obstinasy


青天の霹靂というか。
八戒が何の前触れもなくやってくるのは、別に珍しいことじゃない。
しかし、今日ばかりは違っていた。
出迎えた悟空は、あまりにも驚きすぎて扉を開いたまま硬直する。
「悟空、こんにちは〜。お土産に栗饅頭持ってきましたよ」
その声音は相変わらず、涼やかで優しい。
しかし。
「八戒…その顔、どうしたんだ?」
真ん丸く瞳を見開いて、悟空は八戒の顔を注視する。
悟空が見上げた先の笑顔は、痣と滲んだ血で壮絶だった。






回廊をパタパタと軽快な足音が近づいてくる。
三蔵は筆を置くと、時間を確認した。
小さく溜息をつくと、椅子に背を深く沈める。
「さんぞー、お茶の用意できたよ〜」
珍しく普通に室内に入ってきた悟空に、三蔵は密かに握り締めていたハリセンを出しそびれた。
悟空は扉の前に困惑した表情で立ち竦む。
らしくもない態度に、三蔵は眉を顰めた。
「何かあったのか?」
椅子から立ち上がって、三蔵は悟空に近寄る。
手を伸ばすと、柔らかな大地色の髪をクシャッと撫でてあやした。
悟空は頭に乗っている三蔵の手を掴んで、じっと縋るように見上げてくる。
「あのさ…八戒が遊びに来てるんだけど」
「あ?ヒマ人が…また面倒ごとを持ってきたんじゃねーだろうな?」
三蔵は忌々しげに舌打ちすると、煙草を銜えて火を点けた。
「よく分かんねーんだけど…八戒がさ、スゴイんだよ」
「スゴイ?何がだ??」
要領を得ない悟空の説明に、三蔵は眉間に深々と皺を刻んだ。
「とにかくさ!三蔵も来てよっ!何か…八戒すっげぇコワイの!俺どうしたらいいか分かんねーから」
悟空は三蔵の手を取ると、グイグイと離れの私室に向かって引きずり出す。
「いてーんだよっ!バカ猿!!力任せに引っ張るんじゃねー!!」
無理矢理力任せに手を引かれて、三蔵が悟空の頭にハリセンを炸裂した。
嫌な予感がする。
予感と言うよりは確実に。

絶対下らねーコトに決まってる。

あんなバカップルには極力係りたくないし、巻き込まれたくもない。
出来ることなら、そのまま何事も無かった振りをしたかった。
それが三蔵の偽ざる本心だ。
悟空に廊下をズルズルと引っ張られつつ、この後の面倒ごとを考えると足取りも重かった。
嫌だ嫌だと思っていると、あっという間に私室へ着いてしまう。
「お待たせ〜!三蔵連れてきたよ〜」
悟空が声を掛けながら、扉を開けた。
「あ、三蔵。お邪魔してます〜」
いつもと変わらない、穏やかな声。
しかし三蔵は八戒の顔を見た途端、不信感もあらわに双眸を眇めた。

「おい、何のつもりだ?そのツラは」

お茶を飲んでいた八戒は切れた唇に滲みるのか、僅かに眉を顰める。
テーブルに湯飲みを置くと、バツ悪そうに頭を掻いた。
「あははは…大分男前が上がったでしょう?」
「一体何があったんだ?」
思わず聞かずには居られないほど、八戒の容貌は変わっている。
頬には赤やら青やら紫やらの痣だらけで。
唇や口角は切れて血が滲み、腫れ上がっている。
いつもの端正で秀麗な美貌は見るも無残に崩れていた。
「何が、と言われましても…見たままのとおりで」
飄々と八戒が答えるのに、三蔵は眉間を押さえながら椅子に腰を下ろす。
「言い方が悪かったか。悟浄と何があった?」
「え?悟浄と!?」
悟空は驚いて饅頭を食べていた動きを止め、三蔵を振り返った。
「どうして、そう思ったんですか?」
静かな声で八戒が問い返す。
「お前がそこら辺のクズどもにヤラれるようなタマか。そんな暢気な殴り合いになる前にさっさとトドメ刺すだろうが」
基本的に八戒は未だに人間不信の気があった。
表面上は物腰柔らかで、愛想もいい。
しかし、あくまでも自分が生活していく上で、そうする方が楽だと判断しているだけで。
テリトリーへ受け入れた人間以外には、分かりやすい程に冷徹だ。
その八戒が自分を傷つける相手に対して、容赦するはずが無い。
自分に被害が及ぶ前に、確実に片を付けるだろう。
でも実際、八戒は悲惨な傷を負っていた。
と、言うことは。

相手が自分に触れることを許しているモノ。
たとえそれが、自分に対して傷つける行為だとしても。
そうすることさえ許容しているモノ。

八戒に対してそんなことが出来るのは、ただ一人しか居ない。
「ったく…テメェらの痴話喧嘩なんか、いちいち持ち込んでくるんじゃねーよ」
三蔵は椅子にふんぞり返って、心底嫌そうに煙草をふかした。
八戒は微笑もうとして、引き攣る痛みに口元を押さえる。
「痴話喧嘩なんかで、こんなになってたら僕の命が持ちませんよ」
言われて見れば確かに。
今回のはバカップルの下らない痴話喧嘩にしては、些か行き過ぎのような気もする。
「じゃぁさ…それ…本当に悟浄がやったの?」
悟空が心配そうに八戒の顔を覗き込んだ。
八戒は小さく首を傾げ、苦笑する。
「まぁ、そうなんですけどねぇ」
「ええっ!悟浄が八戒のこと殴ったの!?」
悟空にとっては心底以外だったらしい。
日々、悟浄との過剰なスキンシップで鍛えられている悟空は、俄に信じられなかった。
じゃれ合いの延長で殴ったり蹴ったりもするが、悟浄は決して本気で相手を傷つけようとはしない。
自称フェミニストで、女性には無条件で優しいし、手を上げることもなかった。
女性相手でさえそうなのだから、ましてや八戒に大して本気でここまで殴りつけるとは思えない。
ただ驚愕に眼を見開いていると、隣で三蔵が深々と溜息を零した。
「で?アイツの方はもっと重傷か?」
「どうでしょうねぇ?出てくる時に、玄関先で血吐きながら失神してましたけど〜」
平然と恐ろしいコトを口にしながら、八戒はのんびりと茶を啜る。
さすがに三蔵も絶句した。
悟空も隣で三蔵の袂を縋るようにギュッと握り締める。
「なぁ…悟浄…生きてるの?」
恐る恐る悟空が八戒に尋ねた。
「……………多分」
ますます悟空は三蔵に縋り付く。
一瞬の間が何となく怖かった。
「あははは、大丈夫ですよ〜。あのヒトの取り柄なんて身体が頑丈なぐらいなんですから」
「でっ…でも…血ぃ吐いたって」
「せめてソレぐらいはダメージ受けて貰わないと。僕の気が治まりません」
「ナニやらかしたんだ…あのバカは」
いい加減諦めたのか、三蔵は話を聞く体勢になる。
「聞いて貰えますか?」
「鬱憤晴らしに来たんだろうが…」
三蔵は少し温くなった茶を口に含んだ。
湯飲みを握り締めた八戒の手が小さく震える。
「悟浄ってば…酷いんですっ!」
突然激昂しながら、八戒は思いっきり湯飲みをテーブルに叩きつけた。
その音に悟空が驚いて飛び上がる。
「うわっ!?ビックリしたぁ…悟浄何したの??」
八戒がぐるんと悟空に向き直り、真っ直ぐ見つめてきた。
何となく視線に殺伐としたモノを嗅ぎ取って、悟空は椅子の上をずり上がる。
「悟浄ってば…僕が楽しみに集めていた福引きの補助券を、勝手に持ちだして酒場の女性に上げてしまったんですっ!!」
「………え?」
「………何だと?」
三蔵と悟空は思わず聞き返してしまった。

福引きの?
補助券??

「ですから、福引きの補助券ですよっ!五百円お買いあげ事に1枚補助券が貰えて、5枚集めると福引きが1回引けるんです」
「いや…俺が聞きたいのはそうことじゃねー」
三蔵が眉間を抑えながら問い質そうとするのを、八戒がすかさず言葉を重ねて制する。
「商店街で秋の彩りセールが始まって、僕はコツコツ補助券を集めてたんですよ?丁度セールが始まる前に色々買い出ししちゃった直後だったので、節制しながらも地道に溜めて冷蔵庫にマグネットで貼り付けて置いてたんです…そうしたらっ!!」
俯いた八戒の肩が小さく震えだした。
「あ…の…八戒?」
悟空が慰めるべきかと声を掛ける。
その声に反応して、八戒がガバッと顔を上げ身を乗り出してきた。
「あと1枚で1回引けたのにっ!悟浄ってば酒場で馴染みの女性が補助券集めてるのを聞いたからって、僕に何の断りもなく勝手に持ち出してホイホイ上げちゃうんですよ!あんまりだと思いませんかっ!?」
「そ…そ…だね…うん」
鬼気迫る迫力に、悟空はコクコクと相槌を打つ。
ふと八戒は表情を寂しげに曇らせて、窓の外へと視線を向けた。
「今回の福引き、特賞が温泉旅行ご招待だったんですよ…2名様ペアで。最近出来たらしいスパリゾートで、雑誌の特集記事読んだ悟浄が行きたがってましてねぇ」
八戒が愁いに満ちた溜息をそっと漏らす。
「そんな僕の気持ちなんか…悟浄はこれっぽっちも分かってくれないんです」
「八戒ぃ…」
悟空は瞳を潤ませて八戒に同情した。
「悟空は分かってくれるんですね…」
ガシッと八戒が悟空の手を握り締める。
悟空も握り返した。
「うんっ!悟浄のヤツひでぇよっ!八戒がすっごく楽しみにしてたのに、女の人に上げちゃうなんて…あのバカエロガッパ!!」
何だか悟空までもが悟浄を非難し始める。
「…バカ猿」
溜息混じりに三蔵がボソッと呟いた。
「何だよっ!三蔵だって酷ぇって思うだろっ!」
「たかが福引きの補助券で、そこまで派手なケンカが出来るとは…テメェらは本当にお目出たいバカップルだな。くだらねぇ」
「何で三蔵まで酷いことゆーんだよっ!」
「テメェは黙ってろ、猿」
ジロリと一睨みされ、悟空は頬を膨らませながら拗ねる。
三蔵は栗饅頭を手に取ると、悟空の口に押し込んだ。
「これでも食ってろ」
ムッとして悟空は三蔵を睨むが、栗饅頭を飲み込むとどうでも良くなったらしい。
そのまま夢中になって、モクモクと食べだした。
呆れた視線で悟空を一瞥すると、三蔵は八戒の方へ向き直る。
「で?お前はどうする気だ」
「3日間ほどお世話になります」
「…何だと?」
三蔵が胡乱な表情で八戒を睨んだ。
八戒は全く怯むことなく、笑顔を浮かべながら首を傾げる。
「僕、実家に帰るって飛び出して来ちゃいましたから♪」
「いつからココがてめぇの実家になったんだよ」
「だって、『猪八戒』としての僕はココで産まれたようなモンでしょう?産まれた場所が実家だって言うなら、間違いなくココが僕にとっての実家です」
「…それなら斜陽殿じゃねーか」
「さすがに斜陽殿にはお邪魔できませんよ。これ以上私的なことでご迷惑は掛けられませんから」
じゃぁ、俺になら迷惑かけまくってもいいのか?と、三蔵は苦々しい表情で煙草のフィルターを噛み締めた。
尤も八戒に言い返したところで、適当に流されて終わりだ。
いちいち突っかかるのもバカらしい。
「まぁ、いいだろう。前にお前が使っていた部屋、物置になってるから適当に片づけて使え」
「ありがとうございます。その代わりお世話になっている間、貴方が仕事している時間は僕が悟空の面倒みますから」
「それぐらい当然だろ」
「え?俺がなに??」
突然話を振られて、悟空がきょとんと三蔵を見上げる。
それには答えず、三蔵は黙って悟空の口に饅頭を詰め込んだ。
「で?3日間で片づくんだろうな」
「…3日間が限界でしょうね」
「限界?」
三蔵は意味が分からず眉を顰める。
「1日目は…悟浄も怒るだけ怒って、僕に対して思いつく限りの罵詈雑言を吐きまくってるでしょうねぇ。後はここぞとばかりに街へ遊びに出かけるか」
「だろうな」
そんなことは三蔵でも容易に想像がついた。
「2日目は、僕が居ないことに少し違和感を覚えるんですよ。でも悟浄は大概意地っ張りですから、何でもない振りをするんです。それでも気になって…あのヒト、出かけることが出来ないんですよ」
「…ほぅ?それで」
「そして3日目…とうとう我慢の限界が来て、違和感が不安に変わるんです。もしかしたら僕がこのまま帰ってこないんじゃないか、僕が悟浄に呆れて、自分は見捨てられたんじゃないか、僕を失ってしまうって、悟浄は突然の損失感に押しつぶされそうになるんです。そこが精神の限界です。そうなると唯の痴話喧嘩じゃ済まなくなる。僕は悟浄の心を傷つけたい訳ではありませんから」
「もう、ボコボコにしてきたんだろうが。今更何言ってやがる」
「あははは。それはそうなんですけど…痛っ」
切れた口端を押さえて、八戒が小さく呻いた。
三蔵は不機嫌さを隠しもせずに、深々と溜息を吐く。

今の話はそっくりそのまま八戒自身にも当て嵌まる。

ようするに、八戒の限界も3日間だと言うことだ。
裏を返せば。
それだけ互いに離れがたく、依存しあって生きている。
ただの惚気話じゃねーか。
しかも八戒本人には自覚がないときた。
質が悪いってもんじゃない。

「…バカくせぇ」
ついつい、三蔵は本音を漏らした。
三蔵の横柄な態度に八戒も苦笑する。
「ご迷惑おかけします。まぁ、実を言うと3日以上悟浄を一人にすると、家の中が大変なことになるんですよ。ずっと一人暮らしだったくせに、最近悟浄ってば僕に頼りきりで何にもしないんです。きっと3日間開けただけでも帰ったら家の中滅茶苦茶で、掃除が大変でしょうねぇ」
「…ドコの子供だ、あのバカは」
「手が掛かるところは同じですよ」
そう言う割りに、八戒は嫌な顔をするどころか嬉しそうに頬笑んだ。
ますます三蔵の眉間に皺が寄る。
「テメェらの惚気はもういい。どっちみちお前がココに居ることはバレてるんだろうが」
「でしょうねぇ。僕は他に行く所なんてありませんから」
「ったく…意地なんか張ってねーで、さっさと迎えに来て謝りやがれ、クソガッパ」
三蔵は忌々しげに舌打ちした。
「無理だと思いますよ。言いましたでしょ?悟浄は意地っ張りだって」
「もういい、とにかく俺は関知しねぇ。勝手にしろ」
「すみませんね」
立ち上がる三蔵に、八戒は小さく頭を下げる。
三蔵は表情を変えることなく、壁際の棚に視線を向けた。
「薬箱ならそこの棚にある。適当に使え」
「ありがとうございます」
仕事に戻る三蔵を見送ると、いつの間にか眠ってしまった悟空をそっと椅子から抱き上げる。
起こさないように静かに寝室へ向かうと、ベッドの上に降ろして布団を掛けた。
気持ちのいい風が開け放した窓から吹き抜ける。
窓枠に手を付くと、八戒は遠くの空へ視線を向けた。
「今頃悟浄は何していますかねぇ…」
小さく一人言ちると、八戒は熱を持つ口端を指で触れる。

悟浄に殴られたトコロが、心が。
痺れるように痛かった。






「それじゃ、お世話になりました」
「…悟浄、迎えに来なかったね」
門の所まで見送りに来た悟空が、小さく呟いた。
何だかムッとむくれている悟空の頭を、八戒は微笑みながら優しく撫でる。
「そんなに怒らないで…最初から分かってましたから」
「でもっ!」
悟空はなおも言い募ろうと顔を上げると、八戒が小さく首を振った。
「いいんですよ。元々今回のケンカは悟浄に非があること…本人が一番良く分かってるんです。だから尚更どうしていいか困惑してると思いますから」
「何か…それってヘンなの。悪いって思ってるならさっさと謝っちゃえばいいんじゃねーの?」
不思議そうに悟空は首を傾げる。
「嫌いになったんじゃないんだから、早く仲直りすればもっといっぱい仲良くできるだろ?それに好きな人と楽しくできねーのって、つまんないじゃん。一緒にいるのに離れてるのって勿体ねーと思うんだけどなぁ」
「悟空…」
八戒は驚いて言葉に詰まった。
何となく目から鱗が落ちた気分だ。
「八戒?どーしたの??」
いきなり動かなくなった八戒に、悟空が声を掛ける。
八戒は泣き笑いのように表情を歪めると、突然腹を抱えて笑い始めた。
「ちょっ…八戒?いきなりどうしたんだよぉ〜っ!?」

悟浄と居ると、毎日が楽しくて仕方ない。
悟浄と居ると、たまにどうしようもなく腹が立って衝突してしまう。

それさえも。
お互い一緒にいなければ、何の意味もないのだ。
唐突に気付いてしまった。
悟浄と一緒だから、僕は僕でいられるんだと。
何でこんな簡単なことに、今まで気付かずに居たんだろう。
悟空の言葉を借りるなら、本当に勿体ないことをしていた、と。

一頻り笑って、八戒は漸く上体を起こした。
「八戒…?」
「悟空、ありがとうございます」
「え?俺??」
訳が分からず八戒の顔を見上げると、鮮やかなほど綺麗な微笑みを浮かべている。
その笑顔に、悟空は何かを感じ取ったらしい。
同じようにニッコリと八戒に笑い返した。
「気を付けて帰ってね。今度は俺が遊びに行くからさ」
「ええ。お菓子をいっぱい用意して待ってますからね」
「うんっ!悟浄にもヨロシク言ってな」
「はい、伝えておきますね」
「またねーっ!!」
門の所から悟空が元気いっぱい手を振って見送る。
何度もそれに笑顔で返しながら、八戒は清々しい気分で山を下りていった。


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