考古館2

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火焔土器考へ
三十稲場遺跡で表採した石斧用の砥石である。元々大きな石皿であったと思われるが、割れた後の再利用として砥石にしたようである。
上と同じ三十稲場である。こちらは割れる前から石皿と珠砥石の兼用として使用していたようである。裏、表、側面に幾筋もの溝が残っている。
馬高で表採の小型石皿である。中学生の頃見つけたもので、石器には見えず一度捨てたが気になってもう一度拾いに行った思い出の石皿である。
馬高最上部に位置する畑で表採したもので、かなり大きな石棒の頭部である。
馬高で表採の珠砥石である。石の表面自体も磨かれている。元々この数倍の大きさであったと思われる。
三十稲場の石棒である。同遺跡ではよくあるタイプである。
三十稲場の石斧。千年も続いた遺跡であるため、多様な形態が見られる。
各地の遺跡で表採した石核だが、すべて縄文中期から後期のものである。一般的には無土器時代のものが有名だが新しい時代でも同じように使っていたようである。
同じく三十稲場の磨製石斧。同じ遺跡でも中期後半から晩期までの形態を見ることが出来る。
朱彩土器である。上段が三十稲場、下段が馬高である。水銀の丹か漆、もしくわ酸化鉄(ベンガラ)かはよく分かりません。なかなか拾うのは難しいです。
中道遺跡の土器片。10数年前に表採したものです。全体が水田下に長年埋もれていた遺跡のため、発掘時に重機で表土が掘り起こされました。そのため土器片がかなり出ました。縄文中期の火焔土器から晩期の土器までが一緒に見られます。

馬高遺跡で拾った石棒です。昭和40年代後半頃に馬高遺跡南西側の藪が土地改良事業で切り開かれた際見つけたものです。ブルトーザーに轢かれ折れていましたが、2mくらい離れたところにもう一方を見つけ、セメントでくっつけました。