子供のころのことを書いてみたいと思います。
日頃はあまり昔のことを思い出さずに過ごしているので、どれくらい覚えているのかわかりませんが。
母によると、基本的に私はいまとそう変わっていないようです。一見おっとりしているんですけれど、実は頑固で強情で気が強い。2、3才のころ家族と一緒にいて私が歌を歌っている録音テープがあるのですが、「あーかいべべきた、かーわーいーいきんぎょ」と歌って拍手してもらっているのに、なぜか突然機嫌が悪くなり、「いやだ!おべんきょうする!」と宣言。おえかきに移行しています。紙に何かかけば「お勉強」だと思っていたんですね。近所の男の子と遊んでいるうちに喧嘩して、その子をたたいてケガさせてしまい、母親に連れられて謝りに行ったこともあるらしい。当時からケンカは強かった・・・(?)。
でもこのあたりは自分では覚えがなくて、いちばん古い記憶は弟の誕生のころです。私が3才8カ月のときに弟が生まれるのですが、母が入院し、父がご飯を作ってくれたこと(メインのおかずを忘れているのに、千切りキャベツがあったことは覚えている・・まさかキャベツだけだったわけじゃないんでしょうが)、祖母が手伝いに来てくれたこと、このへんははっきりした記憶です。このときの祖母のお土産はグレーのドレスの持ち手もついていてバック兼用のお人形で、そういう名前がついていたのか「ふくちゃん」と呼んで、持って歩いてました。そして、すごく恥ずかしいのが、この頃私はアクセサリーに凝っていて、ショートカットなのに、持っているだけの髪留め(パッチン留めとよんでました)を全部頭につけていたのです。7つも8つも・・。自分ではつけられないので、母に毎朝つけてもらっていたらしい。
母の入院中は「どの髪留めをどこにつけるか」までいちいち指定して祖母にやってもらっていたんだとか。そうしてオモチャのアクセサリーできらびやかにお洒落して、ふくちゃん人形を持って、祖母に手をひかれ、秋田のちいさな田舎町を弟のいる病院に連れられていっていた。病院では看護婦さんたちに「まあ、きれいねー」と言ってもらい、ご機嫌だったらしいです。本人はもう完全にお姫様のつもり。そのころはスカートが大好きで、冬でもズボンの上からスカートはいていたりもしました。だって、お姫様はスカートに決まってますもん。しかし、どういう美的感覚・・・。生まれた弟がお風呂に入れてもらうのを見て「わあ、赤ちゃんってピンクなんだ」と思いました。ピンクも大好きな色だったのです。
当時は「おおきくなったらなりたいもの」も当然「お姫様」。いっときは「今日はマリー」だの「今日はベル」だの勝手に名乗り、母にもそう呼んでもらっていました・・。「おうちでは呼ぶけど、よそのひとにはそうはよんでもらえないんだよ」と言われ、がっかりしたことも。結局、雅子さまや紀子さまにはかなわず(?)お姫様にはなれませんでしたが、大きなステージではドレスを着られるし、そういう意味では、なんとか夢はかなったのかも。いまもステージのときに髪をセットしてもらうと、美容師さんが「髪になにかアクセサリーつけましょうか?」と聞いてくれるんですが、当時の反動かあまりつけたくありません・・。そういえば、ちいさいとき「およめさんになりたい」と思ったことはなかったなー。それがよくなかったのかなー。ふと現実にたちかえる私。
さて、その後はお人形ごっこです。おりしもリカちゃん人形全盛期(まあリカちゃんはずうっといまに至るまでのロングセラーなんですが)。私はリカちゃんのほかに「ナナちゃん」というお人形がお気に入りでした。リカちゃんより少し背が高くて、大人っぽかったの。着せ替えのお洋服、靴、バックなどのこまごましたグッズもあって楽しかったな。
小学校にあがってからは、そのときどきに、いろんな遊びが流行りました。お手玉、あやとり、リリアン・・。そして自分ではちゃんと覚えていないのですが、親が必ず言うのが、割り箸を使った占いみたいな遊び。割り箸を何本もたくさん用意して、その両端を赤と黒に塗り、占い師の如く両手でそれを扱うのです。そうやって何かを占っていたのか、単なるゲームだったのか、まるきり記憶がないんですが、かなりはまっていたらしく、母は私の昔話をするときに必ずこの話をします。いったい、なんだったんでしょう。もし、こうした遊びに心当たりのある方いらっしゃいましたら、教えていただけませんでしょうか。
小学校高学年のころ、ユリ・ゲラーが登場。テレビで一緒にスプーン曲げをしていたら、くにゃっと曲がってしまい、怖くて泣き出してしまったことも。しかし、こうして書いていると、なんてまぬけな子供なの。まぬけついでにもうひとつ。小学3年生のときにはじめて雑誌の懸賞に応募してみたところ、全国でひとりにしか当たらない「スヌーピーバックとハンカチセット」が大当たり!翌月号で当選者欄に自分の名前を発見し、ビックリして、翌日熱をあげて学校を休んでしまいました。
最後に母がよくしていた話を。母はよく弟と私に本を読んでくれていたのですが、必ず「子供にきかせるおはなしは、結末が悲しいものはだめ。明るくて希望が持てるものでなくては」と言っていたのです。私はすっかりそれを信じ、以来ずっと心のなかのどこかにその教えがありました。つまり、悲しいこと、苦しいことは現実の生活のなかにいやおうなくあるので、せめてお話の世界ではハッピーエンドでいこう、という。現在の歌の仕事にも、それは反映されていて、あまり悲しかったり、暗かったりする歌は苦手で、のほほんとしたステージを作りたいな、と思っているくらいです。ところが、先日帰省したおりに、母にこの「おはなしハッピーエンド説」をいってみたところ、「えー?私そんなこと言ったっけ?全然覚えてない」とのことでした。確固たる育児方針だと思っていたのに・・。おまぬけは遺伝するのかもしれません。
今回はピアニスト加藤文生さんの新しいCD 「collage
for the childhood(子供時代のコラージュ)」を聴きながら書いてみました。
大越 康子
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