すっかり遅くなった夕食を済ませ、時刻も夜の九時を過ぎ、そろそろ帰ると立ち上がったヒカルの後ろをアキラが当然のようについてきた。 数日前と同じように駅まで送るというアキラに対し、さくらが一人になるからいいと思ってもいないことを口にした。 「さくらは大丈夫だよ。あれでも有段者だ。家にいる分には心配ない。それよりキミのほうがいつもフラフラしているから心配だ」 茶化したアキラの言葉にヒカルは安堵した。 もしも、分かった、じゃあここでさよならと言われていたら、自分が酷く落ち込んだだろうことは容易に想像できた。 駅までの距離はそれほど長くない。外灯に虫が集まる光景をぼんやり見上げながら歩いていれば、あっという間に二人の時間が終わってしまうことを理解しているのに、何だかいつもの調子で話すことができないヒカルはただ目を空に向けていた。 今頃さくらは誰もいない塔矢邸で一人留守番をしている。さくらが思い切る決断を下したのは、自分は特別にも対等にもなれないからだと悟ったからだ。 そのきっかけが、アキラの態度とヒカルの存在だった……だからこそさくらはあんなに多くの言葉をヒカルに残したのだろうが、それがヒカルの胸を複雑に騒がせる。 自分は確かに対等であるかもしれない。しかし、特別かと問われるとどうだろう。 さくらが思うような関係とは違うだろう。恐らく、さくらは女としてアキラの特別になりたかったのだ…… 「その、さくらのことなんだけど」 隣から聞こえてきた躊躇いがちな声が、びくりとヒカルの肩を縮ませた。 咄嗟に振り返った先で、アキラはなんだか気まずげにヒカルから目を逸らしながらぼそぼそと続けた。 「随分仲良くしていたようだけど……いつの間にあんなに話すようになったんだ?」 「え?」 アキラの言葉の論点が掴めず訝しげに聞き返したヒカルに、アキラは少しだけ口元を尖らせながらつっけんどんに尋ねてきた。 「だから! ……キミ、さくらに気でもあるのか」 「はあ!?」 大声をあげたヒカルの過剰反応が逆に怪しいと睨んだのか、アキラは渋く顔を顰めてヒカルに疑いの目を向ける。アキラの言わんとしていることをようやく理解したヒカルは、慌てて首も手もいっぺんに振って否定した。 「ば、バカじゃねえの? そんな訳ねえだろ! ちょっと話してただけじゃん、大体――」 ヒカルは喉まででかかった言葉を飲み込む。 ――さくらはお前が好きなんだ、なんて言いたくなかった。 「大体?」 不自然に言葉を区切ったヒカルに、アキラが不機嫌そうな声で続きを促してくる。 ヒカルは言葉に詰まりながら、何とか続きを繕った。 「お、お前そっくりの女なんて、ヤだよ。冗談じゃねえ」 アキラが分かりやすくむっとした。 しかしその彼らしからぬ膨れた顔が、どこかほっとして見えたのは気のせいだろうかとヒカルが瞬きした時、アキラはヒカルを睨んでいた目を再びぷいと逸らしてぼそぼそと口を動かし始めた。 「……、さくらはあまり他人と砕けて話すタイプじゃないんだ。キミには随分慣れていたようだったから、気になって」 「……なんで、お前がそんなこと気にするんだよ?」 ヒカルの質問は軽い調子を装っていたが、本当は恐々だった。 アキラがさくらの仮面を信じていることに小さな驚きを感じながら、アキラの言う「気になる」の言葉の意味を改めて聞くのに勇気が必要だったのだ。 それでも話の流れそのままに尋ねてしまってから、ヒカルは内心どんな答えが返ってくるのかビクビクしていた。そんなヒカルの反応など気づいていないだろうアキラは、なんだか不貞腐れたような顔をしている。 「……困るな、と思って」 「……困る?」 「その……キミが女性に興味を持ったりしたら、ボクの相手をしてもらう時間が減る。それは困るな、と思ったんだ」 夜道ではよく分からないが、アキラの顔は薄ら赤らんでいるかもしれない。 ヒカルはぽかんと口を半開きにして、それからかあっと顔が熱くなってきたのを感じた。 「じょ、女性に興味って……、な、何言ってんだよ。別に、俺はそんな……」 「……でも、いつかはそういう時が来るんだろうし」 投げやりなアキラの呟きが胸にちくんと棘を刺す。 「ね、ねえよそんなの、今は碁のことしか考えらんねーし! 碁が一番だから、……だから、お前が最優先だよ」 我ながら恥ずかしい台詞だと自覚しながらも、ヒカルは口を噤めなかった。そんなヒカルに、アキラは不信に細めた目を見せる。 「そんなこと言って、さっきはボクをほったらかしてさくらと楽しそうに喋ってたじゃないか」 「あ、あれは……!」 「夕べだって、電話したらさくらのことを気にしていたし」 「そ、それは……!」 恨みがましく低い声を出すアキラも、自分の言っていることが恥ずかしいことだという自覚はあるのだろう。ヒカルをじっとり睨む目つきがどこか泳いでいるのはきっとそのせいだ。 ヒカルは口ごもればそれだけアキラに誤解を与えてしまうと分かっていながら、うまく言い返すことができなかった。 ――だってそんな、ガキっぽい嫉妬の仕方。 堪え切れず、ぶっと噴き出した途端アキラの目が吊り上がった。 「何が可笑しい!」 「だって……、お前、マジで拗ねてるから……!」 「誰が拗ねてるんだ! ボクはさくらに気があるんじゃないかと聞いているんだ!」 「ねーよ! そんなもん全っ然興味ねーもん!」 笑いながら大声で怒鳴り返すと、ヒカルは勢いのままに駆け出した。慌てたアキラの足音が追いかけて来る。 待て、と声を上げながら必死でついて来るアキラを、振り返り振り返り、追い付かれないように、距離が離れ過ぎないように。 ――興味がないんじゃない。知りたくないんだ。 さくらの言葉の意味も、あの大人びた横顔も、今は理由なんて知りたくない。彼女の気持ちが全て分かるようになってしまったら、きっと今のままの自分たちではいられなくなってしまう気がする……漠然とした未来への怖れだった。 アキラにもまださくらの気持ちは分からないのだろう。駅に着いたヒカルがひとつだけ尋ねたことへのアキラの答えがそれを物語っていた。 「あのさ……、さくらって、ホントはコーヒー嫌いなんじゃないか?」 アキラは何故ヒカルがそんなことを聞くのか分からないという顔をして、その上でいいや、と否定した。 「さくらはいつもボクと同じものでいい、って言うから。嫌いならそんなこと言わないだろう?」 その時ヒカルが感じた空恐ろしさは、随分後にならないと理解できない複雑な感情だったけれど。 多分、さくらの覚悟も決意も何も気づいていなかったアキラよりは、ほんの少しだけ先に大人に続く道へ一歩踏み出してしまったのだ。 そして、できることならアキラは気づくな、と無意識に願っていた。 何も気づかないで、このままで。変わらないものなどないことは薄々勘付いているけれど、少しでも、一秒でも長くこのままでいられるように。 胸の疼きには、黙って静かに蓋をして。 *** 「なあ、お前この前塔矢そっくりの美少女と一緒にいたってホントか?」 ついに来たか――ヒカルはいつ来るかと身構えていた質問が、親友の和谷からだったことに若干の安堵を感じながら、用意していた返事を口にした。 「ああ、それ塔矢のイトコだよ。すげーそっくりで、たまたまアイツん家に打ちに行った時に会ってさー……」 棋院の用事も終わり、ちょうど帰るところだった和谷と共にロビーを通り過ぎて出口を目指している時だった。軽い調子で和谷にさくらのことを話しかけていたヒカルは、ふと自動ドアの傍に立ってこちらをじっと見ている少女に気づく。 見たことのない少女だった……はずだが、あの意志の強そうな視線には覚えがある。 「進藤? どした?」 突然言葉を切り、少女を見たまま立ち止まったヒカルを見て、和谷が不審そうに声をかけた。 その瞬間、少女がにっと笑った。――ヒカルは目を剥いた。 「さくら!?」 名前を呼ばれた少女は、満足げに微笑んでヒカルの元へと歩いて来る。 ヒカルは目を疑った。何故すぐにさくらだと分からなかったのか――さくらは、数日前まではアキラと同じように顎まで伸びていた綺麗な黒髪を、ばっさりショートに切っていたのだ。 たったそれだけで、とヒカルはさくらをまじまじ見つめるが、随分と印象が違って見える。顔立ちは変わっていないはずなのに、彼女とアキラを見間違える人などもういないだろう。 おまけに思い切ったベリーショートにイメージチェンジしたと言うのに、さくらの柔らかい表情がそう見せるのか、不思議と黒髪が揺れていた頃よりずっと可愛らしく華やかに見えた。彼女の変化に戸惑ったヒカルは、ただぽかんと口を開けることしかできなかった。 さくらは笑ったまま、「今日、帰るんだ」と告げた。 「あ……、そ、そうなんだ」 「うん。最後に、挨拶」 「挨拶って……俺に?」 呆けた顔で尋ねると、さくらは黙って頷いた。 「アキラのこと、よろしくね。アキラはホントに、碁ばっかりだから」 「あ、ああ……」 「それだけ。じゃあ」 軽やかに身を翻して自動ドアの向こうに消えて行くさくらに、さよならひとつ言えなかった。 違和感を感じたもうひとつの理由にヒカルは気づいた。塔矢邸や最初に棋院に訪れた時、ずっとパンツスタイルだったさくらが初めてスカートを穿いていたのだ。揺れるスカートの裾をぼんやり眺めていると、隣にいた和谷が興奮した様子でヒカルの肩を掴んだ。 「おい、まさかあれが塔矢のイトコ!? すっげー可愛いじゃん、ってか全然似てねえじゃねえかよ!」 和谷の言葉に、ヒカルはぽつりと口を動かす。 「……んだ」 「あ? なんだって?」 「……似てたんだ。みんな間違えるくらい、そっくりで……」 あんなに似ていたのに―― それから何年も経ってから、彼女が何故あんなにも鮮やかな変貌を見せたのか、苦い思い出と共に時折考えることもあったけれど。 こういうことだろうか、とぼんやり答えを出せるようになった頃、すっかり大人と呼ばれる年になっていたことに気づいて苦く笑みを零す。 ひょっとしたら女のカンと呼ばれるもので何らかの片鱗を嗅ぎ取っていたのだろうか――もうあれ以来会うこともなかったさくらの強さは、ヒカルの胸にくっきりと棘を残して行った。 アキラを演じていたさくらは、その後幸せになっただろうか。 暑い季節、慣れ親しんだ塔矢邸の縁側に腰掛けるたび思い出す。 |
30万HIT感謝祭リクエスト内容(原文のまま):
「オリジナルサブキャラ登場のお話で、アキラもしくは
ヒカルどちらかにそっくりな女の子がいて、
お互いがヤキモキする、なんていかがでしょう。
従姉妹かなんかの設定で。お互いの気持ちには
気がついてない設定で、そっくりな女の子の登場で
やはり性別を超えて相手を思っているんだなと
いう事に気がついてくれると素敵なんですが♪
とりあえず、そっくりな女の子が出てくれば
エピソード、オチは何でもかまいません♪」
こ、これハードル高かったっす……すいません!
なんだか全てが空回り+尻窄みでしたが、
これ以上見苦しい言い訳はすまい(もうすでに…)
グダグダですいませんでした……!
そしてリクエスト有難うございました!
(BGM:夢の子供/LOOK)