夢の子供






 頼まれたのだからと重い腰を上げたが、どうも気が進まない。ヒカルは広い塔矢邸の中をぶらぶらとうろつき、恐らく客間にいるだろうさくらの姿を探してため息をついた。
 何がこんなに自分を憂鬱にさせるのかは分からない。何故だか彼女の存在が心にずんと重たく圧し掛かっている。
 アキラと似ているからではない。姿はよく似ていても、その本質が違うことにヒカルは気づいてしまった。
 彼女がアキラを特別な目で見ているからだろうか? しかし、それで自分が気を病む必要などないではないか……浮かない顔でぶつぶつと呟きながら客間へ向かう廊下の途中、すでに外は真っ暗だというのに縁側に腰掛けているさくらを見つけた。
 さくらは真っ直ぐに暗い庭を見つめていて、恐らく足音でヒカルが近づいて来ているのが分かっているだろうに、こちらを振り向こうともしない。
 無反応のさくらにむっとしたヒカルは、離れた場所から声をかけた。
「おい」
 静かな廊下に少し怒ったような呼びかけが響き、さくらがちらりと顔を向ける。
 少し髪を揺らした仕草が無性に女性らしく見えて、ヒカルは再び不思議な不快感を覚えた。
「何、急にいなくなってんだよ。塔矢がこれから出前取るって。飯食うから居間に来いってさ」
 声に明らかな棘を乗せている自分に戸惑いを感じない訳ではない。それでもヒカルは不機嫌さを隠し切れず、自分より年下の少女が怯えてもおかしくない調子でずかずかと近づいていった。
 さくらはどこかぼんやりした目でヒカルを見上げ、それからまた目線を暗い庭へ戻す。無視されたと受け取ったヒカルがカッと頭に血を昇らせた時、
「――対等なんだな」
 ぽつりとか細い声が闇に向かって落とされた。
 ぶっきらぼうな口調で呟かれた言葉の意図が分からず、思わず足を止めてしまったヒカルがぽかんとしていると、さくらは相変わらず遠くを見つめたまま独り言を続けるように口を開いた。
「……アキラは、囲碁にしか関心がないから。せめてそれだけは頑張ってみたつもりだけど……ダメだった」
「……、ダメって……」
 思わず聞き返した形になったヒカルは、軽く口を押さえながらさくらの反応に身構える。しかしさくらは特にヒカルを振り返ることなく、誰に話しかけているでもない様子で淡々と語る。
「囲碁で頑張れば、認めてもらえるかもしれない。特別じゃなくても、せめて対等になれるかもって……でもやっぱり、アキラにとっては碁を打つただの従妹でしかなかった」
 ヒカルはごくりと唾液を飲み込む。やけに喉が大きく上下して、シンとした廊下に音が響き渡るようだった。
 さくらは庭に向けていた目を薄ら細め、横顔に苦笑いを乗せる。
「さっきの二人の検討、半分も分からなかった。対等だなんて、無理だ。アキラは他の人の前じゃあんなに興奮したりしない。初めて見た」
「そ……れは、お前が女だから……、お前の年で、女流でついて来れたらすげえよ」
 フォローのつもりで漏らした言葉に対し、さくらは今度ははっきりと笑った。
 その自嘲気味な笑みにヒカルははっとする。しかし何故さくらが笑ったのか――自分の言葉が慰めになるどころか、さくらにとってはより残酷な優越感を示しただけに過ぎないのだと気づかないヒカルには分かりようもなかった。
「……男の子に産まれたかったなあ……」
 やるせない呟きの意味は、その頃のヒカルが理解するにはまだ早すぎた。


 いつまで経っても動かないさくらの隣に、何となく腰を下ろして二人で庭をぼんやり眺めた。
 なんだかさくらの雰囲気が今までと違って感じられた。出会ってからずっと、彼女はいつもどこかぴりぴりとしていて、一本筋が通ったような少女らしからぬ緊張感を保っていたというのに、その近寄りがたさが今はない。
 何というか、女らしい、とヒカルは素直に思った。
 つい先ほど、さくらに女を感じて不快を顕にした気分とはまた違っていた。
 それが、彼女が無理をしていないからだと気づくまでには少しだけ時間がかかった。
「……伯父さまに、怒られた」
「え?」
 闇に紛れてしまいそうな小さな声で、さくらが呟く。
 聞き返したのは咄嗟のことで、他意はなかったヒカルがさくらの反応に身構えると、意外にもさくらはあっさりした口調で語り出した。
「プロ試験を受けたいって言ったら、自分のために囲碁を打てないようでは棋士として上を目指すことはできないって……伯父さまはちゃんと分かってらした」

 ――『さくら。これは、さくらの碁ではないね。』――

「伯父さまって……塔矢先生?」
 ヒカルの間抜けな問いかけに薄っすら微笑みで応えたさくらは、
「父だけなら押し切ることはできただろうけど。伯父さまが相手じゃそうはいかない……」
 どこか夢見がちに呟いて、ところどころ雲がかかって僅かにしか見えない空の星を仰ぐ。
「伯父さまに言われて、悔しくて。それでも試験を受けてしまえばと思って棋院に行ったけど、見つかって連れ出されてしまったし」
「あ」
 ヒカルはつい昨日、自分がさくらを棋院の外まで引っ張ったことを思い出して顔を赤らめた。
 ――そうか、ひょっとしてさくらが誰にも内緒で棋院に来たのは……
 受け付け中のプロ試験に外来で申し込むつもりだったのだろうか……?
「父もたぶん、分かってたんだと思う。プロになりたいって言い出したのは囲碁が心から好きだからじゃないって。それで、無理言って伯父さまに説得してもらうためにここまで連れて来られたんだ」
「……説得……」
『主人の弟と姪が来ているのよ。本当に急な話だったものだから――』
 ヒカルはアキラの母の言葉を思い出して、慌しく去っていったさくらの父の「利かない娘で」という呟きの意味を理解した。
 自分のために囲碁を打てないようでは――行洋に諭されたという言葉を胸の内で反芻し、幼い頃の自分の浅慮さをほろ苦く思い出す。
 自分のことしか考えずにプロになったヒカルが、もしあの時行洋と話をすることがあったら、どんな言葉を受けたのだろう……。
 思わず遠い記憶に想いを馳せて自分だけの世界に浸りかかった時、さくらがどこか吹っ切れたように空に向かって軽やかな声をあげた。
「……伯父さまの言うとおりだ! もしプロになれても、全部中途半端になったと思う。それもこれも、アキラが囲碁にしか興味がないのが悪いんだ!」
 あっけらかんと言い放ったさくらを振り返ってヒカルが目を丸くすると、さくらもヒカルを見て悪戯っぽく笑った。
 アキラの面影がすっかり隠れた、少女の年相応の可愛らしい笑顔だった。
「一生懸命強くなったって、驚いてもくれないし。久しぶりに会ったのに、自分で打たないでライバルと対局させるし。師匠なんていないから、伯父さまやアキラの棋譜で勉強して……気づいて欲しくて棋風を似せ始めてから、いつの間にかアキラの真似をして対等になっているつもりでいた。……でも、無理だった。この数日間でよく分かった」
 寂しげな笑みではあるが、儚さはなかった。
 ヒカルは自分よりも年下の少女が淡々と語る世界の深さに戸惑い、相槌を返すくらいのことしかできずにいた。
 ヒカルに分かったのは、さくらが無理をして今の自分を造り上げていたということだけだった。見紛うほどアキラとそっくりだと思った仮の姿を開放したさくらは、まるでついさっき初めて会ったような知らない少女の顔をしている。
 抑えていた自分を出したことで晴れやかに見えるのに、どこか切なさが付きまとうのは――さくらがアキラを諦めてしまったからだろうか。
 僅か十五歳の少女の決断に、愛だ恋だのに触れた経験のなかったヒカルは、ずっと遠いところにあると思っていた大人の世界への扉を垣間見たような気がした。
「もう、目が覚めた。囲碁はやめる」
 さくらのきっぱりした宣言にヒカルは慌てた。
「やめるって……別にやめなくてもいいだろ? あんだけの腕があんのに、勿体ねえよ」
「趣味では続けるよ。でもアキラには趣味も本気も同じに見えるだろうから。……もう、無理して続けない。本当は柔道のほうが面白いんだ」
 柔道の言葉に、出会い頭に投げ飛ばされたことを思い出したヒカルは顔を顰める。
 この小さな身体に軽々投げられたと思うと、確かに囲碁よりもその道を進んだほうが大成するかもしれない……そんなことを考えていたら、顰めっ面のヒカルをさくらが楽しげに覗きこんでいた。
「軽かったよ。もう少し肉つけたら」
「んだと? お、お前が怪力なんだろ!」
「アキラと同じ年でしょ? その割に身体ちっちゃいよね」
「うっ、うるせっ、俺の成長期はこれからなんだよ!」
 あはは、と笑うさくらに尚も言い返そうとヒカルが大口を開けた時、
「一体何やってるんだ? もうそろそろ出前が来るぞ?」
 廊下の向こうから若干苛立ちを含んだ声が響いてきた。
 ヒカルとさくらが揃って顔を向けると、眉間に皺を寄せたアキラが大股でこちらに近づいてくる。
 そういえば、さくらを居間に呼んできてくれと言われてたんだった――今更さくらを探していた目的を思い出したヒカルはしまったと口を開けたが、隣のさくらは悪びれずにひょいっと立ち上がる。
「あーお腹すいた。二人がずっと検討に夢中だったせいでこんな時間まで待たされちゃった」
 砕けた口調でそんなことを言い、縁側に座ったままのヒカルの背後とアキラの脇を通り抜けて、さくらが軽やかに居間へと向かっていく。
 がらりと雰囲気の変わったさくらの後姿にヒカルは閉口したが、アキラは全く気にした様子を見せず、それどころか少し怒ったような顔でヒカルに詰め寄ってきた。
「何を長話していたんだ? ボクが電話をかけてから何十分経ったと思ってる。いつの間にそんなに仲良くなったんだ」
「な、仲がいいわけじゃ……、お前、さっきのアイツ見て何も思わねえの?」
「? 何を思うことがあるんだ?」
 真顔で尋ねてくるアキラは、本心から分からないという表情だった。
 ヒカルは、さくらの如実な変化に丸きり気づいていないアキラの態度にどこかほっとした。そして、同時にざわりと背中を撫でる奇妙な肌寒さを感じた。
 ――なんだろう。この落ち着かない気持ち……
 不安が形になる前に、遠くから響いてきた軽やかな音色がヒカルの顎を持ち上げさせた。
「ほら、出前が来ちゃったじゃないか。支払いするから、居間のほうに運ぶの手伝ってくれよ」
 憮然と言い放ち、ヒカルを促しながら今来た廊下を戻ろうとするアキラの振り向きざまの目を見て、ヒカルも不安を振り払うように勢い良く立ち上がった。
「おっし、飯だ!」
 景気付けに大声を出して、廊下を駆け出しアキラを追い越す。後ろから、廊下を走るななんて声が追いかけてきて、アキラもまた同じ速度で走っていることに笑みが零れた。
 少しだけ苦い笑みだった。
 何も考えずにはしゃいでいられる時間を楽しいと思うのは、――何も考えたくないからだ。
 まだ大人になりきれていない心が、これから変化を迎えるかもしれないだなんて想像したくなかった。こうして、今みたいにふざけあって、時々真面目に碁を打って、喧嘩して――ただそれだけでいいと願う心は、変化なんて欲しくないとその時が来るのをひたすら怖れている。
 アキラによく似たさくらの中に、アキラと違う仕草を見つけるのが嫌だった。アキラになり切れない僅かな部分、彼女は確かに女だった。だが、それを最も嫌っていたのは他でもないさくら自身なのではないだろうか?
 ……彼女がやめると宣言したのは、囲碁だけではないのだろうか。アキラの真似をやめて、女性に戻る――思わずそんなことを考えたヒカルは、前を向いたままの苦笑を強張らせた。
 異性という存在が怖いと思ったのは初めてで、その理由もよく分からないまま、ヒカルは胸を覆う暗雲を押し潰す。
 このままでいいと切に願った。






この辺りまで来れば私の最初のぐだぐだ言い訳の
理由も分かるかもですね……
書かずとも良いはずのものを書かなければ繋がらず、
しかし何かすっぽり抜け落ちているような中途半端さ。
そして喋らせ過ぎた。反省点いっぱい。
あ、それから外来の受付はちょっと時期に捏造入りました…。