ヤサ男の夢






「お疲れ、和谷」
 背中にかかった声に振り向くと、軽く息を弾ませた伊角がにこやかに笑っていた。方向的に和谷がたった今出てきた対局室からやって来たことは間違いなく、その表情からも本日の対局の結果が容易に窺い知れる。
「勝ったの? 伊角さん」
「ああ。和谷もだろ? 丁度終局した時、お前が立ち上がるの見えたから急いで追いかけてきたんだ」
 和谷の隣に並び、伊角は乱れた髪をちょいちょいと整えながら説明した。和谷はもちろん勝ったぜ、と誇らしげに告げて、ショルダーバッグから携帯電話を取り出す。
「五時か……伊角さんこの後予定は?」
「ないよ。和谷もそうじゃないかと思ったから急いだんだよ」
「マジ? んじゃどっかで飲んで帰る?」
「ああ、ついでに見せたい棋譜があるんだ。あそこの店にしよう、ほら、個室が広くて掘りごたつのある」
 笑顔で頷き合う二人は、意気揚々とロビーへ向かう。
 対局には勝った、隣には気心の知れた友人、これからうまい酒を飲みながらじっくり棋譜に目を通す、実に充実した時間を過ごさんと満足げだった二人は、階段を使ってロビーに降りてきたところで不穏な空気を感じ始めた。
 二人が通りがかった時にタイミングよく開いたエレベーター、中から両脇に可愛らしい女の子を二人携えた穏やかな笑顔の美青年が降りてくる。長めの黒い髪を顎のラインで揺らし、自分よりも頭二つは小さい女の子たちに向ける眼差しは紳士的で優しさに溢れていた。
 彼の登場だけなら二人にとって何の問題もなかった。和谷と伊角が顔を引き攣らせたのは、続いて棋院の入り口である自動ドアから派手な男が同じく傍らに女性を連れて現れたためだった。
 明らかに年上と思われる少々化粧の濃い女性を伴い、軽い調子で笑っている青年は服装もルーズだ。何しろ前髪が金色というだけで人目を引く。外見だけ見るといかにもチャラチャラした中身のない男だが、和谷も伊角も彼が自分たちの所属する棋界でどれだけ力を持つ人間かを知っているため、複雑なため息を漏らすのみだった。
 いや、彼だけではない。先ほどエレベーターから華やかに降りてきた青年だって、幼い頃から神童と謳われ、今なお天才との呼び声高いトップクラスの実力者だ。そして、そんな彼らが時に龍虎と並び称される若手の双璧であることは周知の事実だった。
 しかしあの二人を実際に対面させてはならない――これもまた、日本棋院の関係者なら誰もが知っている暗黙のルールなのだ。
 まずい。和谷と伊角が気づいた時には遅かった。
 エレベーターからやって来た青年――塔矢アキラと、自動ドアから入って来た青年――進藤ヒカルは、見事にロビーの中央でばったり鉢合わせすることになってしまった。
 途端に、びしっと音を立てて周辺の空気が凍る。
 顔を見合わせる和谷と伊角だが、お互い目で責任を押し付け合うばかりで間に入ろうとはしない。このまま放っておけば更に空気が悪くなることは分かっているのに。
 ロビーにはちらほらと一般客の姿も見える。今止めておかねば、そう思っているが二人の躊躇は大きかった。
 頼む、何事もなく通り過ぎてくれ――そんな二人の願いも空しく、ヒカルが隣の女性に顔を向け、横目だけをちらりとアキラに寄越して軽く顎で指した。
「見ろよ、ロリコン趣味の名人様だぜ。相変わらず外面だけはいいよなあ、とっかえひっかえすんのに疲れていっぺんに二人も連れて、ご苦労さんって感じ」
 ロビー中に響き渡るような大声に、何事かと周囲の人々が振り返る。和谷と伊角は頭を抱えた。
 ヒカルの言葉に目を細めたアキラは、すぐにフンと鼻で笑い返して言い放った。
「なんだ、どこのチンピラかと思ったらキミか。相変わらず本因坊の名を地に落とすようなだらしない格好だな。キミの安っぽさのせいで隣の女性まで評価が落ちると思うと気の毒でならないよ」
「んだと。てめえ、吉田先生に失礼じゃねえかよ」
「キミの責任だろう? 一緒にいる男が判断材料になるのは当然だ。吉田先生、付き合う男性は選ばれたほうが良いですよ」
「……お前こそ、時代錯誤のヘンなおかっぱ頭で片っ端から新人棋士に手ぇつけやがって。その子たちカワイソー、騙されてるとも知らないで」
「人聞きの悪いことを言うな。これから食事に行くだけだ。その、品のない想像しかできない貧困な脳はどうにかならないのか」
 いがみ合う二人の間に何だ何事だとささやかな人だかりができる。遠巻きに見守っていた和谷と伊角は、予想通りの最悪の事態にすっかり逃げ腰になっていた。
 何もあんな大声で騒がなくとも良いだろうに、何故わざわざ目立つ方法を選んで罵り合うのか。会う度に、ああして周囲の視線も気にせずに相手を非難し始めるヒカルとアキラの醜い舌戦は、関係者たちの悩みの種だった。
「お生憎様、俺だって食事に行って来ただけだもん。中華美味しかったよねー、吉田センセ」
「キミのなりがそれではろくな店にも案内できなかっただろう。キミたちは期待していていいよ。ああいった人間が入れないような店を予約してあるから」
「ハン、お前みたいな頭の固いヤツに味の良し悪しなんか分かりゃしねえよ。何食ったって一緒だってのに、高い金払ってご苦労様」
「年中大衆食堂に出入りしている人間が面白い寝言を言うな。高級食材はキミの口には合わないだろう? 今度防衛祝いにインスタント食品をトラックでお送りしようか?」
 アキラの両脇の二人がクスクスと口元を押さえた。
 ヒカルはむっと顔を顰めて、更に何か言い返そうと口を開きかけた――が、それより先にいよいよマズイと判断した和谷が、意を決して声を上げていた。
「進藤! 暇なら飲み行かないか!」
 ヒカルとアキラがはっとして同時に振り返る。罵倒し合ったままの鋭い視線が和谷に集中し、その迫力に息を詰まらせた和谷だったが、ふっとヒカルの表情が緩んだのを確認して安堵の息をついた。
 ヒカルはアキラを横目で睨みつけてから、大袈裟なほどに顔を逸らして和谷に向かって大股で歩いてくる。アキラもまた、わざとらしくヒカルから目を逸らし、二人の女の子を伴って自動ドアに向かっていった。
 二人の距離が完全に離れたことで、周囲の異様な空気も緩和された。
 和谷と伊角はほっとしながら、ヒカルと共に近づいてきた年上女流棋士の吉田にお疲れ様です、と頭を下げる。
「飲み行くって? いーよ時間あるから。ちょっと事務局寄ってきてもいい? 吉田センセ、またメールすんね〜」
 先ほどアキラに噛み付いていた時とはがらっと表情の変わったヒカルが、ひらひらと吉田に手を振る。吉田は苦笑いをして手を振り返し、ふわりと香水の臭いを撒き散らして三人の前を颯爽と通り過ぎていった。
 男三人になったロビーに静寂が戻ったのを見計らい、和谷はヒカルに詰め寄った。
「お前なあ、毎度毎度いらんことするな!」
「えー、だって吉田センセとは割り切ったお付き合いだもん」
「そっちじゃねえ! いや、そっちもだけど、俺が言ってんのは塔矢とのことだ!」
 和谷が塔矢、の名前を出した途端、へらへらと崩れていたヒカルの顔がぴしっと鋭くなった。
「……関係ねえだろ」
 口調まで低く変わったヒカルを見て、顔を見合わせた和谷と伊角は深くため息をつく。
 少年時代は唯一無二のライバル同士と周囲から羨まれていた二人が、いつからか犬猿の仲になってしまったのか。和谷はもう十年も前になるだろう平和だった頃を思い出してヒカルの肩をぽんと叩いた。
「……分かった、詮索はしねえから、せめて人前で喧嘩吹っかけんのだけはよせ。さっきのはどう考えてもお前が悪いぞ」
「あの面見てたらムカつくんだよ。ムカつくヤツにムカつくっつって何が悪りぃんだ」
「ああもう、ガキっぽいことばっか言いやがって。とりあえず機嫌直して、さっさと用事済ませて来い。飲み、来るんだろ?」
 まだ不服そうに口唇を歪ませていたヒカルだったが、和谷の言葉には素直に頷き、待っててと一言残して階段を駆け上がっていった。
 軽やかな後姿を見送りながら、和谷と伊角はまたため息をつく。
「……いつからあんなに仲が悪くなったんだろうな。」
「分かんねえよ。昔はああじゃなかったのになあ」
 力のない呟きは余計に彼らを脱力させたらしい、ロビーに降りてきたばかりの頃は想像もしていなかった疲れた顔で、二人は壁に凭れてぼんやりとヒカルの戻りを待つ。
 二人の言葉の通り、ヒカルとアキラの仲は最初から険悪なわけではなかった。それどころか、彼らはライバル同士の割には仲が良いと認識されていたほどだった。





また最初に謝罪すると、リクエストの内容に
「男前なヒカルとへたれじゃないアキラ」という
重要な単語が入っていたんですが……
どっちもへたれでした……すいません!