あなたへの月 |
ある夜、猫を拾った。 泥で全身汚れまくって、力無くゴミ置き場に横たわっていた小さな存在。 気紛れでも何でもなく。 その時の俺にはソイツが必要だった。 「…犬でも飼え」 フラッと悟空を伴ってやってきた金蝉が、部屋を見回して唐突に言う。 フローリングの、物があまり無い部屋。 収納が充実しているので、余計な家具類も置いてなかった。 間仕切りのないフロアにあるのは、シンプルな革張りのソファと仕事用の製図台にパソコンだけ。 「何だよ急に…」 キッチンから戻った捲簾は、目を丸くしながら金蝉へとコーヒーの入ったマグカップを渡す。 悟空には大好物のココアを渡した。 「此処はペットの飼育はいいんだろ?」 「あぁ…そうみてぇな。俺は単純に事務所が近いから選んだんだけど」 このマンションは立地条件が良かった。 幹線道路から近場で利便性が良いが、横道にはいるので割と閑静な住宅街だ。 近くに私鉄の駅もあるので、商店街もあり買い物にも困らない。 我ながら良い物件が見つかったと、捲簾は思っていた。 捲簾がこのマンションに引っ越して半年。 前の設計事務所から独立して事務所を開設する際、必死になって探し当てた場所だった。 あの頃は…毎日二人で… 「…捲簾」 物思いに耽りそうになった瞬間、強い語気で金蝉に呼ばれる。 捲簾は我に返ると、苦笑いをして髪を掻き上げた。 「ワリ…」 あまりに儚い笑みを浮かべる捲簾を見遣って、金蝉は溜息を零す。 「仕事をしてる時はテメェだって思い出したりしねーんだろうがな。夜に此処は広すぎるだろ」 だから、犬を飼えと金蝉は言う。 捲簾は少し思案するが、緩く首を振った。 「ダメだろ?犬って毎日決まった時間にちゃんと散歩とかさせねーと。俺は仕事の納期によっては生活も不規則だし。きちんと面倒看てやれる自信がねーよ」 「ケン兄ちゃん、それだったら俺が犬の散歩してあげるっ!」 ソファに寄りかかってココアを飲んでいた悟空が、捲簾を見上げて瞳を輝かせる。 悟空の頭をガシガシ撫でながら、捲簾は小さく肩を竦めた。 「悟空にはポチが居るだろ?1匹だって面倒看るのは大変だろうーが」 「大丈夫だよっ!俺近所のおばちゃんに頼まれて、たまに2匹散歩させたりとかするし!」 「…やっぱダメだ、悟空」 「いーじゃねーか。コイツはこれでも犬の扱いには慣れてるし、問題ねーだろ?」 金蝉が口を挟むと、捲簾が再度首を振る。 「それじゃ俺が飼う意味ねーじゃん。飼うからにはきちんと面倒看るのが飼い主じゃねーの?犬だってホイホイ面倒看る相手が変わったら戸惑うじゃねーか。そんな俺の都合で振り回しちゃ可哀想だろ」 捲簾は息を吐くと、マグカップに口を付ける。 考えなかった訳じゃない。 捲簾は子供の時から犬が好きだった。 実家では昔犬を飼っていて、いつでも捲簾が面倒看て可愛がっていたから。 どうせ飼うなら将来家を建てて、大型犬を飼いたいとさえ思っていた。 だけど。 今はそんな状況じゃない。 でも正直、金蝉の言うとおり。 誰も待っていない暗い部屋へ帰ってくるのは気が滅入っていた。 ふと一人で居ると。 考えたくなくて脳裏から追いやっている現実に、心が押しつぶされそうで。 誰かを、呼んでしまいそうになる。 気乗りしない様子の捲簾を、金蝉と悟空は心配そうに見つめた。 たった3ヶ月で。 こんなにも変わってしまうものなのか。 今の捲簾は存在感が希薄だ。 金蝉と悟空の知っている捲簾は。 生命力と自信に満ち溢れ、調子が良く人懐っこい人柄で。 軽薄かと思えば案外思慮深く、卒無く計算高かったりもした。 何時会っても生きてる時間を振り返らず惜しまず。 何にでも楽しそうに一分一秒を謳歌して。 そして。 傍らには必ず捲簾にとって唯一無二の存在があった。 でも、今此処に。 ”彼”は居ない。 「…アイツの様子はどうなんだ?」 金蝉が溜息混じりに重い口を開く。 捲簾は傍らにカップを置くと、指を組んで少し考え込んだ。 「んー…相変わらずってトコかな。でも昨日は結構顔色が良かった。手ぇ握るとすっげーあったかくってさ」 捲簾が幸せそうに頬笑む。 その痛々しい表情に、悟空は居たたまれなくて俯いてしまった。 「天ちゃん…早く起きればいいのに」 悟空の小さな呟きに、金蝉は何とも言えない表情を浮かべる。 捲簾はただ黙って、窓の外を眺めた。 天蓬は捲簾の恋人だった。 捲簾が勤めていた設計事務所に、まだ学生だった天蓬がバイトに来たのが初めての出逢い。 ちょっとお目にかかれない程の美麗さに捲簾は目を奪われた。 最上級のルックスに反して、性格は大雑把で物臭。 自分の美貌にさえ無頓着で。 そのギャップが捲簾は大いに気に入った。 細々とした用事は勿論、CADを扱える器用さで捲簾はしょっちゅう天蓬を自分の仕事に加える。 人当たりも良く、何しろ超絶美形だ。 クライアント先へ連れて行けば天蓬の笑顔と物腰で、難航しそうな契約も一発で決まった。 仕事以外にも自然と連れ立っていることも多くなって。 気が付けば天蓬に抱き締められていた。 泣きそうな声音で、捲簾を必死の形相で掻き口説いてくる。 捲簾にゲイやバイの性癖はなかったが、天蓬なら良いと思った。 しょうがねーなぁ。と情けない顔をしている天蓬に自分から口付けたら、思わず噴き出しそうなほど間抜けな顔をして。 ずっと可笑しくて笑ってたら、逆ギレした天蓬にベッドへ押し倒されてしまう。 それでも全然嫌とか思わなかったから、縋り付いてきた天蓬の身体を強く抱き締めてやった。 何か全然余裕が無く身体に噛みついてくる天蓬が可愛いなとか。 あぁ、そっか。俺コイツが好きなんだ、って今更ながら気づいたから。 お前が一人だなんて心配でムカツクから、ずっと面倒看てやるって言ってやった。 そしたら。 俺が今まで見てきた中で一番綺麗にアイツが笑ったりしたから。 天蓬がいつでも俺の側で頬笑んでいられればいいのにって思った。 でも。 もう、天蓬が俺に頬笑むことは永遠に無い。 天蓬は今。 真っ白い清潔な部屋で、沢山の器械やチューブに繋がれて眠っていた。 掌で触れればあんなに暖かいのに。 捲簾が必死に呼べば、いつも寝惚けながら悪態を吐いて目を覚ますのに。 どんなに身体を揺すっても大声で叫んでも。 天蓬にはもう誰の声も届かなかった。 3ヶ月前。 たった一欠片のコンクリートの瓦礫に、捲簾は天蓬を奪われる。 駅前から幹線道路を通り抜けて、天蓬は捲簾のマンションへ通っていた。 いつもと変わらない、夕暮れの街並み。 丁度幹線道路から脇道へ入る角の敷地で、ビルの解体工事が行われていた。 大分解体作業は進んでいて、上部には鉄骨の骨組みが見えている。 仕事の帰りに捲簾のマンションへ向かっていた天蓬が、そのビルの真下を通りかかった。 その時。 大きな叫び声が空から聞こえてくる。 反射的に真上を見上げた天蓬の目前に、倒れてくる防護ネットと大きな鉄骨。 そして、崩れ落ちてきたコンクリート片。 咄嗟に天蓬は腕で頭を庇った、それでも。 多量のコンクリートが天蓬へと無情にも襲いかかってきて。 漸く壁の崩壊が治まった時。 倒れ込んでいる天蓬の周りには真っ赤な血溜まりが出来ていた。 連絡を受けた捲簾と金蝉が搬送先の病院へ駆けつけた時には、あちこち傷だらけの天蓬がベッドに横たわり、医師や看護士達に慌ただしく囲まれていて。 穏やかな呼吸を繰り返す姿に安堵したのもつかの間。 意識を取り戻すのは難しい、と。 もし、目覚めることが在ればそれは奇跡に近い。 そう宣告された。 視界が歪んで、身体が崩れ落ちそうになる。 何もかも失ったような絶望感に目の前が暗転した。 でも。 涙はこぼれなかった。 金蝉に支えられながら、捲簾は笑った。 一人狂ったように大声を上げて、笑い続けた。 そうしていないと、心が壊れそうで、怖くて。 それから1週間、捲簾にはその間の記憶が抜け落ちていた。 現実に引き戻してくれたのは、小さいけど無垢な存在。 ケン兄ちゃんまでいっちゃヤダよぉ! 悲痛な叫びに心を掴み戻された。 正気に戻れば、そこは金蝉の家で。 傍らには目を真っ赤にした悟空が、捲簾に寄り添っていた。 あれから3ヶ月。 捲簾は毎日仕事の合間を縫って、病院で眠る天蓬へ逢いに行く。 天蓬の寝顔を眺めながら、仕事や金蝉と悟空の話、とりとめもない日常を話しかけた。 いつか、目を覚まして。 捲簾に綺麗な笑顔を見せてくれることだけを信じて、ずっと。 「猫だけはやめろよ」 「え?」 ぼんやりと窓の外を眺めていた捲簾に、金蝉が釘を刺した。 「なーなー、金蝉!何で猫はダメなの?」 無邪気に悟空が金蝉の袖口を引っ張る。 「猫ねぇ…どうせ何か動物飼うなら、猫の方がいいかも」 「だから、やめておけと忠告してる」 「何で?」 珍しく高圧的な物言いの金蝉に、捲簾は不快を示すよりもまず驚いた。 天蓬の幼なじみである金蝉は獣医をやっている。 捲簾の仕事場である設計事務所の近くで、動物病院を開いていた。 以前何で獣医を選んだのか金蝉に訊いたことがある。 すると、金蝉は不機嫌そうに捲簾を睨み付けて。 動物は嘘もどうでもいい虚栄心もねーからな。 人付き合いが苦手な、というより預かっている悟空がいなければまともにコミュニケーションも取れない金蝉らしくて、思わず笑ってしまった。 その獣医である金蝉が。 頑なに猫を飼うことをやめろと言う。 勿論獣医である金蝉は猫嫌いでも何でもない。 それなのに、一体どういうコトだろうか。 不思議に思って見つめ返していた捲簾に、金蝉は思いっきり顔を顰めた。 「猫の気質は…誰かを余計思い出すだろーが」 「あ…」 捲簾は金蝉の言わんとしていることを察して、言葉を詰まらせる。 気紛れで気分屋で。 構って欲しい時には擦り寄ってくるクセに、必要以上に構うと嫌がったり。 ついでに言えば風呂嫌いだ。 まるで、誰かを思い起こさせる。 「そういやぁ…前に天蓬って猫みてーだって思ったんだよな」 無意識に捲簾が呟くと、金蝉が大きく溜息を零した。 「だから、止めておけ。自分を追い込むような真似すんじゃねーぞ。俺が迷惑だ」 「何だよーひでぇなぁ〜あっはっは!」 嫌そうに吐き捨てる金蝉を、捲簾は豪快に笑い飛ばす。 「なぁ、ケン兄ちゃん!猫飼ったら遊びに来ていい?」 動物好きな悟空は、期待に瞳を輝かせた。 捲簾は小さく首を竦めると、悟空の頭をポンッと叩く。 「んー、まだ分かんねーけど。金蝉パパがダメだって怒るしぃ〜?」 「誰がパパだっ!」 「えぇ〜っ!金蝉いいじゃんっ!猫も可愛いよ?」 「可愛いってだけで飼えるモンじゃねーんだよ、バカ猿!」 「もぅっ!またサルっていったぁーっ!!」 癇癪を起こした悟空が金蝉の腰へ突進した。 大騒ぎしだした仲の良い疑似親子に、捲簾は微笑みを浮かべる。 「やっぱ…猫飼おっかなー」 捲簾の呟きに、金蝉と悟空が振り向いた。 「…本気か?」 疑心暗鬼で問い返す金蝉に、捲簾は笑って頷く。 「そ。別に自虐的になって言ってんじゃねーぞ?やっぱここ俺一人じゃ広すぎるしさ。動物って居るだけで癒しになるじゃん。此処へ帰ってくる張り合いも出来るしな。金蝉なんか宛ねーか?別に純血種じゃなくても…誰か病院の客で猫の貰い手探してる人とかさ〜」 具体的に話を進めだした捲簾に、金蝉が呆れた顔を見せた。 どんな存在でも、今の捲簾には生きていく張り合いが必要だ。 金蝉はソファにドッカリ腰を下ろすと、暫し考え込む。 「特に引き取り手を捜してるって話は来てねーな。来院者に話を通してやるが…すぐに見つかるかどうか分からねーぞ?」 「いーよ、何でも。あ、俺毛の長いヤツじゃないのがいい。そんで、勿論利口で別嬪さんなニャンコ探してくれよ♪」 「…思いっきり贅沢言ってんじゃねーか」 金蝉は額を抑えながら眉間に皺を刻んだ。 そんな話をしていた5日後。 捲簾は近所のゴミ置き場で、か細い呼吸を繰り返す真っ黒に汚れた猫を拾った。 |
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