夢の子供






 勝手知ったる塔矢邸。
 いつものようにろくに呼び鈴も押さずに、開いていると信じ込んでいる玄関の引き戸を開いて、「お邪魔しま〜す」と悪びれずに上がりこもうとしたヒカルだったが。
「……あれ?」
 玄関に揃えられた大小の靴。いち、にい、さん……どうやら複数の来客だろうか、とヒカルが気づいた時、
「あら、いらっしゃい進藤くん」
 いないとばかり思っていたアキラの母親の声が出迎えてくれた。
 夫である塔矢行洋と共に中国に行っているはずの明子がなぜここに――何故と言われても、ここが紛れもない彼女の自宅なのだからおかしなことではない。我が物で上がりこもうとしていたヒカルは真っ赤になった。
「あ、ご、ごめんなさい、俺、塔矢しかいないのかと思って……」
「まあいいのよ、びっくりさせてこちらこそごめんなさいね。今朝戻ってきたのよ。急な帰国だったものだからアキラさんにもきちんと説明できてなくて」
 明子はころころと笑い、一歩間違えば不法侵入となったヒカルにもどうぞと入るよう促してくれる。
 ここまで図々しく入り込んでしまったのだから今更だよな、とヒカルも靴を脱いで、あらためてこんにちは、と挨拶をした。
 それにしても玄関には靴が多い。塔矢夫妻の他にも誰か来ているのだろうか……
 ヒカルが他の靴に倣って(珍しく)自分のスニーカーを揃えていると、ヒカルの不思議顔を察した明子が説明してくれた。
「主人の弟と姪が来ているのよ。本当に急な話だったものだから、お茶菓子もろくに用意できていなくて。今、アキラさんにお使いに行ってもらってるの。もうすぐ帰ってくると思うから、アキラさんのお部屋で待っていてもらってもいいかしら?」
「え、塔矢出かけてるんですか?」
 ヒカルはますます焦ってしまった。
 すぐに明子が出てきて対応してくれたから良かったものの、アキラのいない塔矢邸に堂々と上がりこんでしまうところだったのだ。
 そんな無作法なところを行洋に見られていたらと思うと、広い庭の池の底に沈みたいとさえ思った。
「もうすぐ進藤くんが来るはずだってアキラさんも言っていたのよ。遠慮しないで、さあどうぞ」
「あ……す、すんません」
 どうやらアキラは事前にヒカルが来る事を説明してくれていたらしい。少し気持ちが軽くなったヒカルだが、それでも不躾な来訪はしっかり見咎められてしまっただろう。
 やばいなあ、印象悪くならないといいなあ……そんなガラにもないことを心配しつつ、ヒカルはアキラの部屋に向かう慣れた廊下を辿っていった。


 アキラの両親が中国に渡るようになってからしばらく経った。
 年中親が不在の塔矢邸は、ヒカルとアキラが遠慮なく打ち合える便利な場所として二人に認識され、ヒカルがしょっちゅう顔を出してはアキラと打つようになっていた。
 月に何度か、当日を含めて数日間のスケジュールを交換し合う。そして都合の良い日があればすかさずそれぞれに予約を入れて、ヒカルが塔矢邸にやってくる、という仕組みになっていた。
 今日の約束も、昨日会った時に昼からお互い時間があることを確認して急遽決まったものだった。そしていつも通りにヒカルのために開放されているだろう扉を遠慮なく開いて中に入ってきたヒカルだったが、まさかアキラの他に人がいようとは。ヒカルは数十分前にアキラからのメール着信があった携帯電話を恨めしく睨む。携帯していても、気づかなければ意味がない。
 明子の話では随分唐突な帰国だったようだから、アキラもきっと驚いたことだろう。おまけに菓子を買いに使いっ走りさせられているとは……暑いのにご苦労様だとヒカルは肩を竦める。
 今度から、この家に来る時は念のためちゃんと呼び鈴を押す事にしよう。ヒカルがそう決意していると、廊下の前方にふらりと人影が現れた。
「あれ?」
 どうやら手洗いから出てきたと思われる人物は、おかっぱの後姿をしている。
 ――なんだ、塔矢じゃん。買い物行ったって言ってたけど、もう戻ってきてたのか?
 ほっとしたヒカルははしたなさも考えずに駆け出して、ヒカルに背中を向けたまま歩いているその人の腕を掴んだ。
「おい、塔矢――」
 呼びかけはそこで途切れた。
 たった今まで眼前に広がっていた景色が、いきなり回転したのだ。
 そしてふわりとした浮遊感……の数秒後、どしんという鈍い音と背中に走る激痛にヒカルは「うっ!」と呻く。
 何が起こったのか分からなかった。気付けばヒカルは仰向けに転がされ、天井を向いている。
 投げ飛ばされた、と理解するまでかなりの時間を要した。
 物音を聞きつけたのか、こちらに向かってくる足音がヒカルの耳に届く。
「さくら、どうかしたかね? 今の音は……」
「伯父さま、不審者です! この男が急に背後から……!」
 次いで耳にぽんぽん飛び込んでくる声ふたつ。最初の声に明らかに聞き覚えがあったヒカルは、まずい、と起き上がろうとした。
「進藤くん?」
 ああ、とんだ情けないところを見られてしまった――中途半端に身体を起こして頭を下げたため、まるで土下座せんばかりの体勢になってしまったヒカルは、恐る恐る顔を上げてその人の姿を見上げた。
 アキラの父、塔矢行洋。囲碁界で最も尊敬する棋士の一人である彼に、格好悪く床に転がされた姿を見られようとは。
 ヒカルはアキラを睨みつけた。いや、正確にはアキラだと思っていた人物を睨みつけようとして、そしてきょとんと目を丸くした。
 アキラに劣らない厳しい目つきでヒカルを見据えているのは、髪型こそアキラと同じおかっぱであるが、何処となく雰囲気が違う。
 どことなく、というのがポイントだった。
 目鼻立ちも表情もアキラとよく似ていて、遠目で「アキラだ」と言われれば疑わずにそう思ってしまうかもしれない。
 しかし、目の前にいるアキラもどきは決定的に何かが違った。
 アキラによく似た……女性だったのだ。
 行洋とアキラそっくりの少女に見下ろされ、ヒカルはそのまま石のように固まった。



「驚かせてすまなかったね。私の姪のさくらだ。後ろ姿では間違うのも無理はない」
 行洋の隣で、少しバツが悪そうな表情で黙って頭を下げたさくらは、アキラそっくりの仏頂面でヒカルを睨んでいる。どうやらまだ警戒が解けていないらしい。
 そのさくらの更に隣、行洋によく似た中年の男性は、洒落たスーツを着こなして穏やかに微笑んでいた。
 行洋の弟、そしてさくらの父だというその人はヒカルに向かって柔らかく頭を下げる。
「ご活躍はよく拝見していますよ。進藤三段。アキラがいつも世話になっています」
「あ、ど、ども……」
 遠慮せずにどうぞどうぞと客間まで連れてこられたヒカルは、まるきり予期していなかった塔矢家の親族と恭しいご対面をするハメになっていた。
「長男が小さい頃、一度誘拐騒動に巻き込まれたことがありましてね。さくらには小さい頃から護身術として柔道や合気道を習わせていたんですよ。勘違いとは言え申し訳ない」
「い、いえ、そんな大したことないし」
 と言いつつも、背中はまだじんじんと痛い。どうやら手加減なしで投げ飛ばされたようだった。
 さくらも頭は下げるものの、むすっとした表情はすまないというより怒っているように見えた。いきなり腕を掴んだものだから驚いたのも無理はないが、それでも投げることないじゃないか――ヒカルも自然と目が据わってしまう。
 さくらはヒカルやアキラのひとつ年下で、今年十五歳になるという。小さい頃はよくこの家にも遊びに来ていたが、遠くに引越して以来頻繁には訪れることもなく、年に数回顔を合わせる程度だったらしい。
 にこやかに並ぶ三人だが、ヒカルは先ほど玄関で出迎えてくれた明子の言葉を思い出して軽く首を捻った。 (急な話、って言ってたよな。なんか大事な話でもあったのかな……?)
 改めてさくらを見ると、背筋をぴんと伸ばして足を崩すことなく正座を保ち、きりっとした表情はまさにアキラの女性版のような雰囲気だった。
 加えて髪型まで一緒だ。だからこそ間違えたのだ。こうして向かい合えば身体の小ささや顔の作りなどで女性だと分かるものの、後姿が初対面だったのだからアキラと思い込んだのも無理はない、とヒカルは自分で自分を慰める。
 それにしても痛かった……。ひとつ年下の女の子に投げ飛ばされただなんて絶対人には言えないな、とヒカルが小さくため息をついた時、
「遅くなりました」
 声と共に客間の襖が開いて、ようやく本物のアキラが現れた。
 アキラは父親と叔父親子に笑顔を見せたが、その向かいに座っているヒカルを見つけて軽く目を見開く。
「進藤?」
 ヒカルは黙って軽く手を上げ、挨拶代わりにした。
 どうしてここに、と言いたげなアキラの目を悟ってか、行洋が苦笑を浮かべながら口を開く。
「お前の部屋に向かう途中でさくらと会ってしまってね。一悶着あったのでこちらにお通ししたんだよ」
「お、伯父さまっ」
 さくらが頬を赤らめて行洋を咎める。
 はは、と行洋が穏やかに笑う前でヒカルは肩を竦め、アキラはやっぱり分からない、という顔をした。





今回は……力不足を痛感……(最初っからすいません)
「なんとな〜くこんな感じのことが言いたいらしい」
…くらいにしかまとめられなかったというグダグダっぷりですが、
書いているほうは楽しませて頂きました…<ダメだろ