優しくしたいの






 湿気を含んだ蒸し暑い風が吹く、土曜の午後。
 地図を頼りに辿り着いたその高校は、ヒカルも名前くらいは知っている公立の進学校だった。あかり、勉強頑張ってたもんな。すでに二年生になっているあかりに対して、今更ながらヒカルはそんなことを思う。
 五年程前に新築したという校舎は真新しく、ベージュの外壁がやけに眩しくてヒカルは目を細めた。
 笑い声の混じる学生のざわめきを肌で感じて、昔確かに自分の周りに合った喧騒を懐かしく思い出す。
 当たり前に通ると信じて疑わなかった道から離れてもう三年目。感傷的になるなんてらしくない、とヒカルは苦笑した。
 隣では、待ち合わせの場所からほとんど黙ったままのおかっぱ男が、仏頂面で校舎を見上げている。
 ――いつになったら機嫌直すんだよ。
 今日の指導碁のことでもめて以来、まともに口をきいていなかった。
 ヒカルとしては突然怒り出したアキラに理不尽さを感じていたものの、一晩経ったらそれなりに苛立ちも収まっていて、アキラの出方次第では許してやっても良いと思っていたのだ。
 それが、電話はおろかメールもほとんど寄越さず、棋院で合っても不機嫌な表情のまま。そのくせ今日の予定にはしっかり待ち合わせ十分前には到着していたらしく、時計を見ながら眉間に皺を寄せている様を遠目に確認したヒカルは、今日の指導碁そのものをすっぽかしてしまいたくなった。
(こいつ、指導碁だってのにこんなに愛想悪くて大丈夫なのかよ)
 あかりには事前にアキラを連れて行くことを伝えてあるので、囲碁部員が期待して待っているのではないかと思うと胃が痛くなる。
 あかりが入部した囲碁部は、聞くところ予想以上に大きく、熱心な顧問の下で精力的に活動しているらしい。
 今年はまだ無理だけど、来年は私も大会に出られるかも、と気合の入ったあかりの声を思い出す。団体戦の人数が集まらなかった中学時代とは雲泥の差だ。
 三年生が受験勉強に入ったため、今日集まっているのは一、二年生の三十人程度らしいが、充分な数である。確かに自分ひとりではきつかったかも……とヒカルは隣のアキラを横目で見た。
 相変わらずの仏頂面にため息が出る。
(頼むぜ、おい)
 先が思いやられる。肩を竦めて校門を潜り、野球や陸上の選手たちが太陽の光を浴びて汗を流す様子を見ながら、生徒用の玄関に向かった。
 下校する制服姿の生徒たちがちらちらとヒカルたちを振り返る。やっぱり私服だと目立つのかな、なんて思いながら、ヒカルは玄関で二人を待っていたあかりを発見した。
「よう」
 片手を上げると、見慣れない制服姿のあかりが嬉しそうに小走りで駆けてくる。
「迷わなかった?」
「ああ、地図サンキュ」
「来てくれてありがとう。塔矢くんも、忙しいのに無理言ってごめんなさい」
 ヒカルへの礼もそこそこに、すまなそうにアキラに頭を下げたあかりを見て、ヒカルは慌ててフォローを入れようとした。
 ――いや、こいつちょっと疲れててさ。別に機嫌悪くてこんな顔してるわけじゃねーんだ、ホント。
 ところが、身構えたヒカルに反して、アキラは顔を入れ替えたのかと驚くほど鮮やかに、あかりに笑顔を返していた。
「いえ、ちょうど予定が空いていたので。今日を楽しみにしていました」
 和やかに笑い合う二人の間で、ヒカルだけが腑に落ちない顔で口唇を噛む。
 ――何が「予定が空いていたので」だよ、この大嘘つきめ。
 無理やり元の予定を潰したんじゃねーか。そう怒鳴りたいのをぐっと堪える。
(なんだよ、俺には全然笑わないくせに)
 先週から不機嫌なアキラの顔ばかり見せられていたヒカルは、今度は自分自身が傍目に分かるほどむすっとした表情であかりについていかなければならなかった。
 大規模な学校らしく、玄関の広さはヒカルが通っていた葉瀬中の比ではない。廊下の幅も広く、生徒の数が伺える。
 しかし時折すれ違う生徒たちは実に様々で、大人しそうな男子生徒からちょっと派手目の女子生徒まで、あまり校則の厳しいところではないようだ。
 ヒカルは久しぶりに感じる同世代ばかりの空間に少しだけ気おされた。加えて私服のヒカルとアキラを誰もが振り返るので、なんだか落ち着かない。
「あのね、今日は先生が来れないから部員だけなんだけど。多面打ちで指導碁なんてお願いしちゃってもいいのかな?」
「構いませんよ。今日は大体どのくらいの時間を予定していますか?」
 そもそも指導碁を最初に引き受けたのはヒカルだというのに、そのヒカルを差し置いてアキラとあかりが話をしている。暗に自分が上だとアキラに主張されているようで、ヒカルには面白くない。
 あかりの先導で案内された囲碁部の部室は、懐かしい中学時代の理科室のようなついでの場所ではなく、きちんと囲碁部として独立した部屋になっていた。
 ヒカルは胸に滲む寂寥に苦笑する。――いいなあ、部活か。
 小さな輪の中で、ただ強くなりたいということだけ考えて碁を打っていた日々。あの頃は佐為がいた。
 ヒカルを取り巻く環境はあの時から随分変わってしまったけれど、囲碁が好きで打ち続けているという事実だけは変わらない。
 プロになってしまった右手の爪は碁石で磨り減っている。
 薄っぺらな爪は幸せで、少し寂しい。
「さ、入って入って。みんなすっごく楽しみに待ってたんだから」
 あかりに促され、照れ臭い気持ちで恐る恐る潜ったドアの向こう、ずらっと並んだ顔がわあ〜と歓声を上げて輝いた。
 ヒカルは彼らの眩いばかりの目に圧倒された。表情だけで大歓迎されていることが分かる。思わず頬が熱くなってしまう。
「ええと、紹介します。塔矢プロと進藤プロです」
 あかりの声に、慌ててヒカルはお辞儀をした。隣で優雅に頭を下げるアキラの表情は穏やかだ。二人に惜しみない拍手が降り注ぐ。
「今日はお忙しい中、指導碁を打ちに来ていただきました。滅多にない機会なので、是非皆さんたくさん勉強してください!」
 短い言葉だが必死で考えてきたのだろう、一気にそう挨拶したあかりの赤い顔が何か一仕事終えたような晴れやかなものに変わった。
 緊張していたのだろうか。ヒカルはそんなあかりが微笑ましくなり、自身の緊張も少し解れてきたようで、囲碁部員たちを見渡す余裕が出てきた。ざっと見たところ確かに三十人ぐらい、意外にも女子のほうがやや多い。
 ヒカルとアキラの前で部長らしき男子部員が何か挨拶をしている。筒井を彷彿とさせる、メガネの好青年だ。しかし肝心の挨拶がちっとも耳に入ってこない。ヒカルは気もそぞろにぼんやり女子部員を一人一人眺めていた。
(おいおい……)
 よく見ると、女子生徒たちは髪から何から、制服でできる範囲内とはいえやたらと気合が入っているように見える。薄化粧を施している子も一人や二人ではない。
 僅かにしなを作って上目遣いに、はにかんだ目で見つめる先に――塔矢アキラ。
(……そういうことね)
 ヒカルは思わず肩を竦めた。
 囲碁界のプリンス塔矢アキラの存在を、囲碁部員である彼女たちが知らないはずはない。囲碁ファンにとって手の届かない存在である彼がこんなに目の前にいるとあっては、余分な期待もしてしまうのかもしれない。
(あー、でも無理だな。カワイソウだけど)
 人にはあまり知られていないが、アキラはファッション全般には酷く疎い。服にも髪にも無頓着で、未だに自分の髪型にも疑問を持っていない。幸いにもそれが他人に真似を許さない独自のファッションとして確立されてしまったからいいものの、年頃なんだからもう少し気を使えよとヒカルは常々思っている。
 そんなアキラの目には、どれだけ気合を入れて髪をセットしようが淡いピンクのリップを塗ろうがをしようがスカートを短くしようが、他の女の子との違いなんて判断できるはずがない。
(……それに、俺もいるし)
 本当はここが一番のポイントなんだけど。――ヒカルは一人赤くなる。
 ほんの二ヶ月前に愛を確かめ合ったばかりの自分たちの間に、割り込めるものがあるはずない……と思いたい。確かに今は微妙に喧嘩中ではあるけれど。
「じゃあ、どんなふうに始めようか? ヒカル、多面打ちどのくらいできる?」
 ふいにあかりに話しかけられ、ヒカルは飛び上がらんばかりに驚いた。目を丸くするあかりに、アハハ、と固まった作り笑いでごまかす。
「進藤なら十人くらい大丈夫ですよ。もっと増やしてもいいでしょう」
 代わりにアキラが答えると、部員たちからどよめきが上がった。
 ヒカルは後頭部を掻いて照れてみせるが、案外悪くない。いつも仕事で向かうイベントではおまけ的存在であることが多いため、こんなふうにあからさまに尊敬の眼差しを向けられると自分が偉くなったように感じてしまう。
「まあ、進藤が十人ならボクは二十人でもいいですけど」
 そう続けたアキラに一気に尊敬の眼差しを奪われ、ヒカルの表情が渋くなる。
「じゃあ、女子のほうが人数多いから塔矢くんにお願いして、ヒカルは男子と打ってもらえる?」
 あかりの提案に、ヒカルよりも先にアキラが「いいですよ」と頷いた。女子からキャッと黄色い悲鳴が上がる。
 ますます面白くない。ヒカルは渋い顔のまま、緊張の面持ちで迎える男子生徒の前に立たなくてはならなかった。






あかりちゃんの高校は囲碁が活発ということで……
なんか学生の部活動の雰囲気があんまり思い出せない。
今回ずっとヒカル視点なんで
他の人の思ってることが分かりにくいかもしれませんが、
それだけヒカルがいろんなこと分かってないということで……