私を独りにしないでね?






***韓国・アキラの仮住まいにて***

「塔矢、お茶」
 図々しく人の部屋に上がり込み、小さなソファを占領して、アキラが日本から持ち込んできた棋譜に目を通しながら偉そうにそんなことを言った男を、アキラは眉間にくっきり皺を寄せて睨み付けた。
 しかし冗談じゃない、と突っぱねることは出来なかった。
 数時間前、人の都合も聞かずに現れたこの高永夏は、せっかく来たのだからとアキラを無理に誘って始めた対局で圧勝し、アキラのプライドを粉々にした上で「負けた人間は勝った人間の言うことを聞くものだ」と当然とばかりに主張した。
 何を勝手なと憤ろうにも、彼の言う通り負けたことは事実で、そしてそのことは何よりアキラに苦痛と屈辱を与えていた。反論できなかったアキラは、渋々まだ使い慣れないキッチンでコーヒーの用意を始めた。
 韓国に到着してからまだ一週間、言葉が通じるからそれほど不便はないにしても、何かと生活の違いで戸惑うこともある。今日はこの部屋を借りてからようやく訪れた丸一日オフの日で、少しのんびり身体を休めようと思っていたところに永夏の来訪だ。
 永夏は棋士としては尊敬に値するが、人間的には正直何を考えているのかよく分からない。いつも唐突で強引で、扱いにくい男だとアキラは若干苦手意識を持っていた。
 盆がないため両手に永夏と自分の分のコーヒーカップを持って、永夏の前に戻って来たところでアキラは固まった。そのままガチャンとカップを両手から取り落とす。
 その音に永夏が顔を上げ、あ〜あ、という顔でフローリングに広がる黒い液体をのんびり眺めていた。しかしアキラは割れたカップにも零れたコーヒーにも構わず、永夏が手にしているものを凝視して真っ青になる。
「な、何を見ているんだ!」
 慌てて詰め寄った永夏の手から「それ」を取り上げようと腕を伸ばすが、永夏は悪びれずにひょいと背中に「それ」を隠した。そうしてアキラに背中を向け、匿うようにして「それ」を広げる。
「フーン……進藤ねえ……」
 永夏の呟きにアキラは今度は真っ赤になった。
 ――見られた。
 やはり気のせいではなかった。永夏が持っているものは……アレだ。
 これから五年、日本を離れて韓国で過ごすことを決めたのは、もちろん大前提に碁の勉強という理由があるが……もうひとつ、重大な決心があった。
 進藤ヒカル。自他共に認めるアキラのライバルである。
 ここ数年、彼に対してライバルに留まらず、友人以上の感情を抱いてしまっていることに否応なしに気付いてしまったアキラは、日に日に膨らんでいく想いに耐え切れず、このままではいけないと日本を飛び出してきた。
 認め合って高みを目指す相手に不埒な想いばかりを募らせるだなんて、棋士として恥ずべきことだ。
 心身共に鍛え直す――アキラは武者修行の場に韓国を選んだのだった。
 とは言っても、五年も全く顔さえ見ることができない環境というのはあまりに辛い。
 そこでアキラは秘蔵のヒカル写真を集めたポケットアルバムをこっそり手荷物に紛れ込ませていた。淋しくなったらこのアルバムを眺めていよう……修行だと意気込んでいる割には相当に意志薄弱だが、逢いたいあまりに日本に帰るだなんて情けない状況を作らないためにも必要なアイテムだと本人は認識しているようだった。
 永夏が手にしているのは、アキラの大事なその秘蔵ヒカル写真集である。
 誰にも見つからないよう、持って来たスーツケースの奥に忍ばせたままだったというのに、一体どうやって嗅ぎ付けたのだろう。
「返せ!」
「おっと」
 腕を伸ばすアキラを、ひらりと立ち上がった永夏が優雅に躱す。
 そして、おもむろにアルバムの中からヒカルの写真を一枚引き抜いた。
「フン、なかなかよく撮れてるじゃないか。隠し撮りか?」
「そんな犯罪めいたことはしない! 棋院のイベントで撮影されていたものを数枚もらってきただけだっ! 触るな、指紋がつく!」
「うるさいヤツだな。まあいい、これはもらっておくぜ」
 そう言って、永夏は抜いた一枚を胸ポケットに滑り込ませた。アキラがカッと目を剥く。
「ふざけるな! な、なんでキミにやらないとならないんだっ!」
「さっきの対局、負けただろ? これからお前が負けるごとに一枚ずつもらって行くからな。面白そうだ、そうしよう」
「か、勝手に決めるな! 面白くも何ともないっ!」
「へえ、負けるのが怖いのか?」
 ちらりと嫌らしい横目を向けられて、アキラはぐっと言葉に詰まった。
 永夏の勝ち誇ったような笑みが憎たらしくて仕方がない。アキラはぎりぎりと歯軋りしつつ、びしっと人さし指を永夏に突き立てる。
「ならば、ボクが勝ったらさっきの写真は返してもらおう!」
「まあ、いいぜ。勝てるもんならな」
 鼻で笑われ、アキラの顔が更に真っ赤になった。
 ――これは死に物狂いで強くなるしかない!
 写真を取りかえすべく、アキラは燃えた。それからの五年間、負けたり勝ったりを繰り返し、なんとか大部分の写真は取り戻したものの、イベント中に居眠りをしている可愛らしいヒカルの寝顔写真はついに永夏の懐に収まったままになってしまった。





***帰国直前***

「ついて来る? どういうことだ」
 すでに恒例になってしまった休日の一局を経て、永夏はアキラの部屋でくつろいでいる。
 先ほどの対局で負けたアキラが煎れたコーヒーを飲み、つまらなさそうにテレビのチャンネルを回しながら、永夏は独り言のように「俺も日本について行くからな」と告げたのだった。
 アキラの問いかけに、永夏は何でもないことのように言った。
「面白そうだから」
 アキラの表情が渋くなる。
「用もないくせにわざわざ日本に遊びに行く暇がキミにあるのか?」
「用がない訳じゃない。塔矢アキラと一緒に日本へ行くと伝えたら、日本棋院は是非にと歓迎ムードだ」
「い、いつの間に日本棋院と連絡を取った?」
「まあ、そういう訳で決定事項なもんでな。飛行機の便も同じにしておいた。通訳頼むぜ」
 相変わらず自分勝手な永夏にアキラはぽかんと口を開ける。
 五年ぶりの日本。懐かしい我が家、懐かしい棋院、そして何よりヒカルに会える。その感動も永夏つきでは半減してしまいそうだ。
(……ボクの反応を見て楽しむ気だな……)
 永夏はすでにアキラがヒカルに想いを寄せていることを知っている。きっと、そのことでからかうつもりに違いない。
(何事もなく永夏が帰ってくれますように……)
 この五年、永夏に散々迷惑をかけられたことはあれど、遂に具体的な対策を見つけられずに終わった韓国滞在。まさか帰国してまで同じ苦しみを味わうとは……アキラはこめかみに指先を当てて溜め息をついたが、永夏は知ったこっちゃない、と涼しい顔でチャンネルを回し続けていた。





***帰国後・棋院にて***

「塔矢」
 アキラは振り返る。
 忘れもしないこの声、しかし耳に馴染んでいたものより若干低い。
 目の前に逢いたくてやまなかった人がいた。
「進藤、久しぶり」
 飛びつきたい気持ちを抑えて、穏やかに微笑んでみせる。
 五年ぶりのヒカルは少し大人っぽくなって、こうして向かい合うと背も随分伸びたようだ。写真の中でしか会えなかった可愛らしいヒカルとのギャップに胸がときめく。
 はにかんだ表情、僅かに頬が紅潮して、緩んだ口元はとても嬉しそうだった。明らかに自分に逢えて喜んでいるらしいヒカルにもう一歩近付こうとした時。
「進藤?」
 ……厄介な男がいたんだった。
 ちっとヒカルに気付かれないように舌打ちしたアキラは、永夏に顔を向けて目を据わらせた。
「永夏、ちょっと静かにしていてくれ。五年ぶりの再会なんだから」
「なんだ、五年ぶりならそれらしく派手に抱擁でもしたらどうだ? 一発キスくらいかましてみろ、何かの間違いで落ちるかもしれないぞ」
「……永夏、この中に韓国語が分かる人がいるかもしれないんだから、公の場でとんでもないことを言うのはやめてくれ……」
「フン、臆病な男だな」
 永夏を睨み付けたアキラは、くるりとヒカルに向き直る。もちろん顔には先ほど同様の優しい笑顔を湛えて。
「永夏はキミに久しぶりに会えて嬉しいと言っているよ」
「……そんな感じに聞こえなかったけど……」
「本当だよ。……久しぶりだな。元気そうで良かった」
 永夏が何を言っているのか分からないヒカルは少しふてくされた顔をしている。
 その突き出した下口唇が可愛らしい。アキラは頬がだらしなく緩んでしまいそうになるのをぐっと堪えて、握手を求めてヒカルに手を差し出した。
 ヒカルは少し躊躇ったようだが、そっと手を伸ばしてくれた。柔らかく繋がれる手のひら。アキラが思わず目を細めた瞬間、ぐいっと後ろから肩を引っ張られて大きく仰け反った。
 ……手が離れてしまった。
「何ちまちまやってるんだ。チャンスだぞ、押し倒せ」
「永夏、ちょっと黙っててくれないか……!」
「ぼさっとしてると他の男に取られるぞ。そうだ、俺が仲を取り持ってやる。面白そうだ」
「キミはすぐに何でも面白がる……! 結構だ、余計なことしないでくれ」
 永夏を窘めて振り向くと、すでにヒカルの姿はそこにはなかった。代わりに、記者らしい連中に囲まれてしまっている。まったく空港での出迎えといい、どこからこんな面白みのない男の取材をしに沸いて来たのか。
 仕方なく記者の質問に答えながら、永夏の通訳もしてやって、さりげなく人垣に目を走らせてみたが、ヒカルの顔を見つけることはできなかった。
 短い再会だった……アキラは溜め息をつきながらも、営業用のスマイルを完璧に貼り付けて記者への対応をこなす。またすぐに逢えますように……そう願いながら。