優しくしたいの






 ヒカルは晴れやかに廊下を駆けていた。
 先ほどちらりと覗いた対局室、まだ時間はお昼を挟んで少しの時間しか経っていないというのに、アキラの正面に座る相手がひっそりと頭を下げたところだった。
 相手は八段。中押しの快勝だ。
 勝利したアキラは相手に一礼した後、立ち上がった拍子に入口で顔を覗かせているヒカルに気づいた。にっこりと満足げな笑顔を向けられて、ヒカルも思わず頬を緩める。
 今日はヒカルの手合い日ではなかった。それなのに何故棋院までわざわざ足を運んだのかというと、今日のアキラの対局が特別だったからだ。
 今日勝てば、アキラは晴れて五段に昇段する。大事な一局の結果をいち早く知るために、遂に対局室まで覗いてしまった。
 本当は、棋院近くのロッテリアで待ち合わせをする予定だった。しかしアキラは事前に「それほど遅くまではかからないと思う」と、決して過剰ではない自信を見せていたので、ヒカルも気が急いてしまっていた。
 本当なら、今日はあまり棋院には近寄りたくなかった。それにも理由があった。
「おい、進藤!」
 背後から聞き慣れた声がかかる。できれば今は一番聞きたくなかった声だ。
 振り向かなくても分かる。和谷の声に身を竦ませたヒカルは、作り笑いを顔に浮かべて振り返った。
 和谷の目は据わっている。
「お前、今日も研究会サボる気かよ」
「あ、あはは、今日は用事があって……」
「お前の用事は何で毎週木曜日なんたよっ!」
 和谷の雷を食らわないように、ヒカルは一目散に逃げ出した。後ろから「進藤〜!」と和谷の喚く声が追ってくる。
「あぶね、今日和谷も手合いだったんだ。もう対局終わったのかな」
 先ほど対局室を覗いた時に顔を見られていたのだろうか、アキラと笑い合っていた場面は見られていないといいが。
 本当なら、今日は和谷と伊角と本田の四人で研究会を行う日だった。木曜は高段者との手合い日のため、その検討をすぐに行えて丁度良いと、つい先月から始まったばかりの小さな研究会。予定は隔週である。
 実は、ヒカルはたった一回しか出席できていない。
 申し訳ないとは思うのだが、木曜日はアキラがほぼ確実に棋院に出てくるため、そのまま二人で碁会所に行ったりしてしまうことが多いのだ。
 仕事より恋愛優先。いやしかし、アキラと打つことは何よりの棋力の向上に繋がるため、決して仕事をおろそかにしている訳ではない……とヒカルは誰に聞かせるでもない言い訳をする。
(だって、ただでさえ会う時間少ねーんだから仕方ないじゃん)
 ヒカルはそんなふうに自分を正当化して、そうして勢い良く棋院を出た。わざわざロッテリアまで行かずに途中の道で待っていよう。きっとアキラはすぐに追いつくだろう。
 足取りは軽かった。



「かんぱーい」
 元気良く振り上げたグラスにはビール……ではなくアイスカフェラテ。
 まだ陽も明るいうちから、おまけに正真正銘の未成年であるヒカルとアキラが酒をかっくらうわけにはいかない。
 それでもとりあえず入った喫茶店で向かい合い、重ねるグラスは二人にとって雰囲気充分だった。
「塔矢五段、おめでとうございます」
 ヒカルのわざとらしい声にアキラは苦笑した。
「ありがとうございます」
 二人は顔を見合わせて笑う。ヒカルは目の前で柔らかく微笑むアキラをうっとりと眺めた。
 さすが、同期は勿論、その前後含めて五段一番乗りである。アキラの兄弟子である芦原にも遂に追いついてしまった。
「あああ、いいなあ、俺も早く昇段してぇ〜」
 未だ二段のヒカルはテーブルに顎をつき、はあとため息をつく。頭上からアキラの苦笑が聞こえてきた。
「キミも順調にいけば来月は昇段できるだろ。焦らなくても、キミの棋力ばボクがよく分かってるから」
 ヒカルはひょいっと瞳だけをアキラに向け、ヒカルを見下ろす優しい眼差しを見つけてはにかむ。
 ヒカルの大切な恋人は、若手トップという立ち位置だけでは飽き足らず、すでに囲碁界トップ集団の仲間入りを果たしていると言って過言ではないだろう。
 ヒカルもタイトル予選などで良いところまでは進むものの、どうもここ一番という時に緊張して固くなったり体調を崩したりして、うまくいかない場合が多い。恐らく精神力に違いがあるのだろう。
 立場の違いは仕事の量に表れ、アキラは相変わらず忙しい毎日を送っていた。ヒカルもヒマではなかったが、今日のように手合いも何も予定が入っていない日が少なからずある。北斗杯での大敗が響いているのだろう、アキラとの差は歴然だった。
 そんな忙しい合間を縫って、それこそ針の先で穴を開けるようにアキラはヒカルとの時間を作ってくれる。嬉しいが、申し訳ない気持ちになるのも確かだ。
「……お前、身体壊すなよ」
 つい、話の前後に関係なくそんな言葉が口をつくほど。
「なんだい、急に」
 アキラは笑うが、ヒカルの目にはなんとなく彼の顎のラインが妙にすっきりしたように写っていた。
 ここ最近、少しアキラが痩せたような気がする。
 仕事は確かに忙しいだろうし、囲碁の勉強も怠らないアキラはまさしく分刻み、秒刻みのスケジュールのはずだ。そんな中、自分のためにこうして時間を割いてくれて、身体に無理はかからないのだろうか。
「大丈夫だよ、ボクは元気だ」
「……ならいいんだけど。」
 言葉とは裏腹に心配そうな表情をしていたのだろうか、アキラはヒカルを宥めるような微笑みを見せて、そっとテーブルの下から手を伸ばしてきた。
 人目を忍んで僅かに触れ合う指先に、ヒカルの胸がきゅっと熱くなる。
「キミの顔を見たら疲れが吹っ飛ぶんだ」
「塔矢」
「だからボクが無理をしてるなんて思わないで欲しい」
 真っ直ぐにヒカルを見つめる毅然とした笑顔に、ヒカルはぼうっと目を奪われる。
(ああ……チューしてえ……)
 ヒカルに真摯に愛を告げるアキラは、文句なしにカッコいい。初エッチはちょっとカッコ悪かったが、早かったのはお互い様なのでヒカルは特別気にしてはいなかった。
 あの夜以来、こんな風にひっそり指を絡めたり、物陰でこっそり口唇を合わせたりといった触れ合いを重ねてきたが、その先の続きはおあずけ状態である。
 おあずけ、というのは実はヒカルに対してだった。
 どうやら前回、しっかり落ち込んだアキラは、何やら独学を始めたらしい。何やらとは、アキラがそう宣言したわけではなくヒカルの推測にすぎないからである。
 実はあの夜の数日後、アキラの家に行く機会があり、密かに期待して塔矢邸を訪れたヒカルだったが、家にはアキラの両親である行洋と明子がいた上、アキラの部屋でほんのちょっといい雰囲気になっただけで終わってしまった。
 いくら部屋が離れているとはいえ、同じ屋根の下にいる両親に気づかれるのはマズイと判断したせいかと思ったが、アキラが明子に呼ばれて菓子を取りに行っている間にヒカルは見てしまった。
 本棚の一角、何故か一部だけ布が貼られた怪しい棚の中を。
 前はこんなのなかったよな、と思ってヒカルがこっそりめくると、アキラの部屋に似つかわしくない数冊の雑誌が立てられていた。
『H大特集』
『彼女をイカせる裏テクニック』
『都内ラブホ厳選100☆』
(……)
 あの衝撃を思い出すと今もヒカルの心に幽かな隙間風が通り過ぎるが、生真面目というか大馬鹿のアキラのことだから、本気で勉強しているつもりなのだろう。
 そう、馬鹿なだけなのだ。この際、俺は彼女じゃないとか男同士でラブホテル行く気なのかよとかのツッコミはやめておいたほうが無難だ。
 それにしても分かりやすすぎるあの隠し方はどうかと思う。見てくれと言わんばかりの怪しい布貼り。明子が家捜しタイプの母親だったら、何の苦もなく発見されているだろう。ひょっとしたらもうすでに発見されているのではないだろうか。恐らくアキラ自身はうまく隠したと思っているだろうから不憫だ。
 どんな顔してこれを購入したかを想像すると何となく涙ぐんでしまうが、裏テク以前にまず表はどうなのよ、と涼やかな気持ちにならないでもない。
(俺はなんとなくイチャイチャしてるだけでいーんだけどなあ……)
 別に早かろうがヘタだろうが構わないのに。しかしそれを口に出したらアキラが地の底まで沈むことはヒカルも理解していたので、心の中だけに留める。同じ男としてその辺りの気遣いは怠らない。
 ヒカルとしては、アキラとエッチなことを楽しめればそれでいいと思っているのだが。
 何事にも全力投球のアキラのこと、極めるまでエッチしないとか言い出すんではないかとヒカルは内心ヒヤヒヤである。
(なんだよ、俺のほうがハマってんのかよ)
 初めての熱い感触を思い出すとむずむずと身体が疼く。
 決して快楽ばかりではなかったけれど、アキラの一生懸命な愛情を受けて、それこそ抱き合っているだけで気持ちよかった。
 続きはいつになるのかなあ。アキラに分からないように悩ましげに吐息を漏らした時、ふいに、ヒカルのポケットで携帯電話が震えた。三回震えるこのバイブレーションはメール着信。
 ちょっとごめん、と名残惜しげにテーブルの下で絡めていた指を離し、ヒカルは携帯を取り出す。
「あ、あかりだ」
 その言葉にぴくりと動いたアキラの眉に、運悪くヒカルは気づかなかった。
 メールを読み終わり、画面を閉じたヒカルの元に、妙に低いアキラの声が届く。
「……藤崎さんから、何だって?」
「え? ああうん、今度あいつの学校で指導碁打ってやることになってさ。その日程」
「指導碁?」
 どこか不機嫌な音の響きに、ヒカルはおやっと目を見張る。
 アキラの表情が分かりやすく険しくなった。
 なんだ、何を怒らせたんだ。ヒカルは会話を巻き戻して検討するが、それらしいものが見つからない。
「キミ、ヒマじゃないだろう。指導碁って、ボランティアか?」
 予想以上にきつい口調のアキラに、ヒカルはますます不安になった。
(俺、何か悪いこと言ったっけ?)
 先ほどまであんなに優しく笑っていたのに、今は不機嫌オーラだしまくりでヒカルの前で腕組みまでしてしまった。本当に分かりやすく腹を立てるヤツだと感心すると同時に、何が彼の逆鱗に触れたのか思い当たらなくてヒカルは困り果てる。
「別に、お前に比べたら全然時間あるよ。ボランティアって、そんな大したことやってくるつもりじゃないし」
「キミはそのつもりでも、仮にもプロなんだ。もう少し自覚を持って引き受けるべきじゃないのか」
「なんだよそれ、あかりから金とれってのかよ」
「そうは言っていない! ボクはただ、安請け合いで厄介ごとを引き受けるなと……」
 さすがにカチンときたヒカルは、困惑の色をさっぱり捨てて反撃に出た。
「厄介ごとだと? 安請け合いってどういう意味だ。俺が考えなしにホイホイ引き受けたと思ってるってことか」
「そういう意味じゃない。ボクが言っているのは、キミだって忙しいのにいくら幼馴染の頼みだからって簡単に返事するのはよくないと」
「簡単に返事なんかしてねぇぜ、本当はずっと約束してたのになかなか行ってやれなかったんだよ。俺はお前と違ってまだ二段だからな、どうせ忙しかねぇよ」
 そう吐き捨てて立ち上がったヒカルをさすがにマズイと思ったのか、アキラも慌てて追いすがった。
「待ってくれ進藤、……少し言い過ぎた」
「少しじゃねぇよ」
 ――なんだ、訳の分からないことで勝手に腹を立てやがって――
 アキラのことは好きだが、理不尽に責められるのをじっと我満できるほどヒカルは忍耐強くない。
 せめてアキラが何故そこまで不機嫌になったのか、ヒカルが理由を察することができればよかったのだが、如何せん変なところに疎いヒカルはその原因に気づかなかった。
「あのなあ、俺はともかく、あかりが無理強いして俺に仕事押し付けたみたいな言い方やめろよ。それでなくてもアイツ、俺に気ぃ使って今まで延ばし延ばしにしてたってのに」
 そんなヒカルの強い口調を受け、明らかにアキラの顔色が変わった時点で気づけばよかったのかもしれない。
 だが、ある意味能天気すぎるヒカルの頭はうまい具合に働いてはくれなかった。
 わなわな震えるアキラを尻目に、すっかりへそを曲げたヒカルは喫茶店を出て行こうとした。――なんだよ、せっかく五段祝いに駆けつけてやったのに。ムカつくからレシートは置いていってやる。くそ。
 ぶつぶつ呟きながら外に出たヒカルから遅れること三分、全速力で追いかけてきたアキラは財布を手に持ったままだった。律儀に会計を済ませ、そのことについてヒカルを責めないあたりがアキラらしい。
 ヒカルはむすっと顔を顰めたまま、隣に追いついたアキラを見ないようにずんずん歩いた。やけに早足で街を突っ切る二人を、数人がぎょっとした様子で振り返る。
「進藤、話を聞いてくれ」
「さっき充分聞いた」
「違うんだ、ボクが言いたいのは……」
「うるせぇ」
 一方的に会話を切るヒカルに、アキラもだんだん意地になってきたようだ。更に速度を上げたヒカルにぴったりついてくる。
「進藤、いつ行くんだ」
「はあ? 何処にだよ」
「その、藤崎さんの学校にだ」
「そんなのお前に関係ないだろ」
「関係なくてもなんでも、いつ行くか教えろ」
「何でお前に教えないといけないんだよ」
「教えないならここでキスするぞ」
 ヒカルの顔が強張る。
 ちらりと横目を向けると、血走った目のアキラは本気そのものだ。
「……来週の土曜」
 アキラならやりかねない。冗談でこんなことを言うようなタイプではないことはヒカルが一番良く分かっている。ヒカルはあっさり 白状した。
「来週……」
 アキラは猛スピードで歩きながらも、ごそごそと鞄から手帳を取り出した。超のつく早足でスケジュールを確認する姿は異様なことこの上ない。
「ボクも行く」
 その上とんでもないことを言い出した。
「はあ!?」
 思わず立ち止まったヒカルに間に合わず、五歩ほど先を進んでしまったアキラも急ブレーキをかける。
 振り返ったアキラの荒い息、きつくヒカルを見据える瞳に冗談や気まぐれの色は見えない。
「お……前、何言ってんだ。お前ムチャクチャ忙しいだろうが。来れるわけないだろ」
「ボクにスケジュールを合わせてくれなんて言ってない。ボクが合わせる、来週の土曜なら調整できるから」
 ヒカルはすっかり呆れて、次の言葉をなかなか搾り出せずにいる。
 アキラは何かしらあったはずの予定に二重線を引いて、新たに自分で「ボランティア」と言った指導碁の予定を書き込んでいるようだ。
「お前……何意地んなってんだよ」
「意地なんか張っていない」
「大体、お前が来るなんてあかりには一言も言ってねえぜ。あいつが迷惑するかもしれないだろ」
「五段のボクが来て迷惑だとでも?」
 僅かに顎を上げ、珍しくヒカルを上から見るアキラの目線にヒカルもカッとなるが、言い返せない。
 迷惑どころか、大喜びだろう。何しろ現在の囲碁界で最も注目を集めている若手棋士、塔矢アキラがわざわざ高校の囲碁部に「ボランティア」で指導碁を打ちにくるなんて。
 それでも、それを大人しく受け入れられるほどヒカルは素直にできていない。
「ああ分かったよ、あかりに聞いてやる! もしアイツがダメだっつったらお前も諦めろよ!」



 その夜、あかりから再び届いたメールにヒカルは愕然とする。
 本当は、あかりには何も言わず、アキラにはあかりに断られたと嘘をつこうかと思っていたのだ。
 ところが、あかりのメールにはヒカルへの新たな頼みが書かれていた。
『悪いんだけど、もし誰かヒカルのプロの友達で時間のある人がいたら、一緒に誘ってくれないかな? うちの囲碁部、結構人数が多くてヒカル一人じゃ大変だと思うの』
「……」
 散々頭を抱えたヒカルは、一瞬頭に浮かんだ和谷や伊角という逃亡策よりも、それがバレた時のアキラの怒りを恐れて渋々妥協策を採用することに決めた。
 アキラに指導碁の日時をメールすると、すぐさま了解のメールが返ってきた。







ありがちな話をベタに書きたかったのです。
また祭りかよとか思うけど。
ちなみに昇段システムは大手合を採用してます。
なんかいろいろ現在のに変えると大変そうなので。