったのか?」 素直な疑問を口にしつつも、顔を見ることができた嬉しさは隠せない。 ヒカルに近付いたアキラは、ヒカルはアキラの背後を睨み付けていることに気付いた。どうやらすっかり永夏が天敵になってしまったらしい……。 ヒカルは永夏の存在を気にしてかちらちらアキラの後ろに目をやりながら、どこか焦ったように早口でアキラに答えた。 「予定、早く終わったんだ。お前、これから時間ある?」 「これから……」 アキラはちらりと永夏を横目で見た。どうせこの後は永夏の買物につき合わされるだけだったのだから、予定などないと言っても構わないだろう。 「ああ、いいよ。どうする? そこの対局室で打つか?」 逸る気持ちそのままに近い場所を提案したが、ヒカルは渋い表情で首を横に振った。 「で、できれば場所変えねえ? 碁会所行こうぜ。そのほうが落ち着いて打てる」 確かにヒカルの言う通り、対局室ではギャラリーも多いだろう。落ち着いて打ちたいと言うのはアキラも大いに賛成で、そうだなと頷いた。 「じゃあ碁会所へ行こうか。あそこも人目はあるけど……」 ほくほくと歩き出したが、ヒカルは笑顔を見せず、ふいにアキラの隣を歩いていた永夏の肩をぐいと掴んだ。 「お前、ついてくんなよ。関係ねえんだから」 アキラは驚いてヒカルと永夏を交互に見る。永夏は肩を竦めて、訝し気な顔をアキラに向けた。 「おい、進藤は何て言ってるんだ?」 「ああ……、キミに、ついてくるなと。関係ないからと……」 永夏ははっと短く笑って、何か企んだような顔になった。その含みのある目にアキラは思わず身構える。 「なんだ、ひょっとして嫉妬してるのか? 進藤も可愛いところがあるじゃないか」 「し、嫉妬? 進藤が?」 「俺がお前にくっついてるのが気にいらないんだろ? 面白い、もっとくっついてみよう。おい塔矢、もっと近寄れ」 「断る! なんでそんな気味の悪いことをしなければならないんだ!」 「俺だってお前みたいな変態とくっつきたくなんかないさ」 「へ、変態だと!?」 「あの写真、進藤が見たら何て言うだろうなあ? 何なら今取り出して見せてやってもいいんだぜ」 「な!? い、今持ってるのか! 返せ!」 思わず話の筋から逸れてしまったアキラににやりと笑みを見せた永夏は、傍で苛立たし気にアキラと永夏の会話を見ているヒカルにおもむろに向き直ると、ぐいっとアキラの腕を引っ張った。 突然の動きに対応しきれなかったアキラは、そのまま永夏の胸に背中を預けることになった。永夏はアキラの両肩に手を置いて、からかうような口調でヒカルに告げた。 「おい進藤、お前こんな男がいいのか? お前のガキの頃の写真を集めて喜んでるようなヤツだぞ。趣味の悪いヤツだ」 「離せ、永……」 抵抗の言葉が終わらないうちに、今度はぐいっと身体が前に引っ張られた。 再び逆らえずにつんのめったアキラは、自分の腕を引っ張ったのがヒカルだと分かって呆然とした。 ヒカルの背中が目の前にある。ヒカルに庇われた、とひたひた感動が胸に溢れ出した時、 「塔矢はお前のもんじゃねえんだよ! 俺なんかお前よりもずっとずっと前から、塔矢と一緒だったんだからなっ!」 ……とんでもない殺し文句がヒカルの口から飛び出した。 反応できずにいるアキラの腕をヒカルが掴む。そのまま走り出すヒカルに引き擦られるようにして、アキラは何度も何度も頭の中でヒカルの言葉を反芻した。 キミは今、何を言ったのか分かっているのか――胸が、繋がれた手が熱い。 アキラはヒカルに引かれるまま走り続けた。 残された永夏は、腰に手を当てて呆れたように二人の消えた方向を見ていた。 「本当に物好きだな。アレの何処がいいんだ」 まあ、俺のおかげで普通にまとまるよりもずっとドラマティックに燃え上がるだろう。これは塔矢に相当の見返りを要求しないとならないな――満足げに頷いた永夏は、颯爽と棋院を出た。 今夜はアキラは帰って来ないかもしれない。邪魔な息子がいなくて丁度良い、存分に行洋にお相手をして頂こう。 上機嫌で鼻歌を歌いながら、棋院を後にした永夏は足取り軽やかに塔矢邸を目指した。 |
蛇足もいいとこでした……
こんなアホ二人のためにヒカが悩んでたのかと思うと……
精進します……!